虫干し映画MEMO

映画と本の備忘録みたいなものです
映画も本もクラシックが多いです

化石の殺人 (サラ・アンドリュース著)

2009年02月21日 | 
Bone Hunter  ハヤカワ文庫  

 地質学者にして自ら犯罪に乗り込んでいくタイプの探偵エム・ハンセンを主人公としたシリーズの日本での翻訳2作目。
 やっとのことで地質学者として就職した主人公が休暇を取って出かけた先でなんと泊まった家の主人が殺され、容疑者になってしまう。さっさと解決して社に戻らねば首が危ない・・・!

 昨年は映画にくいついてる時間が少なくなったので、久々翻訳ミステリの固め読みをして、新たなる女性探偵さんたちにたくさん出会いましたが、彼女達についてはちょっと感慨しみじみさせるものがありました。
 すでにいろいろなタイプのミステリの女性主人公が登場しているものの、女性のハードボイルドも堂にいったと思わせるられました。それもウォショースキーみたいにちょっと突っ張らなくてもすむ時代になったかな、というのがその中身です。

 この本は、謎解きだけでなくて、言論とか宗教とかやや重たい内容を上手に取り込んでます。主人公はまだまだ硬い男性優位社会も「そういうもの」として受け止めていながらも、自分のことは自分で考えて決める、という揺るがないスタンスで生きていきます。
 そして、愛を求め、求められながらも自分の生き方を優先して「彼を」残して彼女が去ります。彼女のなすべきことをするために。あてのない旅じゃなくて。
 
 E・ピータースのミステリのヒロインもシリーズ作品のそれぞれで恋人が違う、という素敵な展開を見せてくれます。要するに女は待ってる存在でも、男の港でもないんですね。ああ、良かった。
 自分の人間的な悩みも弱さも抱えたまま、事故の美学に忠実で、実力を認め合う友情を男女の別なく培います。これぞハードボイルドじゃありませんか。

慟哭―小説・林郁夫裁判 /佐木 隆三著

2008年09月26日 | 
 光市母子殺人事件や、昨日の3人の男がネットで仲間になり、何のかかわりもない女性を殺した事件の報道などを見ておりまして、しきりに思い出されたのがこの本で読んだ裁判のこと。

 数年前に読みましたが、最近、講談社文庫から文庫版が出て、本屋に平積みになっておりました。オウム真理教事件の被告の一人、医者でもあった林郁夫の裁判を追ったもの。呼んでいると、被告・林郁夫が「何を考え、どう行動したか」がわかるような気にさせられました。サリン事件そのものを知るという意味でも意義の深いものだと思います。
 林郁夫という人はとても真面目で、責任も含めて物事を正面から受け止めようという姿勢を持った人で、それが希代のまやかし教祖に付け込まれる一因でもあったのかと、物事の皮肉な側面に暗澹ともしました。
 しかし、そういった人間であったからこそ、彼のやってしまった「取り返しのつかないこと」についての悔悟と自責は本物でした。
 そのことで、裁判が遺族の気持ちをさらに傷つけるものにならなかったのです。

 林被告の弁護は私選弁護人一人だけでした。著者の佐木隆三氏は「見事な弁護」と評価しています。光市の弁護団の展開した「真実」について、弁護として評価できるものであるのか、考えずにはいられませんでした。

 文庫版には書下ろし「その後のオウム裁判」も収録だそうです。また買わないといかんかなあ。

野菊の墓/伊藤左千夫著

2008年02月02日 | 
思いっきり泣きたい!

 落ち込んだ時には、思いっきり泣きたくなります。
 それも、「カリフォルニア・ドールズ」みたいにゲンコツ握って泣いて、見終わると「さあ、やったるで!」と立ち上がるような泣け方ではなくて、ただただ悲しい本とかが欲しくなります。

 それで「野菊の墓」なのです。
 映画は木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」でなければいけません。ラストの笠智衆の肩と、渡し舟で締めなくてはいけないのです。
 話ときたら、いかに戦前とはいえ腹の立つことばかりです。犠牲者である若い2人にも「もうちょっとしっかりしろ!」と怒鳴りたい話ではありますが、なぜか問答無用でどぼどぼ泣けます。
 これはきっと、ワンセンテンスが長くて、なだらかでわかりやすい文章と、技巧なんか知ったことではない構成が、無垢な純情さ、一途さにはまっているからなのでしょう。私は「セカチュー」の文体に負けて感動できませんでしたが、この文章には有無を言わさず泣かされます。

 これと映画「コープス・ブライド」を見て、思いっきり泣いて、なんだか気持ちが綺麗になった気分で「さあ、またがんばりますか」と自分に活を入れるわけです。

「失われた時を求めて」が漫画化だそうで

2007年09月27日 | 
 私としては、この本は当時の風俗が良くわかる資料的に正確な映像化があればな~とか思っていたのですが、どうなるでしょうねえ。漫画では紙上の絵のみなのが残念。
 あの本のスノッブ風味の横溢はどうも実質第一な家庭環境で育成された私にはピンと来ないところがあって、読んでいてもどかしい感じが最後まで付きまとっちゃってました。コスチューム・プレイの映画も巧くあの小説とリンクするのが見つからない。絵だけでなく音があれば話し方なんかも、もちろんフランス語はわからないけど、聞けば昔のジャン・ギャバン、アラン・ドロンの映画と比べて感覚つかめるかな、と思ったのです。
 大英帝国時代の上流社会の感覚も今ひとつ腑に落ちないところがあって、クリスティの小説の描写とか、映画の「ゴスフォードパーク」漫画の「エマ」などで、その辺拾ってる処なんですが。
 ただ「資料的に正確な映像化」では面白くはないかもしれませんが、雰囲気のわかる漫画になっていると嬉しいなあ。 

 最近「カラマゾフの兄弟」の新訳が出て人気らしいです。本屋で少し読んできましたが、字も大きいし言葉が今風で読みやすそう。家に帰って昭和30年出版(誰が買ったんだろう)の3段組で字が小さく行間の狭い全1冊の「カラマゾフ」を15年ぶりくらいに読みなおし。昔読んだ文体には馴染があってそれなりに読みやすいけど、新訳買ってみようと思う。年取りますと、あの悪魔的にパワフルな親父から受ける印象がかなり変わっていました。

 スティーヴンソンの「自殺クラブ」だったかが再刊した時に読んで違和感バリバリだったのは、訳が古いためか、登場人物の高等遊民的な生活している男性が「~でげすな」などという話し方をしていたことです。話し言葉で人物の階層的なポジションや教養レベルなど表現されますが、それも世代で感覚が変わっていってしまいます。

スローターハウス5/カート・ヴォネガット・ジュニア

2007年09月03日 | 
伊藤 典夫訳
ハヤカワ文庫 SF

 作者が今年の4月に亡くなった為か、書店平積みになっていたのでまたしても購入。今読むと前にも増して苦味が強く感じられた。
 ドレスデン空襲にドイツの捕虜になったアメリカ兵として「空襲される側」を体験した作者がそこここに顔を見せながら語る時空の行ったりきたり。
 作中で繰り返される"So it goes."(訳中では「そういうものだ」)は、人間のあるべきでない現実を見てしまったものの呻きのように聞こえてくる。

 15年前に読んだ時に皮肉だと思った文章が全然皮肉ではなかったですね。それこそ「そういうものだ」というため息の様に感じる。
 例えばキルゴア・トラウトの著作の中の「宇宙人の福音書」のくだり‐キリスト教徒が見せる残虐性は福音書の構成による物だとする宇宙人の考え方。リンチにかけた人物(キリスト)が重要人物(神)にコネを持った人物だった。このことは裏返しに次のような意味を持つ…リンチにかけるならコネのない人物…
 これほど残酷を感じる本だったんだなあ…

 映画のほうは、実はテレビ放送の吹き替え版しか見ていない。画面小さいし、音も貧弱な環境でしか見ていない。それに映画だから当然だけど、主人公が本の描写よりもきれい過ぎだし、なんともいえぬ悲劇の最期を遂げるエドガーという人物のイメージがどうにも違う。
 とはいえ、空襲のシーンは原作の押しつぶされるような圧迫感を十分に伝えるものではないのだろうが、天上の楽のようなバッハのゴルトベルグ変奏曲が流れる画面からは、「人間は何でもしてしまうんだ」という事実の圧迫感が迫ってくる。

(ちなみに日本は大空襲の責任者に戦後に勲章授与してますが、こういうのは戦後レジームの脱却したらどう評価します?)

映画なしでも生きられる…かな?

2007年08月18日 | 
 今年の猛暑で倒れてしまいました。
 もともと子ども時代から腎臓が悪いので、塩分を制限した食生活なのです。
 今年の猛暑で熱中症予防に一生懸命ガブガブ水を飲んでいましたが、ただ水分を摂取すればよいというものではないそうで、汗をかいて気持ちが悪くなってそのまま4日まったく頭が上がらない状態で寝込んでいました。身体に必要なものが汗で出て行って足りなくなってしまったようです。少なくとも水でなく、スポーツドリンクを飲んでた方が良かったのですね。

 それやこれやで、パイレーツ以来劇場とはまったくのご無沙汰です。命に別状も特に精神不安定にもなっていません。

 でも楽しくもありません。

 早く普通の生活に戻りたい。

 ところで、めまいのする頭でアダムズの「銀河ヒッチハイクガイド」シリーズ最終作「ほとんど無害」を読みました。ラストに至ってしばし呆然でした。
 こう、始末をつけちゃったんですか!?
 はじめに還る、という見方も出来るかもしれないけど…
 もともとがシニカルなユーモアにあふれた作品ではありますが、これは、シニカルの領域は過ぎてるようにも思えて… 今までの作品では、あの陽気でハチャメチャで、時間というものが主人公たちにかかわりなくなっちゃった世界が、何時までもぐるぐる回っているように感じていたのだな、と思います。
 私も今まで好きだったもののイメージを保守的に守りたい、ショックに弱い歳になったのかもしれないです。

「世界征服」は可能か/岡田斗司夫

2007年07月04日 | 
 今日もまた、京浜東北線が事故で遅れ、つい本屋へ行って買ってしまいました。
 遅れた電車の中で読んでいて、本の前半が可笑しくて我慢できずに涙流して笑いこけてしまいました。おかげでそうでなくても涙が出やすい眼の状態なのに、修復不可能なほど眼の周りのファンデーションが流れました。マスカラ無しでよかった。

…ここまで書いてまた本を読んでいたら、涙が止まらなくなったの続きは明日にします。

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7月5日記
 著者にご訪問いただくとは本当にびっくりしました。
 このブログが「WEBの隅っこでひっそり言いたいこと言っていよう」という私のいささかセコイ精神を反映したものですので、もう著者ご自身の反応をいただいたりして、思わず浮き足立ってしまいました。
 しかし、恐れ気なく(もないけど)続き書かせていただきます。

 私は前半部分の今までのマンガ・アニメ・テレビのヒーローシリーズなどを例にとって「世界征服」を目的から、その頭目としての資質までを解説してくださるところが最高にウケました。
 圧倒的に強い敵に果敢に立ち向かい、苦しみ成長し遂には勝利するというのがたいていのあらすじのパターンです。ヒーローの敵は世界征服をたくらむくらいの強大な力を持ってないと困るわけです。しかし、戦隊シリーズでも仮面ライダーでも小戦力の逐次投入というどう考えても最悪な戦略を何年にもわたって採用する敵ばかりなので、地球は無事です。でもみんな絶対一度は「全部いっぺんに来たらどうすんだろうなあ」くらい言ってますよね。そんな今まで誰しも一度は考えたであろうことが、きちんと例を示して整理して文章化してくれてますから、なんだかスッキリハレバレしました。
 レインボーマンの強烈さは最近触れることが出来たので、単純に面白がれましたし「バビル二世」の悪役ヨミ様のお気の毒さは抱腹絶倒です。是非読みたいと思います。

 笑いながら、いつの間にか全体の利益とか富を一部のものだけが独占出来る社会が繁栄可能か?また、社会にとっての悪とは何か?という議論まで引っ張っていかれます。
 最初の事項については、独裁体制でおおっぴらにやってる処は貧乏です。でも、資本主義という現代社会の大前提は根本は弱肉強食ですから、ほっとけば資本は弱小な存在を食い物に自己増殖しちゃいます。富の偏在は結果として存在します。
 そして悪とはその時代の秩序を脅かすものですが、今の社会でそれをしようとすると「経済主義とネット社会」を否定することになり、それはエコロジー的でリアルな交流重視のとても反社会的という形容詞にそぐわないものに見える。
 でまあ、最終186ページのページの3行にはあららここまでつれてこられちゃった…とちょっとびっくりです。

 論の展開に理解しきれないところは残っていて、そこを詰めるのはこれからの課題ですが、人間は「君臨したい・支配したい」欲は絶対あります。世界征服はその欲求の終点かもですが、思うのも体力要りそうです。
 これを読んでいて、いろいろな方向へ連想が飛んでいきました。それを並べて考えてみるのも面白そうです。

ロビンフッドに鉛の玉を/ステュアート・カミンスキー

2007年07月02日 | 
文春文庫

 眼の充血も少し良くなりまして、仕事相手に泣いているのかとびくびくされたり、「眠いの?」と頻繁に聞かれたりしなくなりました。あと少し!今週中にはパイレーツ見るぞ!(遅い!泣きそう!)

 で、最近は爆発しない温泉でないスパ施設でVシネマのしょこたんやら星野アキ主演のアクション映画(と言っていいのだろうか)をちらちら見てそれぞれのファンの皆さんには悪いけどがっかりしたり、画面の動かない本や漫画を読んだりして居りました。

 恥ずかしいことに未読だったステュアート・カミンスキーの探偵トビー・ピータースシリーズ(入手困難だった)が、なんと図書館で揃っていたので一気読みできました。
 1940年代のハリウッドが舞台で、監督・スターの実名バンバンでてきます。
 まずタイトル見ただけで、誰にからんだ事件かがわかります。

 ロビンフッドに鉛の玉を 
 虹の彼方の殺人
 我輩はカモじゃない
 ハワード・ヒューズ事件
 吸血鬼に手を出すな

 第1作はもちろんエロール・フリン。 何かと女性関係の問題の多かったスターの事件は、やはりそれ方面のものです。(これを書いているときも、ふりんの変換が不倫になったりするのがなんとなく平仄があいすぎておかしい。)
 プライベート探偵なので、各作品で違った映画会社を動き回る主人公が、問題を解決するために綺羅星の如き映画人の間を動き回りますが、この時はワーナー。
 エロール・フリンのスキャンダル解決のために殺人事件に巻き込まれ、フェイ・レイをキングコングから救った男に助けられたり、ピーター・ローレに事件解決のヒントを貰ったり(ローレはなかなか頭脳明晰に描かれてます)、E・G・ロビンソンに画商と間違えられたり、ゆすりの犯人を追ってエドワード・アーノルドを突き倒しG・クーパーに助け起こされたり(スタンウィックはいなかったシーンですね)、「黒い鳥の置物」の中から手がかりを取り出したり…
 あ、あの映画ね、と映画クイズとしてもけっこう楽しめます。未知の事実もかなりあってほんとに面白かった。
 ドン・シーゲルはダーティーハリーのイメージ強くてこの世代の監督じゃないように思っていたけど、そうか、エロール・フリンと同じスタジオにいたのかとか、「ハイ・シエラ」も「マルタの鷹」もジョージ・ラフトにまずオファーが行ったのか、などなど。
 実は「ハイ・シエラ」未見。早速見なくては。

ヴィクトリア朝を舞台のマンガ

2007年06月15日 | 
 今週はお医者さんの待ち時間が長くて、2回の通院で待合室の「エマ」(森薫)全巻読んでしまいました。ターンAガンダムもほとんど読みました。
 お金のある都会系ジェントリーと、教養のあるメイドさんが幾多の波乱を超えて結ばれるまでの古典的なロマンス。脇にもとがったキャラをたくさん揃えていて、興味深いものではありましたが、私はヴィクトリア朝舞台だったら、坂田靖子の「バジル卿」がいいなあ、と。苦味の加え方がすごくセンスが良いと思ってます。
 世界中の利子がなだれ込んでいたヴィクトリア時代のイギリスのお金持ちときたら、想像を絶するようなもんではないかと思います。女にとってすごく重苦しい枠のはまった社会ではあったけど、それでイザベラ・バードのような女性を出すような部分もあったわけで。そこを上手に取り込んでるのも好きです。やっぱり個人的な嗜好の問題になります。
 ちなみに、本が置いてあったのは眼科ではありません。

「Vガンダム」は、けっこうあとを引いてます。
 キレル女性たちも怖かったけど、ナサケない男も多かったドラマでした。
 最終回のオデロとクロノクルは、なんでしょうねえ、あれ(怒)
 けっこう生意気に恋愛やってたオデロは、死に際いきなり「父ちゃん、母ちゃん」
 クロノクルは「姉さん助けて」
 二人とも恋人の名前くらい呼べんのかっ!
 カテジナ役声優渡辺さんの声も耳から離れず、しかしカテジナさんのセリフはとても口にできず、「ジョーネツの、あっかいばら~」とつい歌ってます。
 この余勢を駆って、「Gガンダム」全部見ちゃおうかな。

謎の娘キャロライン/カニグズバーグ

2007年05月22日 | 
岩波少年文庫

「カーラの結婚宣言」を見て、久しぶりに出してきて読みました。

 これも、私の片付かない観念を刺激してきます。
 キャロラインとは、誘拐された金持ちの娘で、死んだものと思われていたのが10数年ぶりにあらわれ、母の違う弟と妹の人生を大きく変えていく、というお話。
 そして、その妹の方が障害があります。
 内容は本当に是非読んでいただきたい、というものです。ミステリー要素も(話のメインでもないし、すぐわかっちゃうけど)あり、いつもながら、思春期の歯を食いしばって生きる少年の姿は読ませます。
 そしてこれを読むといわゆる健常者が障害を持つ人に「(健常者よりも)劣った」「イノセントな(…これも認識とか思考の幅が劣るという意味での)」「(より強いものに)守られるべき」存在であることを強制しているのを認識させられます。

 だからといって、どうすればいいのかがさっぱり分からないのが「片付かない観念」の不安の原因。だってやっぱり「幸せでいて欲しい」というのは願っていますが、それがイコール「平穏無事」以上には想像ができません。私については、ハンディキャップの問題で追い詰められたことはなく、見聞きしたことひとつひとつについてそれぞれ別個に考えるのみ、なのです。

少女小説的な

2007年04月30日 | 
 引越しで発掘した少女小説の古典をまとめて読んだことは4月18日の記事に書きましたが、様々ツッコミどころはあれど、やはり女の子に生きる力を与えてくれるものなのであります。
 主人公みんないわゆる良い子イメージではありませんし、
・周囲との違和感を抱いている。(これはだれしもそうです)
・愛される良い子にはなりたいものの、しかし期待される少女像と自分がなりたい人物イメージがずれている。
・女は庇護され、裏方で尽くすだけの存在ではなく、個人の才能や興味を伸ばしたっていいじゃないか!
・でもやっぱり自分本来の姿を認めて愛して欲しい。

 多かれ少なかれ、少女小説はこういった叫びを代弁してくれてる部分があります。
 それで、これもまた今回の引越しで出てきて読んでおりましたのですが、
「堤中納言物語」のなかの

「虫愛ずる姫君」

 美人なのに化粧もせずに、高貴な身分なのに平気で御簾の外に出ては、虫の、しかも幼虫・芋虫状態を観察・比較・考察する平安時代の姫君は、けっこう上記の条件に当てはまってるんじゃないかな…など思ったのです。(最後の、愛されたい願望までは描写されてませんが)
 物語が世に出て以来千年の時の中、斯くありたいと思った愛読者の女の子たちはかなりの数存在したんではないでしょうか?

 物語の中で、姫君を覗き見した男が「美人なのにこの有様では、声をかけるのはやめとこう」みたいな勝手なことを言ってます。そういうことは、虫より興味がもてる存在になってから言いやがれ、ですな。

クラシック少女小説

2007年04月18日 | 
 上橋菜穂子さんの新作が出ましたし、「守り人」シリーズも、軽装版が出てとってもお求め安くなりました!やっぱり小型になると本を置いておけると思って嬉しくなりますね~~
 それにしても、BSの守り人のアニメのバルサ、イメージ違ってます。でも見ますが。

 このたびの引越しで、古い本の虫干しもかなりしました。
 松本零児のふっる~い戦場マンガ(SFでない、第2時世界大戦舞台の)なんてものまで出てきて(誰が何時買ったんだろう?)その戦争の描き方というものに、今時の戦争映画のムードと強烈なギャップを感じてしまったりしました。

 ある程度種類別にまとめてしまってあったのですが、今回は池波正太郎とかはほっといて読みふけってしまったのが、小学校から中学校時代に読んだいわゆる少女小説の箱から出てきたもの。NHKでもモンゴメリの「かわいいエミリー」がアニメになって、これもまた見てます。忙しい!
 さすがに今に残る作品は出来が良くて、面白いけど、歳をとればとるほど、引っ掛かるところが多くなります。ある程度まとめて読んでみて思ったのは、少女小説の主人公は「書く少女」が多いこと。「若草物語」のジョーも、「足長おじさん」のジューディも、「赤毛のアン」も、「かわいいエミリー」なんか彼女の人間形成とか周囲とのかかわりが書くことを中心に構成されてるよう。「小公女」の主人公は語る少女だったけど。
 少女小説というのは、「文学少女による文学少女のための」という側面は絶対ありますね。女の子が頭良くてもいいんだ、と肯定してくるれるストーリーでもあるし。

 まあ、それで日曜夜の名作アニメシリーズも思い出したけど、「小公女セーラ」だけはいまだに許せません。あのラストは何っ?!
 セーラを学校に戻すなんてとんでもない暴挙でしょう。今思い出しても腹立つ。

宇宙戦争 in Japan

2007年03月27日 | 
 何日ぶりかのアクセスです。
 いきなり家族の一部が仙台に引っ越すことに決まり、家中大騒ぎです。
 私は、横浜残留組なのですが、怪我のために引越しや模様替えの労働力としては役に立たなかったので、仙台で不動産屋を回ってきました。仙台は生まれて初めてでしたが、本当に不動産屋さんだけで、そのほかはちょっと博物館行って、白松が最中というお菓子を買っただけの仙台滞在でした。でもまあ、これからちょくちょく仙台に行くことになるんだろうと思います。
 4月始めに引越しが済んでしまえば、元のペースにたぶん戻れます。
 ネットと離れている間に、何とか指も使えるようになりました。小指がキーボードに当たっただけで、悪化した虫歯で思いっきり噛み締めちゃった時の様な、脳天にズキーンと来る痛さでした。左手の小指ですから、変形したり変色が残ったりしたら本当にいやだっ、と。そのことが今現在一番気になってます。

 で、引越しのおかげで探していた本が出てきました。
 スピルバーグの「宇宙戦争」を見た後、内容は思い出したものの、タイトルを忘れて探し出せなかったのが、この短編

 清太郎出初式
 梶尾真治著 ハヤカワ文庫「地球はプレイン・ヨーグルト」所収 昭和54年初版

 H・G・ウェルズの「宇宙戦争」は1900年に火星人が攻めてきます。こちらは、その時明治33年に、火星人が九州にも来ていたというお話。
 圧倒的に強い怪物の出現に、庶民はわけも分からず、なす術も無く逃げ惑うばかりで、生きることだけで必死、政府も軍隊もとりあえずできることはしてもどうにもならないという状況がスピルバーグ版「宇宙戦争」と奇妙に似通っていて、思い出して、それから気になっていました。。
 でも、この日本版では、家族を殺されて生き残ったものがだんだん家族のような親密な関係を獲得していきます。トム・クルーズのラストシーンでの孤独な姿に、私は今の時代の痛みみたいなものを感じないではいられませんでした。
 作り手の姿勢ももちろんですが、この違いは時代を映しているんじゃないでしょうか。

宮部みゆき讃

2007年02月17日 | 
前回書き足りなかったことの追補です。

 宮部みゆき氏のお仕事については、最近では読むたびに「すごい」と唸ってばかりです。
 軽めのテイストの時代ものは登場人物の性格がちょっと現代的過ぎないかなあ、と思うところはあったりするものの、いつも見事にストーリーに乗せられてしまう。

 今度の「孤宿の人」では、特に彼女の初期短編から感じていた、
「社会的に弱い立場で必死に生きていくもの、馬鹿にされるものの誠実さ」
「人を超えたものへの畏れを知る謙虚さ」
「理不尽な死や不幸への無念への思い」
を、それが結果的に現象的に悲劇であっても、物語のなかで昇華して人間という存在に対する希望さえも奮い起こさせてくれるようだ。

 そういったわけで、本当に脱帽です。
 本当に良く小説家の道を選んでくれました。

 ところで、
『銀行は死体だらけ/ ウィリアム・マーシャル /ハヤカワ文庫』
は、1997年の中国返還直前の香港が舞台。
 返還直前という状況を見事に活写し、かつプロットに実に有効に利用しているので、もうこれはその状況下を描いた単発もの?と思ったのでした。でも解説を読むとなんと続編が続いてるらしいので、是非追っかけてみたいシリーズです。それに登場人物の口から映画の名前やらがドッチャリでてくるのも楽しみです。
 この本では「プラン9 フロム アウタースペース」なんて名前まで出てきて、こういう映画などの薀蓄がどこまで披露されるかそちらのほうでも楽しみです。

最近読んでいる推理小説

2007年02月15日 | 
今年の1月は「お仕事やらねばならぬ」と思いつつどうも手につかなくてためてしまったのです。
ただいましっかりつけ払ってます。
ついオークションでうさ晴らしの買い物しないように、ケーブル引っこ抜いて、ネット接続は一日30分。おかげでメールがたまるたまる…本日も80件ありましたわ、ははは。

でも、やっぱり遊んでしまいます。
先輩の愛唱歌に
「いつまでたってもダメな私ね~」
というフレーズがありますが、実に我がことです。
ところで、これなんていう歌の一節なんでしょうか?

今週は映画も封印なので日曜から本ばっかり読んでます。

銀行は死体だらけ/ ウィリアム・マーシャル /ハヤカワ文庫
公爵ロビーの大逃走 /グレゴリー・マクドナルド /サンケイ文庫
恋するA・I探偵 /ドナ・アンドリュース /ハヤカワ文庫


これはどれも面白かった。
マクドナルドの本は第2次大戦中にイギリスの貴族の遺児が疎開したアメリカでどいつもこいつもという大人にひどい目にあうお話で、マルクス映画などのクラシックな皮肉さを思わせる。
「恋するA・I探偵」では、探偵役がなんと人工知能ですよ!それで女性人格持ってるの!感情もある。ここまできたか…って感じ。

孤宿の人/宮部みゆき/人物往来社

もう脱帽です。

カラーパープル /アリス・ウォーカー /集英社文庫

映画も良かったけど、本を読むと、字幕に頼って見ていることで理解に限界があるのが分かってしまいます。