日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの「感じる心」は何故、凍りついてしまったのか

2014-02-19 | 社会 政治

「感じる心」について、前回は、私の体験をもとに少し書きました。「感じる心」とは、自分以外の苦しみを抱えて生きている人々の存在を慮(おもんばか)れる心とでも言えばいいのでしょうか、相手の立場に自分をそのまま置き換えて相手と自分の関係を捉える、理解する能力ではないか、そう私は考えています。

しかしながら、そうした能力を持つためにはやはりある程度の余裕がなければいけませんね。削除した記事の中で、自由、民主主義、人権、平和といった普遍主義云々について述べていましたが、自由にしても、民主主義にしても人権、平和にしましても、こうした「感じる心」といいますか、「相手の立場に自分をそのまま置き換えて相手と自分の関係を捉える、理解する能力」と密接に結びついている、つまりごく簡単に言うならば、まさにその心(能力)をその内部に包み(含み)込んでいる、と言い換えてもおかしくはないでしょう。

それではそうした能力を私たちはどうすれば持てるのでしょうか。また育めるのでしょうか。私たちはこの世界で生きていますね。生きるために何かを食べますね。衣服を身につけます。雨露をしのげる空間といいますか、住まいが必要ですね。私の話を聞かれたことのある人なら、ここから「衣食足りて礼節を知る」の営為をおそらく連想されるでしょうね。
そうですね、私たちはそうした営為の下で、「礼節」や「礼節を知る」ことができるのですね。つまり先の自由、民主主義、人権、平和を実現できるのです。同時に、余裕を持てるようになり、そうして普遍主義はその内に、「感じる力」を蓄える、育めるようになるのだ、私はそう考えています。
しかしながら、私たちの「衣食足りて礼節を知る」の営為は、一体どのような関係の下で実現される、されてきたのでしょうか。この話の先も、おそらく既に私の話を聞かれた、また著作を読まれた方ならば、おおよそ察しはついていますね。
そうですね。先進国と途上国、あるいは宗主国と植民地の関係を考えてみましょうか。両者はそうした関係を形成、発展させる中で、前者が「衣食足りて礼節を知る」の営為を、後者が「衣食足りず礼節を知らず」の営為を担う、そうした関係を、その歴史を歩んでいくのです。
今回はこれ以上、話を展開するのは控えておきます。
例えば、17世紀から第二次世界大戦の終わる1945年までのイギリスとインドの関係史を取り上げて話しますね。あくまで便宜的な話だということを断っておきますよ。
両者の関係は次のようななります。イギリスをA、インドをCにしておきます。Bはまたいずれ出てきます。

{[A]の衣食足りて→[A]の礼節を知る→[C]の衣食足りず→×[C]の礼節を知らず}

ごめんなさいね、上手く描けません。パソコンの操作、ダメですね。私の著作のモデルを見ていただければ一番いいのですが、まあ、我慢してお付き合いください。
このAとCの関係は共時的関係です。またすいません。とにかくここで一番言いたいことは、私たち先進国に住む人々の「感じる心」は、つまり「Aの礼節を知る」がその内に包み込んでいるものですが、「Cの礼節を知らず」との関係の下につくられていることを描いています。つまりAに住む人の「感じる心」がどれほど素晴らしく表面上は見えたとしても、いつもCに住む人々の自由や民主主義、人権、平和の実現を阻止する、そうした関係を押し付けているということです。
また、「Aの衣食足りて」の営為は、「Cの衣食足りず」、「Cの礼節を知らず」の営為を導くそうした関係を、その歩みを、押し付けていますから、そうした「Aの衣食足りて」の営為をもとにして導かれた「Aの礼節を知る」の営為とその「礼節」は、またその内に含まれた「感じる心」は、どんなものか、みなさん、もうお分かりですよね。








































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