8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

わが合唱歴③~岩見沢から札幌へ(学生時代)~

2011-10-12 07:34:55 | 合唱
2年間の岩見沢校での学園生活を終えて、1962(昭和37)年4月からは札幌校での大学生活後半が始まった。引き続き音楽研究室に所属し、グリークラブ(男声合唱団)にも入団した。30名程度のグリークラブであったが、なぜか理系の学生が多かった。また、音楽研究室でも有志による混声合唱団が編成されていて、夏休み中に予定されている演奏旅行に向けて練習を重ねていた。また、新たに声楽のレッスンを受けることになった工藤健次先生(故人)の教え子たちで結成されていた「札幌ズイングアカデミー」という音楽グループにも所属することになった。なお、札幌では「竜生寮」というこじんまりとした男子寮に入ったが、辰年生まれの私には大変縁起の良いところであった。そして、当時寮長であった宮武良徳君(故人)とは中学校も高校も同じ出身で、卒業後も大変お世話になった。

さて、グリークラブでは入団直後に、副指揮者への就任を依頼された。理由は「音楽専攻生であるから」であったが、私は指揮の経験は全く無かった。したがって、当初は渋っていたのだが、定期演奏会に向けて副指揮者が決まらないと練習にも支障を来たすという実情を見るにつけ、頑なに拒むことが出来ずに就任を受諾した。副指揮者は定期演奏会において一ステージの指揮を担当することになっていたので、、早速練習が始まった。たった一年半ほど、単なる歌い手としての経験しかない私には大変な重圧であった。正直に言って,この頃には、合唱の楽しさではなく、苦しさを味わっていたような気がしている。したがって、当時の団員、とりわけ役員の人たちには心配やら迷惑を掛けたことを申し訳なく思っている。

そうこうしているうちに、次期の正指揮者に決まってしまった。よほどのことが無ければ、副指揮者が正指揮者になるのは通例であったのだが、依然として指揮が楽しいとは思っていなかった。溌剌と熱意に燃える指揮者でなかったことを今でもおわびしたい思いである。
しかし、この経験が、大学卒業後に教員となった折には役に立った。授業でも部活でも、一応は指揮の初心者ではなく臨むことが出来たからである。グリークラブでは歌う機会が少なくなった大学最終年であったが、音楽研究室では夏の演奏旅行があり、日高、十勝方面を巡った。合唱があり、独唱がありで、いくつかの中学校や高等学校で楽しく歌うことが出来た。何と、その旅行の引率をして下さったのが、当時ご結婚を間じかに控えていらっしゃった川越守先生(現北海道交響楽団指揮者)であったことも懐かしい思い出である。そして、その旅行中に藤江義子さんとの出会いがあり今に至っている。

札幌ズイングアカデミーでも歌っていた。NHK札幌放送局でテレビ出演することがあり、童謡のソロを担当させていただいたこともあった。また、ズイングでは周りの人がほとんど先輩であったので、学生では到底行けないような所で美味しいお酒をご馳走になったりして、音楽以外の社会勉強もさせていただいた。また、札幌放送合唱団でも数か月間歌わせていただく機会があり、貴重な経験をさせていただいた。更に、小樽市のアポロ男声合唱団でも歌うことになった。そして、全日本合唱コンクール全国大会に出場し、出来立ての東京文化会館のステージにも立つこもできた。指揮者は大先輩の上元芳男先生(故人)であった。そして、後々ご本人から聞いたのだが、栗山文昭先生も島根県代表としてこのステージに立っていたそうである。このような状況なので、グリークラブ指揮者としてよりは、自らが歌うことに喜びを感じていた時代であったことは明白である。
コメント
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