えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:分かりやすさ

2024年05月25日 | コラム
 たまに遊びに行くゲームセンターへ行くと数ヶ月前に登場した景品がトリプルキャッチャーに並べられていた。サカバンバスピスの大きなぬいぐるみだった。確か去年の11月頃に登場した景品で、知人から一体4000円もかけて手に入れたという報告を受けていた。五百円五回の台だった。かつては五百円六回というサービスを知る身としては寂しいものを覚える。
 何はともあれ試してみると、キャッチのタイミングでボタンを押せばアームは閉じて持ち上げる力はあるものの、どんなに上手く持ち上げてもその場で落下する。この辺りは他のゲームセンターと同様の設定だが、落下後に弾む勢いをつけるために敷き詰められているビニールのボールの密度は床が見えるほどに薄く、高所から落ちてもなかなか弾まないように設定されていた。試すほどに現金が消えていく。ゲームに夢中になっていると財布の軽さに気がつかないところが恐ろしい。だが千五百円ほど入れたところでアームが急に気まぐれを起こし、景品をしっかりと持ち上げてそのまま落とさずに取り出し口まで運んでいった。通りすがりの三人連れが「おお」と声を上げる。確率機の存在は知っていたがここまであからさまな設定は初めて見た。
 大きな景品を置いてあるトリプルキャッチャーの殆どは確率機だと考えていた方が健全だと思う。確率機とは天井額を設定できる機械で、一定の額を投入することでアームの力を変動させることが出来る。言ってみればその額さえ分かれば簡単に取れるのだが、大抵は四千円代かそこらなので普通にセレクトショップなどで買った方が安上がりだ。このサカバンバスピスは景品としては時期的に古いのでおそらく放出台なのだろうと踏んでいたが、きっかり約二千円を取るまで取らせないという設定の緻密さがどこかさもしい。
 別の日にもう一度試して二千円を入れると運搬されてきたサカバンバスピスを受け取りながら、これは果たしてゲームなのか一律二千円のガシャポンなのかが分からなくなった。
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:『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』コーマック・マッカーシー 黒原敏行訳 早川書房 二〇二四年三月

2024年05月11日 | コラム
 精神病患者のホスピス「ステラ・マリス」に自ら入院した妹は言う。

「わたしにわかるのはわたしは数字が好きということだけ。わたしは数字の形や色や匂いや味が好き。そしていろんなことについてほかの人が言うことを信じるのが好きじゃない。」

 十年後に人から追われる生活へと陥れられた兄は気付く。

「妹に話しかける習慣をニューオリンズにいるときに止していたのは気がつくとレストランでも路上でもそうしていたからだった。(中略)
 それから徐々にそういうことがなくなってきた。真実はわかっていた。自分は妹を喪いつつあるというのが真実だった。」

 コーマック・マッカーシーの絶筆となる『通り過ぎゆく者』と『ステラ・マリス』の二部作はどちらも対話が物語の中心となる。とくに『ステラ・マリス』は自発的にそこへ入院した妹と彼女の担当医との対話のみで全てが成り立ち、『通り過ぎゆく者』を読んだ後だと『ステラ・マリス』はひとつの本に収めるには長過ぎた一章では無いかという感慨を覚える。『通り過ぎゆく者』はサルベージダイバーとして働く兄の物語であり、『ステラ・マリス』はその兄の物語の冒頭を飾る妹の語りだ。妹は幼い頃から非現実的ながら立体的に彼女へ接する幻覚を見続けており、けれどもその世界に囚われる事無く現実と共存し続けている。『通り過ぎゆく者』でも妹と妄想の産物達の対話は兄の裏拍として働き、それと明らかに分かるように字体を変えて表現されている。この幻覚との対話は『ステラ・マリス』では描かれない一面だ。妹の死により消えたはずの幻覚は妹を思い続ける兄の前にいつしか登場し、兄は妹の代わりに幻覚へと話しかける。妹のものであるはずは無いのに幻覚は妹の前に現れた時のまま、兄と対話を続ける。

 対話により語られていくものを拾い集めるのは難しい。『通り過ぎゆく者』の原題『The Passenger』の本来の意味は「乗客」だが訳者の采配により日本語訳が『通り過ぎゆく者』とされたのは、主人公である兄がひとところに留まらず各地を「通り過ぎ」て行くためだ。沈没した飛行機を探索した時に兄は「乗客」の奇妙に気付くが、それを切っ掛けとして兄は何者かにより安定していた場を追われて旅立っていく。荷物をまとめて密やかに引っ越してもいつの間にか後を付けられて隠れ先は暴かれ、銀行は凍結されパスポートも使えなくなり共に仕事をした仲間は一人ずつ命をなくし、どこかへ行こうとする彼を妨害するかのように社会が彼をアメリカに囲い込む。けれども理由は明かされず、彼も戦おうとはせず、その場その場で出会う人たちと語り合いながら通り過ぎてしまうのだ。兄妹の父がオッペンハイマーの元で核開発に従事していた物理学者であり、兄妹もまた差はあれど物理学と数学を深く学び、その知識量に基づく対話も随所に見られるものの、それが兄の追われる理由であったり妹の精神の病の原因であったりとは直接的に指摘はされない。読者は兄妹それぞれの対話を読んでいくが、二人はどこかで読者に対して線を引いており容易には踏み込ませてくれない壁を感じる。句読点を意図的に省いた文章の語りはより一層それを強調させるように読者の呼吸を詰めながら二人を物語から逃すように動かし、私たちもまた読み終えることで生き延びた兄の通り過ぎた道のひとつとなるのかもしれない。
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