えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

猛暑ニマケズ 風邪ニモマケズ

2010年08月28日 | 雑記
本に触発されたと言うわけではありませんが、明日から地獄の熱暑の地倉敷に向かいます。地面が石造りで反射熱が物凄いとのこと。
有名な白壁は日光を跳ね返して空に映えてくれるでしょうが、人間のほうはたまったもんじゃないでしょうね、たぶん。

昨日買ったガイドブックで備えます。
京都を通り過ぎるのが悔しいので強制的に京都には立ち寄りますが、9月に入ったとたんの宿代の高騰、みごととしか言いようがないです。さすが観光地。


さて、今回は台風にぶつからないで旅ができるでしょうか。
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亀と旅

2010年08月26日 | 読書
:「リクガメの憂鬱」 バーリン・クリンケンボルグ 草思社 2008年
:「呉船録・攬轡録・驂鸞録」 范成大 東洋文庫 2001年

一つは長江を下って、もうひとつは家の庭から空を見上げて、今あるそのものだけに想いを馳せている二冊を読んでいる。

セルボーンというイギリスの片田舎に住む亀は、とある博物学者のつつましやかな書簡によって世界の、こんな日本の片田舎で、きっと彼が死んでから200年以上経った今、その存在を知ることができるほど足跡をしっかりと残されることになった。
「セルボーン博物誌」からは著者ギルバート・ホワイトの姿も、亀も、アンテナを張り巡らせていなければその姿はこぼれてしまう。他の多くの書簡からもホワイトと亀の姿を取り出して組み立てて見せたのは作者の編集者と言う仕事がよくよく役立っていて、ろうそくの代わりに灯心草を使うところなどはにやりとさせられる。

ただ亀がちょっと文句を言いすぎだなあと思う。文句と捉えてしまうのはたぶん作者なりの冗談を聞かせた部分なのだろうけれど、こうしたことばはメレンゲのようなもので、硬すぎても柔らかすぎてもしっくりと行かない。焼いたときにさっくりとした歯ざわりを味わうためのメレンゲ作りは意外に重労働なのだ。


范成大という1000年近く前の男は、仕事で赴く任地の旅に苦しむ影を見せず、日々の情景を一つずつ愛し、起こったことを受け止めて文字に日々落とし続けていった。その文体はのちに日本に渡り、詩は宋時代の随一として愛された文人だった。今その詩集を日本語の訳つきで手に入れるのは思ったよりむつかしい。でも、詩より愛されたのはその日記のことばだった。
小川環樹氏の訳から一文をひく。

「ここに至って回顧西望すれば、もはや遥かのかなた一つの点ともみえぬくらいになり、ただ蒼煙落日、雲は平らに限りなく、高きにのぼって遠きを懐う嘆あるのみである。」

「さまざまの難儀なめ」を途中ひと言で済ませて駆け出すように見上げた空の、蒼と赤が複雑に入り混じり変化してゆく落日の雲に彼のついたため息は、すべて疲れたものをさらりと吐き出して、あとはただ来た道のりと平坦な大地を包み込む空に心をゆだねるだけである。

これはもうぜひとも、漢文で読まなければならないと思い先日ついに古書を購入した。寛政時代の本はダンボールより軽い。ページの中の白いところだけを器用に食べた虫食いの跡とセピア色を通り越して茶渋色のよれた紙に関わらず、墨の線は黒々と残っていて文字に欠けたところは無い。180歳年上の彼に使われているフォントは細いくせに芯が太く頼れる耳だ。小川先生の訳を頼りに漢字の流れを秋の夜長、解き明かしてゆきたい。


どちらも水の流れのように、時間を独特に辿る本だ。
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二年たちました。

2010年08月19日 | 雑記
ブログをはじめてから、もう2年が過ぎてしまいました。

少しずつ何かが変わっているのか、はたまた自分は留まり続けていて、
周りの流れが速いのを見ているうちに自分までくるくると動いているように
見えているだけなのか、それは分かりません。たぶん去年もこうして書いて、
何かが変わっているのか、変わらないでいるのか、どちらも怖がりながら、
来年の夏を待っていたのかもしれません。

本を緩やかに読むことを、ほんとうに文字を立体的に読む楽しみを、
覚え始めた今になって時間の足りなさに気づきますが、やはりそれも過ぎた
日々の段階を踏んで今に至る結果なので、過去にあれをすればよい、これを
すればよい、というふうに触れられるのは好きではありません。

そこまで読めるようになって、まだ読めないと頭を抱えながら、又一年
この夏のことばを増やしてゆきたいと思っています。
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お誕生日と贈り物

2010年08月11日 | 雑記
前はこうしたソフトウェアのバージョンアップを「ふーん」と横目で眺めていました
が、今こうしてバージョンアップしつつあるものを自分で使ってみるとどこが変わっ
たのか楽しみにしながらキーボードに触れています。
gooのブログのエディタ、新しいベータバージョンになっていたことにすら
気づかなかったです。

8月はブログも誕生日、弟も誕生日なのでまずは弟に。
振り向くと成人を迎えている年頃なのに、上から見ていると年相応に見えなくて、
どうしても子供っぽい部分や未熟な面ばかり見えてしまいますが、もうお酒も
選挙もいけないことも、自分の責任で許される歳になったということ、自分と
同じ土台に立っていることがまだ実感できないのです。

互いの成熟が遅いのか、私の目がまだ姉でいたいのでしょうか。
もう少しして彼が会社につとめだした時、どういう顔でいようか、今から
悩みどころです。

彼が育った分、贈り物にはかえって悩まなくなりました。
何か手元に置いて、自由に役立てられるようなものをと思い、手帖のように
中身が入れ替えられて、ボールペンを脇に止められる本革のメモ帳を弟には
あげることにしました。
あげた時には20歳記念のお酒で目が寝ている状態だったので、果たして喜んで
いるかは微妙ですが手は受け取っていたので大丈夫でしょう。たぶん。

20歳おめでとうと見えないところで書きます。へそまがりな姉です。
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:レンブラントの帽子 バーナード・マラマッド 夏葉社

2010年08月04日 | コラム
:レンブラントの帽子 バーナード・マラマッド 2010年5月 夏葉社

 やりとりの作家である。短編集「喋る馬」の表題、かつては本書の一部をなしていた「喋る馬」でも、マラマッドは真剣勝負じみた意地の張り合いで離れられないでいるふたりの対話を本流に置きながら、翻弄されようとする読者の足元に固定された話の飛び石を置いてぽんぽんと対岸に歩かせていた。鈍重な体つきと毛並みの馬が、最後、森に走り抜けて行く後姿で揺れている鬣と尾が、はずむ足取りにあわせてふさふさと左右に揺れる様はあくまで軽やかに仕上げている。本書でもしんにょうを書く毛筆のように力強くたわめ、一気に最後に向かってはらいきる話のかろやかさはかわらない。

 本書「レンブラントの帽子」は、表題「レンブラントの帽子」「わが子に、殺される」の短編二つ、中篇「引き出しの中の人間」の三作からなる短編集だ。中の「引き出しの中の人間」作者のバーナード・マラマッド(1914~1986)は、すぐれた短編に与えられるO・ヘンリー賞を受賞した。もとは1975年に出た集英社の本で、こちらには先の「喋る馬」ほか8篇が収録されており、本書はその中から三本を選んで再収録したものなのだ。どの作品でも、主人公の男たちは不器用に相手と向かい合う「レンブラント~」の二人の美術教師、「引き出しの~」の旅行者とタクシー運転手、「わが子~」の父子、男同士が互いの体をかすめながらことばをぶつけあっている。

『「これは、美しい彫刻ですなあ」アーキンは、しぼり出すような思いで口をきいた。「この部屋の中じゃ、最高じゃないですかね。」怒りに上気した顔で、ルービンは彼をにらみつけた。(中略)どういうものか、いつもの灰色が買った目の色が、今は青く見える。その唇がヒクヒクと動いた。が、言葉は出てこなかった。』(「レンブラントの帽子」より)
 告げる側の口を開くときの気まずい思いと、受け取る側がことばを消化する間。マラマッドの計算された歯車でありながらも、その吐息には空間が間違いなく存在している。理屈めいたきっかけぬきに行われる変化の描き方が、マラマッドは抜群にうまい。
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