私の説く「人としての命と暮らしを守る」(「人としての安全保障」(論))と、いわゆる「人間の安全保障」(論)との見解の相違について述べるときー目まぐるしく変わっていく「状況」を的確に位置付け理解するためには、しっかりとした羅針盤が必要・私の語る「システム」論がその一助となればとの思いは募るばかり(2)
(最初に一言)
前回記事を投稿した後で、少し以前に流行していた感のあるいわゆる「人間の安全保障」(論)を思い出した次第。その時にも感じたのだが、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉(以下「システム」と略す)に何ら抵抗できない、抗えない主張であるとみていたのだが、前回記事で「人としての命と暮らしを守る」云々と述べた関係上、先ずは両者の見解の違いから話してみたい。
本論がここから続くのだが、体調を考えて、今回の話の続きは、また後日としたい。なお、その続きを述べる際はこの行は削除することを前もって断っておきたい。もう勘のいい読者の方ならば、私がどのように語るかについて察しを付けているに違いない。たとえば、近代憲法、とくに、その普遍的価値や普遍主義との関係、さらには国家の安全保障との関係等々である。
(最後に一言)
それにしても、「システム」は不謹慎な物言いを承知の上で言うならば、「遊び過ぎ」の感がある。上の方から私たち下々にいる者たちを眺めながら、そこには上級国民も中・下級国民も、さらには自然環境も含まれているのだが、「モメゴト」を引き起こしては楽しんでいる風なのだ。
情けないのは、私たち自身の方で、それこそ「システム」は楽しむかのように、宮沢賢治の「雨にもマケズ、風にもマケズ」の内容を、そっくりそのままパロディ化している節がありありなのだ。たとえば、どこかでモメゴトをおこしている者たちがいれば、そこへ出かけて行って、もっとその輪を大きくして、いろいろなモメゴトの輪をつくれば、さらに面白いお金儲けができる云々とのように、今の国際関係の歩みは、まさにそうなっているのではあるまいか。もっとも、「システム」は今だけでなく、過去も、そして明日も、国際関係におけるモメゴトをつくり出してきた・つくり出しているのだが。