虫干し映画MEMO

映画と本の備忘録みたいなものです
映画も本もクラシックが多いです

ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還 SEE版

2005年02月07日 | 映画感想ら行
 追加映像50分。
 追加というより再編集多し。
 それに、本編に劣らない長さの特典ディスク2枚付き。
 もうこんな映画はそうは出来ないだろうなあ…とまたまた思った。
 届いたその日に本編を目を皿にして見、特典のメイキングや何やらを見、4日目には英語字幕、日本語字幕でまた泣きながら見た。エオウィンとメリーのエピソードとペレノール(ペレンノール)野のローハンの戦いがより膨らませてあって、セオデンの檄では涙で画面が霞んだ。ああ、なんて声のいい爺さんが多いのだろう。
 メイキング映像を見てからだと、カメオ出演にドキドキし、音楽の効果にも頷き、映像化された戦いやモンスターに感動し、より一層映画が素敵に見えてきた。

 登場人物の性格や、描き方など完全にジャクソン流になっているけれど、もうなんだか全部許せてしまう。映画は映画で、原作は原作としてそれぞれのメディアにあった表現や見方があるのだ。それぞれのキャラクターに振られた役割も本よりも一層くっきりと分かれているようだ。そう思えば、気の毒なデネソールの扱いもまた納得出来る。本当のところは、エオウィンやファラミアは私のイメージとは相当違っているけど、まあ仕方ない。 

 結局シャイア掃蕩は入らなかった。原作では、かなり重要な部分だと思うのだが。
 すべて終わったと思って帰ったホビットたちの美しい故郷が荒らされ、悪の手に落ちていたことで「特別な場所などどこにもない」こと、そして大事なものを守るためには自分たちが立ち上がらなくてはならないことを思い知らされる場面。そして堕ちたといえども、賢者であったサルマンの矜持をフロドの成長が打ち砕く。原作の中でも、かなり重要なメッセージであると思う。
 ただ、映画で大団円の後でまた一つの物語では、最後の灰色港への流れが切れてしまう。だから闇の力の強大さに屈して追従しようとしたサルーマンの結末は、己の操ろうとしたものに逆襲されるという形でストーリーに入れるのも自然かな、とは思った。

 本と映画では、時間の流れ方のテンポがまったく違う。言葉一つとってもそう。原作では、さながら昔の日本の侍たちが名乗りを上げるように、戦いでさえも力強くて古い言い回しの会話がなされている。そこがまた「指輪物語」らしくて好きなところなのだが、映画でそれはやってられません。
 エオウィンがアングマールの魔王に対してセオデンを守って立ちはだかるシーン。

"But no living man am I!
You look upon a woman.
Eowyn I am, Eomund's daughter.
You stand between me and my lord and kin.
Begone, if you be not deathless!
For living or dark undead, I will smite you,if you touch him."
(しかし私は生き身の男ではない!
お前が向かい合っているのは女だ。
私はエオムンドの娘、エオウィン。
お前こそ私の王であり、血縁であるものと私の間に立って邪魔をしている。
不死でないならば、去れ!
もしお前がわが殿に触れれば、生き身であれ、幽暗に漂う者であれ、お前を打ちのめしてくれよう!)

…というエオウィンの言葉が、映画では

"I am no man!"

だけ。仕方ないです。これだけ延々としゃべったら大変です。
 そして初めてその騎士がエオウィンであることを知ったメリーの決意と2人の必死の戦い。たっぷりやったらここだけで10分以上かかっちゃいますね。

 それでも尚残念なのは、SEE版でも「エレンディル!」の叫びが聞けなかったこと…
 そりゃあ、あれを映画でやったら違和感あるかもしれないけれど、やって欲しかったなあ…
 死者の道を粛々と進む決意と力を静かに漲らせた一騎当千のレンジャーたち…見たかった…