1964(昭和39)年3月に北海道学藝大学を無事に卒業して、4月より北海道当別高等学校に赴任した。同校が町立から道立に移管する年であり、10月には東京オリンピックが開催された年である。指導教官(駒ヶ嶺大三先生)に呼び出されて話を聞くと、同校が求める採用条件が音楽教師で英語も指導できる人であった。教官いわく「君、中学校から大学まで英語の授業を受けてきているのだから、高校生の英語くらいは教えることができるだろう」であった。私は「一年生程度ならば何とかなるでしょうか?」と自信無さげに答えるのが精一杯であった。しかし、結局は同校にお世話になることに決め、更に詳しく聞いたところ「音楽の授業が6コマ、英語が6コマ担当」という驚くべき内容であった。~歴をたどる上で、直接合唱とは関係の無いような周辺状況に及ぶことをお許しいただきたい~
私が取得した教員免許は、小学校1級、中学校音楽1級、高等学校音楽2級であり、英語の免許は持っていなかった。もちろんその事実を知った上での採用であったので、こちらからも二つの条件をお願いした。「授業は一年生のみにして欲しい。かつ、朝一時間目の英語の授業は免除して欲しい」であった。一つ目は当然(?)として、二つ目の理由は、「前日に英語の予習が不十分であった場合に備える」であった。誠にわがままな注文であるが、無免許運転を強制(?)する側としても認めざるをえず、条件は全て飲んでいただいた。
音楽の授業は全日制と定時制で行っていたが、英語と音楽の掛け持ちはその後5年間続いた。当時の定時制の生徒に後に作家デビューした佐々木丸美さんがいた。作家といえば、私が当別高校へ赴任した年(夏)に、本庄睦夫没後?年祭とかで記念式典が当別高校を会場にして行われ、伊藤整氏ほか錚錚たる方々にお会い出来たことも懐かしい。
さて、合唱活動だが、私は教員として赴任した学校で合唱活動を行うことが第一と考えていた。しかし、無から有を成すことは容易ではなかった。私が赴任するまでは、音楽の授業を札幌から通う非常勤の先生が担当していたので、到底、クラブ指導までは行き届いていなかった。したがって、音楽系の部活は無かったのである。私は、当然合唱部の創設を考えて働きかけを始めたが、当時近隣の中学校には合唱部は無く、「合唱を続けたい、やりたい」という生徒がほとんどいなかった。しかし、授業等で声掛けを続けるうちに2,3名の生徒が意欲を示し、何とか2年目の春には合唱同好会を設立した。
当別高校は石狩管内なので、いずれは、高文連石狩大会への出場を夢見ていたのだが、なかなか人数が揃わなくて実現できなかった。当時の私には、高校生がわずか数名でステージに立つことなど思いもよらないことであった。したがって、近年、10名前後でコンクール等に出場する学校もあるので、なんとなく複雑な思いで聞くことがあります。
部活動としては対外遠征するようなところまでは行かなかったが、ある年、家政科の授業が学級単位で実施されたので、春先から準備して秋の「高文連石狩地区音楽会」に参加させたことがあった。ほとんどの生徒が体育館以外のステージには乗ったことが無いというのに、突然、札幌市民会館のステージに立ち大いに興奮し、舞い上がっていた彼女たちの姿が懐かしく思い出される。もちろん、演奏レベルは高くは無かったが、先輩教師たちから「良く連れて来たな」と声をかけららたことも嬉しい記憶として残っている。
私が取得した教員免許は、小学校1級、中学校音楽1級、高等学校音楽2級であり、英語の免許は持っていなかった。もちろんその事実を知った上での採用であったので、こちらからも二つの条件をお願いした。「授業は一年生のみにして欲しい。かつ、朝一時間目の英語の授業は免除して欲しい」であった。一つ目は当然(?)として、二つ目の理由は、「前日に英語の予習が不十分であった場合に備える」であった。誠にわがままな注文であるが、無免許運転を強制(?)する側としても認めざるをえず、条件は全て飲んでいただいた。
音楽の授業は全日制と定時制で行っていたが、英語と音楽の掛け持ちはその後5年間続いた。当時の定時制の生徒に後に作家デビューした佐々木丸美さんがいた。作家といえば、私が当別高校へ赴任した年(夏)に、本庄睦夫没後?年祭とかで記念式典が当別高校を会場にして行われ、伊藤整氏ほか錚錚たる方々にお会い出来たことも懐かしい。
さて、合唱活動だが、私は教員として赴任した学校で合唱活動を行うことが第一と考えていた。しかし、無から有を成すことは容易ではなかった。私が赴任するまでは、音楽の授業を札幌から通う非常勤の先生が担当していたので、到底、クラブ指導までは行き届いていなかった。したがって、音楽系の部活は無かったのである。私は、当然合唱部の創設を考えて働きかけを始めたが、当時近隣の中学校には合唱部は無く、「合唱を続けたい、やりたい」という生徒がほとんどいなかった。しかし、授業等で声掛けを続けるうちに2,3名の生徒が意欲を示し、何とか2年目の春には合唱同好会を設立した。
当別高校は石狩管内なので、いずれは、高文連石狩大会への出場を夢見ていたのだが、なかなか人数が揃わなくて実現できなかった。当時の私には、高校生がわずか数名でステージに立つことなど思いもよらないことであった。したがって、近年、10名前後でコンクール等に出場する学校もあるので、なんとなく複雑な思いで聞くことがあります。
部活動としては対外遠征するようなところまでは行かなかったが、ある年、家政科の授業が学級単位で実施されたので、春先から準備して秋の「高文連石狩地区音楽会」に参加させたことがあった。ほとんどの生徒が体育館以外のステージには乗ったことが無いというのに、突然、札幌市民会館のステージに立ち大いに興奮し、舞い上がっていた彼女たちの姿が懐かしく思い出される。もちろん、演奏レベルは高くは無かったが、先輩教師たちから「良く連れて来たな」と声をかけららたことも嬉しい記憶として残っている。