日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「非・国民」のススメ考(2)ー中国国家と中国政府に日本の「子供・大人食堂」の維持・運営の協力要請をしてみたらどうだろう

2021-04-10 | 日記

「非・国民」のススメ考(2)ー中国国家と中国政府に日本の「子供・大人食堂」の維持・運営の協力要請をしてみたらどうだろう

(最初に一言)

もし読者の中に中国人の若い方、とくに学生さんがいたら、こんな私のような「不良老人」の言うことなどまねしては駄目ですよ。もっとも、今のあなた方の「システム」における「段階」とあなた方が置かれているその位置は、かつての「忠君愛国」的な日本国とその国民のように、真正面しか向いて生きる以外にはないでしょうから、真面目そのものだとは推察しますが。とにかく、「政治」などには関わることなく、ご自身の勉強・研究に精進されますように。関わってもろくなことはありませんから。デモなどに行く時間があるのならば、M・ヴェーバ-の『職業としての学問』を読んだ方がいいですよ。


おかしなもので、1950年代、60年代前半頃までの私は、祝日には必ず日本国家の国旗である「日の丸」を家の前に掲げる忠君愛国的小学生を演じていたのに、もう70歳が近くなった現在では、「非・国民」のススメ等と、今さらそんなことを力んで言わなくても、もう日本国家も政府も誰からも相手にされないような、ひたすら年金に頼る以外には何もできない老人でしかないくせに、何か見捨てられたそんな気持ちから「復讐?」といった感情が、沸き起こるのだ。

とは言え、所詮は犬の遠吠えにもならない話に終わるのが毎度のことだとしても、若い頃の自分には想像もできなかったことを、年金生活者の老人になったおかげで妄想できるのは、せめてもの幸せと強がるしかない。もっとも、ただの強がりだけから、こんな日国民のススメを説いているわけでもない。そこには以前のそれに似たある種の真面目さが残っているのも確かなこと。

最近とくに耳目を集めている「子ども食堂」や「大人食堂」なのだが、そうしたニュースに接するたびに想うのは、ボランティアの協力者には頭が下がるのと同時に、公的機関は一体何をしているのか、と。これまた他人事のように、私自身は何もかかわらないくせに、文句、文句なのだ。だが、それにしてもおかしいだろう。

日々の生活にもこと欠く人たちが年々増加しているのに、そして職を求めて活動してもなかなかその職にもありつけず、そうした人々が子供・大人食堂へと向かうのが常識となった今でも、「政治」は何ら有効な対策を打とうとはしないのだから。オリンピックどころの話ではないだろうが。さらに、その費用も、当初の見積もりを超えて、倍以上にもなっていると聞く。そしてコロナ、コロナの蔓延報道の中、未だに開催に固執するのだから、よほどうまい儲け話?があるのに違いない。

そうした事態に対して、日本国と日本国民は動こうとしないのは、いつものことだとしても、お隣の中国の人権弾圧報道にはたいそう熱心に関わるくせに、国内における生活破壊・破綻者の人権問題には我関せずの態度なのだから、おかしな話ではあるまいか。私たちは足元の貧困や飢餓状態に陥っている人たちの人権問題にこそ取り組むべきではなかろうか。

そこで、日本で生活する私たちシステム人から構成される「日本」と「日本人」のお出ましとなるというか、それが是非とも求められるのではあるまいか。(残念ながら、気持ちは熱いのだが、まだ組織化の入口にさえ立てていないのが実情。)私たちは大声を出して言わざるを得ない。子供・大人食堂の維持・運営は、本来ならば、日本国家と日本政府が積極的に関与しなければならない問題なのだ。これは、日本における人権問題なのだ。

ところが、今の日本国家、日本政府、日本国民にはそれを問い質す力がない。とても悲しく、残念なことだが、こうした人権問題をこれ以上、放置することは許されないのではあるまいか。世の中を見渡すと、SDGsというこれまた耳障りの良いスローガンが喧伝されているのだが、その一方で、そんな目標も到底、実現できそうにもない職がない、家がない、食べられない人たちが多数存在し、かつまた今後もさらにそうした人たちが増加するのは必至なこのとき、私たちは、もう恥を忍んで言わざるを得ない、頼らざるを得ない。

すなわち、日本国家、日本政府は何もしてくれない。それどころか、ますます生活破綻者・困窮者を生み出す「政治」しかしないのだ。そんな状況・状態の中で、彼らの人権は日本国家、政府から日常的に不当な扱いを受け、その保障に与れないのである。そんなわけで、私たち「日本」と「日本人」は中国国家、中国政府に支援を要請したい。

もうあなた方はお分かりのことだから、私たちの手の内(もっとも、それほど知略に富んだ知的に洗練されたものではないのは言うまでもない)をさらすと次のようなことなのだ。すなわち、私たちは、いま世界中?から人権問題でやり玉に挙げられている中国政府に対して、ダメもとで大声を出して、日本国内の貧困や飢餓に直面している生活困窮者の人権問題に関与させたかったのだ。勿論、あなた方はいつも賢明な態度を取り続け、他国の内政問題には関わらないと言われることも、よく理解しているつもりだ。

それゆえ、直接的関与が無理ならば、何か他の関わり方を考えてほしいのだ。私たちは、「ギブアンドテイク」をモットーにして行動する。(この物言いも、エラそうな言い方で、与えられる値打ちのあるものなど、まだ何も準備していないのだが。)ただし、その前に先の人権問題に対して少し付言しておきたい。私のブログ記事は、非公式ながらも、「日本」と「日本人」の機関誌的役割を担っている、なお、まだまだ加筆・修正の途上にあるのは言うまでもないことだが。

既に、そこでも幾度となく開陳してきたように、誰も中国国家と中国政府の人権問題をとやかく非難・批判できる資格を有しないことは明らかである。それはかつての「市民革命」の母国である英・米・仏諸国もそして蘭国も然りである。〈「システム」とその関係の歩み〉(以下、「システム」と略す。)の中で生きていく限りは、当該国の行動は、それが「システム」のどの「段階」に、いつ到達するかによって、あらかじめ、おおよそが決められているのである。私がいつも言うように、いわゆる「システム」の「歴史的制約」である。

それゆえ、中国の人権問題をことさら取り上げて非難・批判する今の西側諸国のメディアの報道はおかしいどころか、無知をさらけ出していると言わざるを得ない。彼らは、自分たちの世界の中の貧困や飢餓問題を、人権問題として位置付け直して報道することによって、かつての先進諸国の「政治」の問題を糾弾すべきなのだが、勿論、そんなことはするはずもないことだが。

ただし、そうした事情を踏まえた上でさらに言えば、私は別に中国ヨイショをしているわけでもないことを、ここで断っておきたい。それを認めた上で述べるならば、中国は日本とは比較にならないほど「大人」であるのは今さら言う必要もないことだ。私たち「日本」と「日本人」は、今後ますます中国に助けてもらわないといけない立場にあるし、中国の指導を仰がねばならない。

さて、少し話がややこしくなったようで申し訳ないが、先の話の続きというか、今回の結びにしたいのは、以下のとおりである。すなわち、中国関係者が子供・大人食堂の維持・運営を手伝って、日本国家や政府が何もしようとはしないままに放置していた生活破綻者・困窮者の人権問題の向上・改善に一役買ったらしいとの情報が世界を駆け巡って、それが首相官邸や国会にまで到達すれば、日本国家も日本政府も重い腰を上げて協力するかもしれない。いや、もう日本国家や日本政府など問題にしていては駄目なのだ。もっとも、従来通りの「国民」としての資格で、年金はありがたく頂戴するのだが。


(最後に一言)

本当に情けなく、寂しい話をまたしてしまった。だが、堕ちるところまで堕ちきらないと、見えてこない世界・セカイは無数にあるだろうから、とにかくーーー。因みに、老人食堂のメニューに「炒餅」があれば、私も目が不自由ながら、ボランティアを時々はしても構わない。ただ、やはり迷惑というか、足手まとなるのは目に見えているので、炒餅の食事代だけは払いたい。

 

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