日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム」(論)から「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由」展を巡る「表現の自由(不自由)」云々に関する論議を考えるとき(続)ー

2019-08-20 | エッセイ

前回の記事を本日、投稿した後で、少し気になったことがあったので、今日また記事を投稿した次第である。詳しい話は次の機会にしたい。もっともそうは言っても、また同じ話の繰り返しだから、読者の皆様には申し訳ないと言うしかないのだが。

「システム」(論)から「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由」展を巡る「表現の自由(不自由)」云々に関する論議を考えるとき(続)ー「少女像」を前にして私たちが置き去りにしてきた問題を再考するとき

 おそらく「戦争犠牲者」は浮かばれないままだろう。従軍慰安婦であれ、原爆の犠牲者であれ、特攻隊の犠牲者であれ、戦争の「加害者」、「被害者」を含めたあらゆる犠牲者たちは、今も泣いているのではあるまいか。詳細は拙著『覇権システム下の「民主主義」論ー何が「英霊」をうみだしたか』(御茶の水書房、2005年)やその他の拙著、拙論を参照されることをお願いしたいのだが、前回「どうでもいい」話云々に関して補足言及しておきたい。 何のための「少女像」の展示なのか。日本の「侵略戦争」を糾弾するためなのか。侵略戦争がなければ、あのような「慰安婦」たちの「悲惨な」人生を送ることを阻止できたとでも言いたいのだろうか。前回の記事でも書いたように、日本の侵略戦争を告発し続ける韓国も、中国も、そして北朝鮮もまた今後その告発国の一員に加わるのだろうが、どの国も偉そうに糾弾する資格はないのではあるまいか。勿論、この議論は日本の侵略を棚上げにするためのものではない。問題にしたいのは、私たちのこれまでの議論は戦争犠牲者を二度とつくり出さないための議論であったのか、ということである。 その答えはあまりにも明白ではないか。今も世界の至る所で戦争犠牲者は生み出されているし、次から次にそれこそ「多国籍」の「少女像」の設置が求められているではないか。二度と原爆の犠牲者を出さないように、と嘘をついた結果があのフクシマではなかったろうか。私たちは嘘に嘘を重ねて生き続けている。生き残るためには必要だろうが、無理して前にしゃしゃり出てすぐわかるようなうそを言うことは控えられるのではあるまいか。このことは、韓国と日本の政治指導者にも該当する。 戦争犠牲者を「犠牲者」として遇する議論を私たちは果たしてこれまで展開できたのだろうか。私から見ると、そうする代わりに、生きている者たちの「利害」を代弁するだけの話に終始している。「少女像」の展示に反対する者たちも、当然ながら彼らの利害に依拠して行動しているのは言うまでもないことだ。展示に反対する人たちは、戦争犠牲者を二度と出さないための立場からの反対ではない。それゆえ、少女像に象徴される戦争犠牲者にとっては、「どうでもいい」そんな類の議論となるのである。この続きはまた後日にしたい。

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