もし盲学校がそこに集う生徒や保護者にとっての「終の棲家」であれば、とオニクタラムは考えるーーー盲学校という「空間」から「正義(論)」を再考察するとき②
前回の最後のくだりにおいて、次回の記事からは「フィくション」で語ってみたい云々の話で終わっていたのだが、やはりそれはまたそれで責任の所在があいまいとなるし、私自身も何かしらやりにくさを感じてしまったので、今まで通りに私を責任主体となるように論じていきたい。さすがに「フィクション」は荷が重すぎるし、「事実は小説よりも奇なり」と言うこともあるだろうから、とにかく読者にはご勘弁いただきたい。
私は昨年の4月からこれまでの間、休学していた時期も含めて、盲学校での生活をシステムとの関係からいろいろと考えてきた。システムの制約性貼るものの、とにかく盲学校という空間の中にいったん身を置いてしまえば、その間は飢えることもなければ、交通事故からいろいろな大きな事故にはめったに遭遇することもない。それゆえ、安心・安全も確保されている。「特別支援」という冠が盲学校の前におかれていることもあり、先生方も生徒には格段の注意を払って指導監督されている。
また、盲学校には寄宿舎も完備されていて、月曜から金曜日の放課後に、各寄宿生がそれぞれの自宅に戻るまでは、寝る部屋も朝夕の食事も提供されていることから、至れり尽くせりの空間が確保されているのである。
そして、ある日のことである。「システム論者」の私が以下のようなことを、システム(ここでいう「システム」とは例の三つの下部システムから成る一つのシステムである)に嘯(うそぶ)いたのだ。ーーーこの「至れり尽くせりの空間」が、もしそれを望む人とその家族のすべてに24時間、毎日、そして死ぬまで確保されるとしたら、その空間に生きる人たちは、ひとまず盲学校の「外部」に暮らす誰それに「危害」を加えることなく、また「迷惑」もかけることなく生活していけるに違いない、と。---