日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「私」よりも「劣位」に置かれた人たちをいつも見守りながら、彼らとその家族が生きていてよかったと最後に思える「公」的空間である「バリア・フリーの社会」を実現

2019-12-23 | 社会 政治

「私」よりも「劣位」に置かれた人たちをいつも見守りながら、彼らとその家族が生きていてよかったと最後に思える「公」的空間である「バリア・フリーの社会」を実現することが私の夢であり、そのために「(仮称)バリア・フリーの会」から一人でも多くの市会、県会、国会議員を輩出する必要がある。

私は特別支援・愛媛県立松山盲学校で学んでいる一人の生徒である。私のこれまでの経験と、盲学校での体験を踏まえていま強く思うのは、県内の各種の特別支援学校に学ぶ生徒と、その保護者、特別支援の教員とその関係者で一つの団体が組織化され、障碍者とその家族と特別支援学校の先生方がそれぞれの悩みや希望を語り合い、そこから社会に対しての要求・要望を発信・提言しながら賛同者を募り、市会、県会、国会へ私たちの代表者を送り出すことである。同時に、そうした運動を全国の都道府県における各種の特別支援学校の関係者に呼びかけながら、「バリア・フリーの会」という「自前」の代表者を議会に送り出す障碍者の全国組織を結成することである。

既に以前のブログ記事においても、類似の話を紹介していたのだが、やっと最近になって、私自身の決心が固まったので、ここに改めて簡単に大枠を述べてみた次第である。多くの協力者が必要であり、この会の哲学というか理念を考えなければならないのは論を待たないのだが、それよりもいま一番大事なのは、県内の肢体不自由者、知的・精神障害者、聾唖者、視覚障碍者等の障碍者とその家族やその関係者が「一動」に会した集会を催すことではなかろうか。そこで「私」が学校生活を含めた日常生活の中で思い悩み感じている出来事や体験を自らが当事者となってお互いに語り合い、そこから社会に対する要望なり要求を発信し、発言すると同時に、自らがそうした問題の解決・解消に対処するための行動指針を作成することではなかろうか、と考えるのだ。む問題を

この最初の、ほんの一歩さえ、とてつもなく困難で実現不可能に思われる話なのだが、またそれゆえこうした話をブログ記事で語るのも「お前は何様なのだ」とおしかりを受けるのも必至なのだが、私もいい歳で、父親同様にいつお迎えが来るかもわからないので、あとで後悔はしたくないと思い、思い切って呼びかけた次第である。

中途視覚障碍者の自分やその他の障碍者を構成する「私」(この私の中には言うまでもなく覇権国を主導する人々が含まれている。この人たちは今日の「格差」社会でよく指摘されている1%対99%の図式で語られる1%であり、いわゆる「障害学」で「社会環境」との関連から語られる「マジョリティー」の中に位置する「マイノリティー」であることを看過してはならない。)の命と暮らしを守るためには、私が記事に置いて紹介したシステムの歩みとその関係モデルで描かれるように、「勝ち続けるために」自分よりも劣位に置かれた人間を踏み台として這い上がっていく、行かざるを得ないそうした社会とその社会の哲学・理念であるこれまでの欧米の覇権国を中心としてつくり出されてきた自由、平等、民主主義、市民的権利、平和といった普遍的価値ではなく、「私」よりも劣位に置かれた者たちの命と暮らしを先ずは何よりも保障する、そうした「バリア・フリー」価値に依拠した社会の実現を目指すことが大事である、と私は考えるのである。今回の記事はそうした観点から述べたものであり、「もし盲学校が終の棲家ーーー」で展開される内容と、今後の話の中で結び付けられるように、と今の私の頭の中では構想されたものであることを断っておきたい。

 

 

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