えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

おしまいの話

2009年12月31日 | 雑記
年の終わりは今日です。

窓を拭いたり掃除機をかけたりが一段落してセキュリティソフトを入れなおすのが
ここのところの毎年の慣例になっているようなそうでないような。
外に出ても人車自転車ローラーブレードキックボード車椅子その他がぐんと減って
街はひっそりとしています。
おしまいからはじまりに向けた準備は、うちの中で着々と進んでいるようです。
買い物に出かけた家路「私は年を取った!!」と思いました。
そのとき通った道は、昔小学校へ通っていた時代何べんも通った家路のかどでした。
道路の奥の公団こそぐっと背が高くなっていますが、それでもうちとうちの前の
公園の緑、お隣さんの姿はその頃見ていたものとほぼ変わらず、同じ位置をまた
違う人間が通っていることが不思議に思えるのです。
10年、20年の上に立っていることが信じられないほど、見ている風景に「過ぎている」
という違和感はないのです。でも背は伸びたし、顔もずんと年をくって子供のあの
可愛さというものは失われているし、こうしてPCで文字を書くことを覚えているしで、
確かに何かは変わり、また年月の積み重ねが身体に積もっていることはそれこそ
身に染みて、振り返ると分かるものだと思います。

ただ年を取ってゆくだけの日々が、歳をとった、という意識のもと終わった。

ことしはそういうことを味わう年でした。


こんなことを書きたくなるから年を取ったというのでしょうか。いやだなあ。

また一年のおわり、違う日々の過ごし方が来年の私を待っていますが、
ずっと昔は、明日一日だけはすべての人々が休めた日本だったと聞いています。
明日くらいはなんにもせず休みましょう休みましょう。

ことし一年、目を通してくれたみなさま、ありがとうございました。
どうか良いお年を。
そして来年も元気でいられますように。頓首再拝。感謝一杯。
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「戦国無双3」なんというか

2009年12月26日 | 雑記
 先日の文章ではゲームの内容それ自体には全然つっこんでいなかった。シリーズ作なので以前との差異をきっちり書かねば、と思って書いたら寡聞な自分にはインタフェースぐらいしか変わったことが見つからなかったのだ。なので今日はちょっと内容にふれてみることにした。
 
 基本的にこのゲームのルールは、武将を操って草刈のようにさっくりと敵を倒してゆくことのみである。みんな一律に同じ動きではつまらないので、プレイヤーが操ることの出来る武将は皆違った動きや武器で攻撃をする。それぞれの武将には、史実に基づいた、あるいは史実からイメージを膨らませた架空のシナリオが用意され、話ごとに戦場の舞台が用意されている。同じステージでも違った立場に立てば、全く違うイベントや目標が設定されるので、それにあわせた戦い方を要求されるのだ。目標を達成するためには、コースの取り方やアイテムの使い方など、ある一定の条件を考えなくてはいけない。ルール自体は、前作や前々作、「三国無双」シリーズとは変わっていない。その分本作を最初に作ったときは、基本的なルールを変えないながらも、ルールを構成する操作という要素を変更したことで、違ったゲームになれた。武将一人ひとりにお話と性格を与え、歴史に忠実な「三国無双」とは異なり、戦国時代という雰囲気を崩さず大胆な味付けを施したことも個性の一つだったのだろう。
 
 ただ、もう話はいいだろうと思う。話のつくりかたがうまくないのだ。歴史には史料と資料がある。史料を読むことは難しくとも、史料を読むための資料はあるはずなのに、それをさらに作家のイメージとして作り上げた資料に振り回されている。ストレートに目標へ向うキャラクターなら突っ走ればよいのに、その突っ走り方へ友情や正義や愛など、言葉はいいのになんだか胸がむかむかするように使われた味つけをしているものだから大変なのだ。歴史も言葉も上滑りしていて、作り手の身になっていないことが遊ぶとわかる。
 一番最初のスタッフ達が割り切ってつくった、遊び心のあるアクの強いキャラクター達を使いこなせなくなった―お話を与えてやれなくなったことからもそれは伺えると思う。例えば史料があまり残らない織田信長の妻濃姫は、一作目では夫を愛しながらも夫の命を狙うこわーい美女に描かれているが、二作目以降は夫を支える妻としてあっさり目に描かれ、本作はついに彼女専用のシナリオが省かれてしまった。シナリオが省かれるのはまだいいほうで、ゲーム自体からフェードアウトしてしまったキャラクターも何名かいる。それでもゲームに残ってるから遊ぶか、というと、お話のあるキャラクターの人数が多いから普通に遊ぶ程度では、まずやらないんじゃなかろうかとも思うが。

 で、お話のコンセプトは、最初は遊び、次は歴史の流れに沿ってと目的があったのだが、今回は?―よくわからないのだ。ゲームで遊んで「もらいたい」のか、自分達が作り上げた戦国時代風ファンタジーを見せびら「かしたい」のか。どっちかというと、後者が目的のような気がするのでむかむかとする。

 ゲームの基本は遊びのルールを用意するものだ。と思う。内容云々よりも、つくりかたにこのゲームは問題を抱えている。ルールで遊んでもらうのではなくて、話で遊んでもらうことはアクションゲームにそこまで大切なことなのだろうか。決断は出来ないがとりあえず私含め家の弟たちは、お話用のムービーは一度見たら飛ばしている。見ても特に感想はないようだった。
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がんばれますらお

2009年12月21日 | コラム
ゲーム自体は親切かつ無難に出来ています。

:「戦国無双3」 2009年12月3日発売 コーエー&テクモホールディングス

 テレビを片している最中コとエとー二本のロゴがちらちらと見える。プレイステーション(以下PS)の正方形パッケージからPS2の端がまるっこい縦長パッケージに移ると途端にロゴがどっと増える。パソコン用のソフトにもいた。コとエとー二本のロゴのゲームを親の代から遊び続けている歴史が気づくと回りを取り囲んでいた。同じコントローラ、同じ操作方法が続くシリーズ物なのに中毒したように続くソフトウェアの積み重ねだ。

 2004年にコーエーから発売された「戦国無双」は、5年後の今シリーズ3作目を数える。戦国時代を舞台とし、武将を操って敵を倒してゆくアクションゲームだ。歴史を舞台にしているとはいえ、例えば1567年生まれの「真田幸村」という武将が1575年の「長篠の戦い」に登場するなど史実とずれるステージ構成や、大胆なイメージにのっとったキャラクターなど、ゲームとしての遊びを優先させた作りである。操作もボタンを押す順番で動きが変化するので、ただキーを押しているだけでも敵を薙ぎ倒す爽快感がある。

 本作はハードウェアがPS2からWiiに移り、コントローラがPSのダンベル形のから一気にぺったんこのクラシックコントローラ、縦長のWiiリモコンにボタンが大きくて身体の小さいゲームキューブ(以下GC)の可愛いコントローラと計三種類の全く違ったインタフェースになった。GCコントローラをWiiに挿してスタートボタンを押す。二時間後、ゲームに同梱されていた横から見ても上から見てもダンベルとそっくりな「クラシックコントローラPRO」を握っていた。遊ぶハードが違うのに、ボタンの押し方を初めとした操作方法がまったくPS2と変わらない操作の違和感がとうとう取れずじまいだったのだ。

 手でぎゅっと掴み指先で遊ぶ細かい使い心地から、おおざっぱに手全体で動かす使い心地は感覚として正反対の性質を持つ。これがあれば今までと同じ使い心地でゲームが出来る。そんな心遣いよりも、PSで出来なかった別の遊び方をWiiで見つける工夫は無いものなのだろうか。(799文字)
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ふみ×3

2009年12月20日 | 読書
500日。
ブログを開いてからこれだけの時間が経ってしまいました。
ふと足元を見ると、12月の晦日と1月の朔日が近づいています。
年を取るにつれて、一年を過ごしたと言う感覚を年々失っている気がします。
1つ年を取ると言うことと365日―364日の時もありますが―を一回りしたと
言うことを、からだがしっかりと受け止めることを覚えたその頃には、
たぶん使いこなせなかった時間の量を悔しがり惜しむと思います。
でも、おおかたの普通の人のために用意された道ですが、そのときには
そのときの自分に出来ることしかできなかった、それだけのことだと思います。
可能かどうかはともかく、挑戦することや怠ける心すべてひっくるめて、
出来るかどうかのきざはしの選び方が人だと思います。

:木喰上人 柳宗悦選集9 春秋社 柳宗悦

 ものかかば かかぬふりこそ ものかきよ

   かくふりすれば はじのかきやう


:最後の物達の国で 白水社 ポール・オースター作 柴田元幸訳

 このノートがあの部屋に行きつくと思うと、嬉しくなります。
 たとえば私のベッドの上の棚に、昔遊んだ人形達や、七つの時のバレリーナの
 コスチュームと並んで。私を思い出すよすがとなる、最後の一つの物。
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炭酸飲料マン

2009年12月14日 | 雑記
うっかりインフルエンザで倒れている間に、家に薄型テレビの大きいのが
入る算段がついていたり、「戦国無双3」が購入されて姉弟全員でWiiを酷使して
そろそろWiiに陳情されそうだったり公演のチケットが手に入ったりといろんなことがありました。

手がゲームになれるにつれて、かつてあきらめてしまったソフトをむらむらと引っ張り出したく
なることがあります。CDケースに入ったソフトの数々を眺めているうちに久々に
「クラッシュ・バンディクー」(1996年・プレイステーション)を遊ぶ気になりました。
私と同世代の方はご存知かも知れませんが、逆三角形型の犬かキツネかわからない
茶色の生き物が、握り締めた両手の親指を上にして脇をしめた腕を腰にあてて踊る
CMで一時期はやった生き物です。
日本では2006年の「クラッシュ・バンディクーフェスティバル」を最後に発売されて
いませんが、海外では2008年にも新作が出ています。
タスマニアに住むバンディクーという生き物をモチーフにした主人公「クラッシュ」
を操作して進む、奥スクロールアクションゲームです。
普通、スクロールするアクションゲームと言えば、横に操作して進んでゆく「マリオ」や
縦にスクロールしてゲームが進んでゆくシューティングゲームなどが挙げられますが、
こちらは背中を向けた主人公を奥へ奥へといざなって行くアクションゲームです。

主人公クラッシュは、ジャンプと自分の身体を回転させる「スピンアタック」という
技しか持っておらず、この二つを利用して全32ステージを冒険し、とらわれの彼女を
助け出す、というシナリオのゲームです。
シリーズ2、3になると多彩なアクションが増えて、ステージのクリア方法もぐっと楽になるのですが、
本作はアクションがこれしかないので進み方に気をつけなければあっという間に
ゲームオーバーになってしまいます。
久々に遊んだ手にクラッシュのジャンプ距離はあまりに厳しく、気づくと1時間程度遊んで
30回近く失敗しまくりました。それでやっと最初のボスまでいける、といった具合です。
むずかしいですが「まったくできなくて投げだす」難しさではなくて、
たとえばジャンプのタイミングが少し遅かったり、キーを押すタイミングがわずかに
ずれたりとか、こつを飲み込むまでに練習が必要なむずかしさなので、「次こそ、
次こそ出来る!」と頑張るにはちょうどよい難しさだと思います。

でも彼より微妙なアクションで頑張るヒーローがいました。
この「クラッシュ・バンディクー」が出た三年後に発売された、派手でずうずうしい
奥スクロールアクションゲームが発売されます。タイトルは「ペプシマン」。
あいつです。奴です。銀のフルメタルボディに首のチェーン、半身を青にペプシコーラのロゴを胸に
きめたペプシマンが主人公のゲームです。これが実にくだらなくてものすごくやりたいのですが、
あいにくと手に入らないので動画を眺めて悔しがる日々が続いています。

動画を見る限りでは、ダッシュとジャンプしかアクションはなく、おそらく一時停止も出来ないでしょう。
ひたすら奥へ奥へとつっぱしるペプシマンを左右と前に動かしてゆく、ゲームとしては
わりと正統派にストイックなつくりをしています。ゴールにたどりつくとCMの「シュワー」、
ステージをクリアすると当時の社長がTシャツ+短パンでペプシ片手に名言を吐く
カオスなムービーが流れてサービス満天なのです。
ペプシマンの速度はたぶん「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」と同じくらいスピード感溢れる速さで、
ダッシュすると制御のタイミングがつかみづらくなるほどです。
ペプシなので気は抜けてはいないでしょうが、それでも宣伝用と割り切らないで
ちゃんとゲームを作ったところが面白いと思います。

今はどこの空の下でしょうか。誰か行き先ご存知の方教えてください。手紙くらいは出したいと思ってます。

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吹けば飛ぶ

2009年12月08日 | 雑記
そのうす赤紫の線一本が、私に白い粉を吸わせるもととなったわけでした。
吸入器にブリスター―円盤型の銀紙にチョコレートを四つ押し込んでパッケージ
したような見かけの薬包―をセットし、蓋を押しあげてディスクに穴を貫通させます。
塩ビの笛ラムネの口をずっと広めにしたような吸入口を加えて一気に息を吸うと、
喉の奥をかすかに甘さを残して粉が通ってゆきました。

リレンザ(ザナミビル水和物ドライパウダーインヘラー)を日に二度吸うのが
今日からの日課になりました。期間は五日間。抗インフルエンザウイルス剤です。

職場の斜め後ろの席で一人発症し、家に帰れば弟が寝込んでいて、洗面所には
業務用アルコール消毒剤がどっしりと石鹸の代わりに鎮座しているのを見ると
これはもう覚悟を決めなければいけない気がしていたのですが、
今朝熱を測るとついに微熱が。
念のため検査―針金のような芯の先に綿のついた長い綿棒を鼻からつっこみ、
運が悪ければ鼻血が出る柔らかい粘膜に綿を当てて献体をとる―を受けて
しばし待機。フリースを着て部屋の温度は26度なのに身体はうそ寒く、脇から背中に
かけてじりじりと焦がすような寒気がしました。
検査の結果は5センチほどの細い紙切れで分かりました。
白地に気のせいかと思われる程度の、でも白地に比べると明らかにうっすらした
赤い線が浮き上がり、先生はひとこと「A型ですねー」といつも変わらぬ
明るい声でおっしゃると「Re」をパソコンに打ち込み、出てきた「Re」のつく
薬のリストから「リレンザ」を選んでEnterキーを押しました。

リレンザは吸入する粉薬で、一気に吸い込んでも噎せない細かい粒子が
円盤のチョコレートの一粒一粒にしまわれています。これに穴を開けて吸い込んで
から、吸入器の先端をひっぱり、半分ほど円盤が顔を出したところで元に戻すと
かちっというプラスチック同士のかみ合うあの音と共に円盤が時計回りに回転して
次の薬が所定の位置に装填されます。たまご型の吸入器はりっぱなリボルバー式なのです。
吸えているのかいないのかよくはわかりませんが、喉の奥のかすかな甘みにかけて
今日は休もうと思います。
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町の人々

2009年12月05日 | 雑記
:吹く人
晩に歩いて帰宅していると、国道に出る交差点に近づくにつれて音が
聞こえてきます。澄んだ笛の音、ということばがありますが冬の透明な空気の
中でもなお透って耳に届く、かぼそいが自己主張の強い音でした。
誰かの窓が開いていて、そこから音が漏れてくるわけでもなしに、ただ一定の
音を吹きながら、国道に近づくにつれて音も大きくなってきました。
車がたくさん過ぎ去る爆音の間を器用に縫って、音は耳に近づいてきました。
久々に歩くつもりになって歩道橋を見上げると、向かいの道路に下りる側の
階段の上、ちょうど街路灯の光が落ちる一角で誰かがじっと立ったまま固まって
いました。私は階段をのぼりました。音は歩道橋の隅から流れていました。
オレンジの明かりと黒いいちょうの影を背景に、落下防止の柵に譜面を立てかけて、
流れる車を見下ろしながらフルートを吹いている人がそこに立っていました。
吹いてはまちがえ、まちがえては吹きなおし、明かりの下で譜面をにらむ横顔は
光に邪魔されて見えず、そそくさと後ろを通り過ぎて中肉中背の背格好とフルート
の音を頭の後ろで聞きながら階段を下りました。


:はく人
朝シャッターの閉じた本屋の前を過ぎるのは背広と制服と、たまにスーツ、後は
スカートとヒール。流れは一定でひたすら前を流れるのみです。
夜シャッターの開いた本屋の前は、ラックに陣取り雑誌を読む人あり、灯火のもとで
迎えを待つ人あり、歩む足の速さもすこし落ち着いてゆるゆるとしたよどみが
本屋とバス停の合間にできあがります。
そのよどみにまぎれて、短いスカートと細かい網目のタイツの半身が私の目元を
過ぎ去りました。くびれた足首から左右をしぼったようにすっきりと細いふくらはぎに、
ほどよく肉のついたふとももを膝頭がふくらはぎとちょうどよくつないでいます。
足先にはかかとのない3センチほどのヒールのついた赤い靴をつっかけ、無造作に
本屋のわずかに高い段を降りてバス停の傍にあるポストに佇みました。
本を手にした手首はジャンパーのようにすぼまった厚い布で覆われた無骨な姿でした。
黒いスカートをくるむように、腰まで丈があるカーキ色のジャンパーから覗いている
首は太く、ぼってりとした口もとと視線をアスファルトに落したそれは男性のものでした。
ジャンパーのすそを境目に男女の分かれる背中に誰も目を留めず、本屋の前は
いつものとおり、歩く人並みがよどんで見えました。
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ことばと本のざつかん

2009年12月01日 | 読書
暮らしてゆくことその一事がたいへんむつかしい世の中なのだなあと思います。
すべてが自分の価値観で暮らせるということ、ものにもてあそばれる自分。


怒涛のような本を本屋で見ているとつらくなります。


言葉に驚きのない本は読むのがつらいです。書いているひとがまた驚いていないと
面白くないのかなあと思います。話の組み立てにしろ、描く題材にしても、どんな
驚きでもいいのです心底からその人の心が動いていれば。
頭のなかでひたすらこねくり回して並べて組み立てたもので出来た本は往々にして
ことばの塊に終っています。

はずれたことが面白い、のではなくて、だれもがおかしいと思うことを書くのでも
なくて、ふつうのことにはっと驚くその人が面白いのです。



ほんとはもっと別のことを書くつもりでしたが、ここに書ききれなくなりました。
夕日に向う青春のようにつっぱしりゴッホになる!と高らかに叫んだ人のことです。
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