日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めて「新自由主義」を巡る議論を再考するとき

2024-10-06 | 日記
私の語る「システム」論から、改めて「新自由主義」を巡る議論を再考するとき




(最初に一言)


 今回記事では、前回記事の流れを受けて、「新自由主義」が登場するに至った背景とその政治路線を導くに与った1970年代以降から今日に続く{[B]→(×)[C]→×「A」}の図式で描かれる「システム」のAにおける「低度化」とそれに呼応する「システム」のB、Cにおける「高度化」のそれぞれの「段階」の関係について考察してみたい。


 先ずは、話の前段として、新自由主義を誕生させた背景は、1970年代に至るまでの〈「システム」とその関係の歩み〉を銘記しておかなければならない。すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}の図式で描かれる「共時態型モデル」と、〈「システム」の「高度化」の「段階」〉の図式で描かれる「通時型モデルである。それは、〈第Ⅰ期の[権威主義的性格の政治→経済発展]〉から、〈第Ⅱ期の[経済発展→分厚い中間層の形成]〉そして〈第Ⅲ期の[分厚い中間層の形成→民主主義の発展(高度化)]〉へと続く「高度化」の歩みである。(なお、それぞれの時期はさらに前期、中期、後期に区分される)


 この「システム」の「高度化」の「段階」の歩みの下で、金の成る木としての「システム」は最大限の利益を獲得することができていたのだが、70年代を境として、その調達力には陰りが見えてくる。それゆえ、「システム」は自らその再編成を図ることになる。これまで金の成る木としてその役割を担ってきた{[A]→(×)[B]→×[C]}に替わって、{[B]→(×)[C]→×[A]}の「システム」を新たにつくり出そうとしたのだ。それと同時に、これまで「システム」の「高度化」の役割を担ってきたAにたいして、「低度化」の役割を担わせるようにすると同時に、そのAに替わる「高度化」の役割をB、Cに求めたのだ。それゆえ、B、Cは以前以上に、本格的に「システム」の「高度化」の「段階を歩むことになる。


 具体的な話としては、肥大化し過ぎたために金の成る木としての格差バネの有効な働きを果たせず、そのために「システム」の期待していた最大限の収奪力を喪失するに至ったAを見限るのである。そして、「システム」はAの「低度化」に着手し始めるのだ。それは〈第Ⅰ’期の[民主主義の発展(高度化)→経済発展]〉から第Ⅱ’期の〈[経済発展→分厚い中間層の解体]〉、そして第Ⅲ’期の〈[分厚い中間層の解体→民主主義の発展(低度化)]〉の「段階」に至るあゆみとして描かれる。「システム」のこうした第Ⅰ’期から第Ⅱ’期そして第Ⅲ’期に向けての低度化の歩みを実現するために「システム」がAの先進諸国の政府に選択させた経済路線とその経済政策がいわゆる新自由主義であったのである。


 この順番というか手順を見誤ってはいけない、と私はみている。新自由主義路線の選択によって第Ⅰ’期、第Ⅱ’期、第Ⅲ’期に見られる流れが導かれたのではない。決してそうではないのだ。第Ⅰ’期から第Ⅲ’期に至る「低度化」の流れをつくり出すために、「私の語る「システム」によって新自由主義路線が選択されたということなのだ。また、そのようなAにおける「低度化」の流れと呼応する形で、「システム」はB、Cにおいて、第Ⅰ期、第Ⅱ期そして第Ⅲ期のそれぞれの「高度化」の実現が可能となるように、いわゆる「大きな政府」の実現を企図するのである。その意味では、新自由主義路線は、かつてのAの先進諸国を貧しくさせるために「システム」が採用した経済路線であると同時に、金の成る木としての新しい「システム」のB、Cをこれまで以上に豊かな社会へと導くことを世界に向かって知らしめる合図としての号砲であった、と私はみている。


 このように私はこれまでの拙著や拙論で何度も同様な話をしてきたのだが、その際同時にまたそれに至るまでの「留保」もつけていたことを、読者は記憶しておられるだろうか。すなわち、私のモデルで描く1970年代から今日に続くB、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉は、あくまで「システム」の今後のベクトルというか方向性を述べた者であり、なおモデルで描く社会の実現には時間を要するであろう、と。それゆえ、モデル通りには今の「高度化」の歩みとはなってはいないことを、言及してきたのだ。拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』(晃洋書房 2014年)の88-91頁の図式においても、歴代の覇権国の興亡史に関するモデルを示しているが、そこでわたしはちゅうごくが覇権国として名実ともに世界に認められる時期を2040-50年頃と記している。つまり、「高度化」の第Ⅲ期の段階を迎えるのはまだ先なのだ。


 だが、その歩みは着実にまた確実にもうそこまで来ているといっても過言ではなかろう。その際、とても悲しい話をしなければならない。トマ・ピケティの著作である『21世紀の資本』で描かれているように、私たちの社会において格差が縮まるのは、戦争を契機とする以外にはないということなのだ。実際、これまでの覇権国の歴史を紐解いてみた時、覇権国の登場するその前後の時期において、大きな戦争を私たちは経験しているということである。とてもつらいことだが、金の成る木としての「システム」は常に戦争を必要としている。そして米国から中国へと覇権のバトンが手渡されようとしている今はまさにその時期に該当している、と私はみている。既にこれまでのブログ記事でも述べてきたように、「システム」はその準備を怠ることなく、「システム」の高度化と低度化の重要な段階において、「システム」はいろいろな布石を打ってきたのである。




(最後に一言人)


 これから私たちは大変な危機を何度も経験するに違いない。そしてその都度、すぐに私たちに迫っている深刻な事態を忘れるのだ。身近に火の粉がかからないうちは、今なお「平和」な社会に私たちは生きていると思うのだろう。それにしても、イスラエルやロシア云々の話ではなくとも、この物騒な日本に暮らしていて、どこが平和だなんて言うのだろうか。格差社会の進行とその深化の歩みの中で、生活防衛もままならぬ人たちは急増している。それにもかかわらず、政治は何もしてくれない。「システム」の「低度化」を推進するために、。「システム」は「何もしない政治」を、かつての先進諸国の国家・政府に選択させているのである。



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