日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

いわゆる「専門家」と称されている者たちは、「人としての命と暮らしを守る」ためにはどうすべきかを提言できる専門家ではない

2021-04-17 | 社会 政治

いわゆる「専門家」と称されている者たちは、「人としての命と暮らしを守る」ためにはどうすべきかを提言できる専門家ではないー目まぐるしく変わっていく「状況」を的確に位置付け理解するためには、しっかりとした羅針盤が必要・私の語る「システム」論がその一助となればとの思いは募るばかり(1)


(最初に一言)

相も変わらず、厚かましいタイトルとなっているのだが、それでも少しはご期待にお応えできると思っている。またまた厚顔無恥を地でいくような物言い。


それにしても思うことは、コロナ禍により、私たちは多種多様な「専門家」というか、いわゆるその道の「プロ」達に、メディアを介して遭遇する機会に恵まれている。そうした専門家たちを目にして、私は自身の立場をどう見ればいいのかと考えるようになった。私自身も、ある面においては専門家(の端くれ)だとは思うのだが。

そんな専門家たちのコロナや原発に関連した発言に接するたびに、「これって、私のようなコロナや原発についてあまり勉強していない「素人」と同じレベル、いやそれ以下ではないの?」、と思えるような場面に、たびたび直面して驚くというか、笑うというか、苦笑いとなる。

確かに、彼らは自分たちの研究分野に関しては、何某かのことは知っている。その意味では、専門家とみてもいい。だが、その情報を、「人としての命と暮らしを守る」という意味における専門家たらんとして、責任をもって研究してきた、その成果として提供された「情報」なのか、否かの観点から評価した時、彼らのいわゆる専門家とされる顔の向こう側に、素人かそれ以下の無責任さが見え隠れしてくるのである。それは、権力に奉仕する、権力が都合のいいように利用できる専門家ということになる。

つまり、彼らが関係する当該事象に詳しい専門家としての顔と、「人としての命と暮らしを守る」専門家としての二つの顔を、彼ら専門家と称される者たちは、実は持っているのだという話を、私はここでしている。世間一般で使われる意味は、前者の意であるのは私もよくわかるのだが、この後者の点も合わせて含めた専門家を私たちは必要としているに違いない。ところが、後者の意にかなう専門家を、私たちはあまり知らないのだ。それは何故なのか。この点に関して、少し考えてみたい。

たとえば、政治家といえば、これまた政治に関するいわゆる専門家、プロだと言えるだろうが、この連中たちの素人以下の役者ぶりにはもう仰天してしまう。それは大阪府知事の吉村氏をはじめ、東京都の小池氏から、安倍前首相、菅現首相と数限りない。素人だらなのに、勝手な私たちの側でつくり上げてきたイメージや思い込み、先入観を介して、この人は議員さんであるとか、知事さんであるとか、また大臣であるとか、さらには弁護士や裁判官や学者だからとして、彼らの存在をある種何か私たちとは違う、少しは賢くなれる見方を示してくれているように、錯覚しながら見ているのかもしれない。

それはそうだとしても、このコロナ禍の専門家達の大量出現によって、良くも悪くも私たちの勝手な思い込みや先入観がいかに間違っていたかを知らしめたという意味においては、彼らの貢献は大きかったのかもしれない。と同時に、電通に支配され、飼い馴らされてしまったいわゆる大手メディアと称されてきたテレビ局や新聞社の報道が、どれほど陳腐で偏向した情報を大量生産してきたかを、痛感するこの頃である。(それに比して、〈阿修羅・総合アクセスランキング〉をはじめ、各種の阿修羅の記事に、すべてとは言えないまでも、精神安定上、どれほど救われているか。)

もっとも、このような風景は今も昔も何ら変わらない。私たちは最近、とみに安っぽくなった政治家の常套句の一つである「国民の命と暮らしを守る」との物言いを、少し考えただけでもわかるというものであろう。政治家がそこで守ろうとしている国民は上級国民であり、彼らの命と暮らしであることは今さら言うまでもないことだ。

そうした政治家が奉仕する経済界のリーダー連中が、親分となって、自分たちの子分を使いながら、この世の中を「経営」するのだから、彼ら親分の提供するメディアとその情報は、いつも親分に有利となるように、親分をヨイショするものにならざるを得ない。そうした仕組みを支える親分の情報機関の一つが、日本であれば電通ということになる。

電通の思いどおりとなる専門家だけが大手メディアに頻繁に登場するのは当たり前ということなのだ。それゆえ、上級国民の間では、「中立」的報道であったとしても、中。下級国民にとっては「偏向」報道となるのだが、どうもそれがすぐには見抜かれないような「煙」幕装置が周到に用意されているのだろう。

そして、そうした専門家、そこには「政治家や自称・ジャーナリストや学者連中が含まれているが、彼らがそこで吐く国民の命と暮らしを守る云々の話は、すべてが上級国民のそれであることを、あらかじめテレビや新聞、雑誌等に接する際に、下級国民は知る必要があるのだ。

こうした文脈に照らして、少し前の専門家の二つの顔についての話に戻るとき、私たちのような中・下級国民の命と暮らしを守る専門家に、私たちがあまり出くわさない、ましてや「人としての命と暮らしを守る」専門家に出くわさない、特に大手メディアの提供する情報に関わる専門家以外の専門家の情報に接することができないのもよくわかることだろう。残念なことだが、それは事実なのだ。

ところが、世の中は皮肉にできていて、経済・生活レベルはとても同じ地点に立って暮らすことなどできない・許されない中・下級国民なのに、哀れというか悲しいほどに頭の中の教養というか文化レベルだけは上級国民の嘘っぱちの話で満たされながら、彼ら上級国民と同質の意識を共有したいと希(こいねが)う始末なのだ。

せっかく、素晴らしい、その人にしかない生まれつきの、その意味では真の教養?に導く素地を持ちながら、残念なことに「システム」の提供する高等教育を受けるに従い、国民や市民、あるいは民族の(一員たるの)前に、人間として、「人としての命と暮らしを守る」ために必要不可欠な大切となる別の異なる教養を身につけることはできなくなっている。

逆に言えば、それほどまでに、私たちの日常空間は、そんな類(たぐい)の情報ばかりで溢れているということになるのだ。たとえば、コロナにしろ原発にしても、政府や多国籍企業として世界的な活動展開をする製薬・原子力関連の有名大企業を利するだけの、つまりは「システム」内の「各種村」を管理運営するのに都合のいいような情報ばっかりで溢れているから。

そしてさらに、その理由はと問うならば、その情報の出どころが、政府やそうした企業がスポンサーとなって維持・運営するメディアと、そのメディアにより動員された御用ジャーナリスト、御用学者、御用芸能タレントといった御用役者により提供されているからということとなる。かくして、専門家の二つの顔云々に関した上のくだりで指摘したように、「人としての命と暮らしを守る」ためにはどうすればいいのかを論じることのできない、その意味では素人かそれ以下の専門家たちしか生まれてこないということになるわけだ。

これを悲劇と言わずしてなんと言うのか。とてもつらい現実なのだ。もう一度、簡潔にくどい話となるのを承知で言えば、日本国民のとか、中国国民とか、米国国民の命と暮らしを守るためにはどうすればいいのかを提言する専門家はいても、日本とか中国とか米国の枠を超えて、人としての命と暮らしを守るためにはどうすればいいのかを低減できる専門家が、残念ながらいない、ということを私は語ってきたのだ。

それゆえ、必ず、日本においても、中国においても、米国においても、そこで守られる対象となる国民の命と暮らしは、いわゆる「上級国民」のそれということにならざるを得ない。そこから彼らの政府のリーダーが強調する国益とか、平和、外交・安全保障という場合の基準は、そうした上級国民となる。

もし戦争が起これば、最前線に立たされるのは中・下級国民がほとんどで、上級国民は安全なところから、自分たちの「私益」を守るために必要な命令を出すばかりなのだ。これまでの戦争をみても然りではあるまいか。いま東シナ海、南シナ海の有事とか台湾海峡を守れとか、きな臭い声が喧(かまびす)しくなっている。

そんな時に、私は読者に、先の話を考えてもらいたいのだ。もしあなたが何々国民だとして、その国民の命と暮らしを本当に守りたいのならば、それならまずは最低限、人としての命と暮らしを守るためにはどうすべきかを考えておく必要があるということだ。それがもし、できないのであれば、どうしてその先の存在である国民の命と暮らしなど守れようか。

換言すれば、日本国民の命と暮らしを本当に守るためには、中国人や米国人、韓国人、イスラエル人、パレスチナ人、韓国・北朝鮮人等の命と暮らしを守るための戦略・戦術を準備しておかなければならないのだ。つまりは、人としての、換言すればシステム人としての命と暮らしを守るためにはどうすればいいかの戦略と戦術に他ならない。


(最後に一言)

前回の記事で、国民とシステム人はイコールではない、と私は指摘した。そしていつも私はシステム人にならなければ云々と述べてきた。そろそろ、それについて、またそれを言うことで、何を言いたいのか、何が見えてくるのかについて、話すときがきたようだ。もっとも、これらに関しても、私は既に論及してきたはずなのだが、私にもなお、伝え方の悪さから、しっくりといかないじれったさがたくさん残っている。

 

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