もし盲学校がそこに集う生徒や保護者にとっての「終の棲家」であれば、とオニクタラムは考えるーーー盲学校という「空間」から「正義(論)」を再考察するとき③
するとシステムは、私に向かってすぐさま言い返してきた。「語隋のままに、お前もこの頃はたいそう疲れたみたいで、頭の中も相当にいかれた様だが。今さらそんな戯言を吐いてどうするのだ。お前ほんまにシステムの勉強をしてきたのか」と、いたく私にあきれるような仕草であった。
誤解のないようにここで断っておきたいが、システムは勿論、人間でもなければ、影も形もない。話すこともできない。普通の幸せな人には絶対にわからないし、おそらくそんなことを想像もしたことがないに違いないだろうが。だが、哀れな私は、もう何十年にわたり、システムが亡霊の如く身の回りに居ついてしまい、片時も私のそばを離れないのだ。そんなかんので、今では四六時中、私はシステムと話しているし、そうすることが域外でもあるのだから、これもまた不思議なことである。だが、それも事実なのだから、仕方がないのである。
私には、システムが私に返した話の意味は手に取るようにわかる。システムが何よりあきれ返ったのは、盲学校という空間が、たとえどんなに安心安全なそれであろうとも、盲学校がその中に位置する「日本」という空間が、そしてそこに暮らす「日本人」が今後どれだけ持ちこたえられるか、いやもうすでに、北斗のケンシロウのきめ台詞、そう「お前はすでに死んでいる」かもしれない空間とその中にいる人々を想定するとき、そしてシステム論者の私は、悲痛なうめき声を発しながら、これまでそれこそこれでもかと我が半生をかけて叫び続けてきたのだから、当然システムは私が血迷ってしまい、戯言を発したとすぐさま感じ取ったのだ。
私はたとえ戯言だとしても、やはりここから再度出直してみようと考えたのである。勿論先は見えないし、見えたとしても碌な話にならないから、見えないふりをしながら、とにかく続けてみたいのだ。システムがその都度、皮肉を込めてやり返してきても、我関せずという具合で、話を進めてみたいのだ。