日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム」(論)から「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由」展を巡る「表現の自由(不自由)」云々に関する論議を考えるとき

2019-08-20 | 社会 政治
「システム」(論)から「あいちトリエンナーレ2019」での「表現の不自由」展を巡る「表現の自由(不自由)」云々に関する論議を考えるとき

表現の自由とか、その他の自由(市民的権利〈人権〉)を巡る議論に際して、私たちがいつも銘記しておかなければならないのは、私たちが歴史のどの「段階」で生きているのかということである。すなわち、システムとその関係の歩みを念頭に置きながら、この種の人権に関する議論に向き合うことが大切だと、私は考えている。ところが、現実におこなわれる論議は、私から見ればいつも何か大事な問題を俎上に載せる代わりに、かすっただけの、それこそ「どうでもいい」ような話に終始してそれで終わりというかうやむやとなるだけなのだ。

「自由」や「不自由」さはどこから来るのか、導かれるのか、換言すれば、私たちが手にしている市民的権利はいったいどのようにして実現されてきたのか、という問いには一切答えないのである。そうした問いかけに替えて、「憲法」を議論の出発点として、安易に取り出してくるのだ。だから、私はいつも問うてきたのである。それではそうした市民的権利、人権を保障する「憲法」はどのようにして実現できたのか、と。誰もまともな返答をできなかったということを、私はこれまでの拙著や拙論で語ってきた。残念ながら、今もそうである。

これに対して、私は私のモデルで描いたあのセカイを前提として考えることが大切だと論及してきた。私たちの自由はあのセカイの三つの下位システムから構成される一つのシステムの差別と排除の関係を基にして展開されているのである。表現の自由とか不自由を喧しく論ずる前に、まずはそのシステムの差別と排除の関係こそを俎上に載せるべきなのだ。何度もこのブログ記事でも語ってきたが、これまた如何せん、どうにもならないのだが、とにかく書き残しておきたい、ただそれだけである。

日本の「侵略」は、私のモデルで描いたシステムとその差別と排除の関係の歩みの中でおこなわれたのだ。憲法が「人権」を認めなかった大日本帝国憲法であったためではない。人権を認めた日本国憲法であれば、侵略戦争は起こらなかったというのは嘘である。すぐわかるように、人権の最先進諸国であったイギリスやフランスやアメリカは、その人権保障の憲法を手にして侵略戦争を繰り返してきた。

アメリカによるベトナム戦争もその一つだが、韓国軍のベトナムに対する「侵略」はそうしたベトナム戦争を契機としていた。多くのベトナム人女性が韓国軍人の「性」奉仕者として強要されたことは、これまた歴史の「事実」ではあるまいか。日本の植民地支配を糾弾してやまない韓国であるが、その植民地支配は、{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)の中で引き起こされたのである。他国のことはとやかく言いたくないのだが、私はシステム論者だから、日本の中に韓国も、中国も、またその他の国も「システム」を構成する関係として含まれていると捉えていることから、韓国に対しても「ベトナム人の少女像」がたくさん必要となるとみている。

これは韓国だけの話ではない。中国のアフリカに対する「侵略」も、日本の中国に対する「侵略」と関連付けて議論すべきことである。付言すれば、日本の中国に対する侵略は1970年代以前の先のモデルで示されるシステムとその関係の歩みの中で見られたのに対して、中国の侵略は{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)のシステムとその関係の歩みの中で展開されている。そのモデルのBの先頭に位置する中国と一緒になって、日本は勿論、韓国も、他の先進国もCのアフリカに対する「侵略」に加担しているのだから、もうそろそろ「侵略」とか「戦争」云々の議論も、人権や憲法と切り離して、言い換えれば、システムとその関係の歩みと結び付けて再検討されてしかるべきなのだ、と私は訴えているが、これまた犬の遠吠えとなるのも仕方がない。それは気にすることではない。私はただこれからも書き残しておくだけである。

最後に、今回の記事とは関係のないと言えばそれも少し違うのだが、前回の記事の「れいわ」に関して一言付言しておきたい。「消費税の廃止」は結構なことだし、私も大賛成だが、そのための財源を国債に求めるのはいかがなことかと思う。たとえ、その国債を日本人が購入するとしても、金持ちの日本人が購入するのに違いはない。非正規やアルバイトの者ではおそらくないだろう。彼らとその子供たちには「借金」に違いないから、返さなければならない。そのためにまた国債となれば、また富裕層やそれと結びついた権力者層の支配をさらに受けざるを得なくなり、何のための世直しかということになってしまうであろう。

それを避けるためにも、消費税の廃止と必ず結び付けて議論すべきは、直接税の見直し、簡単に言えば、お金を持っている、より多く稼げる人には、より多くの負担をお願いするしかないだろう。そのためにも、なぜお金を持っているものが負担をより担わなければならないのか、の理由付けが必要となる。ところがこの理由付けは難しい哲学的問題である。「れいわ」はその理由付をしておかなければならない。安直な再分配論ではどうにもならなくなるだろう。

先ずは隗(かい)より始めよ、である。国会議員は、障碍者であれ、健常者であれ、国会議員であり、高額所得者なのだ。「あるところから取るしかない」云々と参議院選挙の選挙中の訴えは、まず自ら襟を正して、公的介助に関する費用の議論は、お金持ちのその他の政党の議員との「談合」ではなく、率先して自らの具体策を提示すべきではあるまいか。お金のない、余裕のない健常者・障碍者から見れば、障碍者の国会議員は特権者なのである。ここを忘れてしまうと、折角の支持上昇も先が続かなくなる。同時に、あの二人の障碍者のイメージを悪くさせることにもなりかねない。国会議員は、その地位と収入に見合った自己負担をすべきなのである。そこに「普通」の障碍者の抱えている問題を含ませるとすれば、特権階級である国会議員の給料(歳費)の見直しや議員削減の問題にまで踏み込めなくなってしまうではないか。改革の順番を間違えてはいけないのである。

また、詮無いことを書いてしまったが、ただ静かに書き残しておきたい。
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