えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・雪月花の日

2020年03月28日 | コラム
 明日は雪が降るらしい。桜は週の真ん中で満開になった。日当たりの悪い桜も五分咲きから八分咲きまでは割いている。散り始めて枝先に若葉の見える枝もある。その間際に雪が降るらしい。昼過ぎまでには見えていた青空はいかにも雪を含んだ灰色の雲に覆われて、庭先の木々の枝を小刻みに揺らす風は冷たく、床から這い上る寒気は肌を刺す冬のそれだ。半袖でいいんじゃないの、と笑われた厚手のシャツを着ていても肌寒い。スリッパ代わりの布草履の鼻緒をつっかけた足先が冷え始めている。外はまだ明るいがあちこちの部屋には明かりがついている。昨晩乗った最終バスの運転手が大通りの交差点を曲がり際に「左手に桜がライトアップされています。きれいですね。どうぞご覧ください」と粋なアナウンスを流した。歩けば桜の花びらがいつの間にか髪や上着のフードに滑り込む。淡く暖かい雪のような桜の花びらへ雪が積もるらしい。
 あるいは夜の頂点の寒い時だけに雨が雪へ変わるだけかもしれない。朝になれば濡れて重くなった桜の落花が公園の泥に汚れているかもしれない。それでも今日の晩は雪が桜の上に降るらしい。外の雲は雨よりもいかめしく、空気を固めるように冷気が風に運ばれる。遊んでいた子供の声も寒さに負けて家に戻ったのかすっかりなくなった。春の薄着では肌を小刻みにするような風には耐えられないだろう。私を笑った家族は半袖からトレーナーに着替えていた。生きていてこの時期に雪が降るのを体験するのは初めてかもしれない。できれば外に出て眺めていたいが、家ごと寒くなるのを避けるためにシャッターを下ろさなければならない。小さな出窓越しにもわかるほど積もるだろうか。
白居易の「雪月花時最憶君」の句から取られた「雪月花」は、ひとところに集まった姿を指すのではなく冬、秋、春を代表する景物を指して、毎年その季節にはとみにあなたを思い出しますよ、と、惜別する心の深さを時の長さに仮託している。日本に来るとそれはひとまとめにされて、花も桃から梅、桜へと変わった。雪は溶けて月は欠け花は散り、儚い感覚はすぐに消える。雪が降る間は月は出ず、月が出るまで雪が降れば花は落ちるかもしれない。
 積雪が音を吸い夜は黙る。月が出るかは気分次第だろう。庭木は唐突な寒さに慌てたようにまだふるえている。そろそろシャッターを下ろして私は家にこもる。
 雨が降り始めた。
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・遠くなる外

2020年03月14日 | コラム
 雨に紛れて白い紙片のような雪がビル街に落ちていった。駅ビルの中華料理屋で食事を済ませコンコースを降りてから広げたビニール傘へべっとりと雪が貼りつく。朝から降り始めた雨がみぞれに変わっていた。周到にダウンジャケットを用意している人々の中で毛織のコートは少々気恥ずかしく、肩をすぼめて目的のバス停へと足を速めた。
 ひと月前には想像だにしなかった自粛政策のおかげで街も電車もすっかり静かになり、三月末で店を閉める個人営業の薬局の薬局長は窓の外を眺めながら「人は減ったね」とうそぶくように言った。薬局から道路を挟んで向かいの巨大なホテルから時々買い物客が来るこの薬局には珍しく、タイヤ付きの大型トランクを引きずる人の姿は全く見かけなかった。不要不急の外出は控えてください。外出のためには今はもう手に入らないマスクがエチケットです。エチケットは守らなければいけません。病気を利用した転売の大儲けは規制します。穴を突いてさらに大儲けします。堂々巡りの二週間が過ぎたものの、結局三月いっぱい何もかもが自粛になり、仕事すら家に引きこもって毎日を自宅の巣の中で過ごすことが当然になりつつある。
 外出させられないことを歯がゆく思う人が多いことは、正直に言うと意外だった。娯楽にしろ仕事にしろ、人と直接会うという行為は時間泥棒として扱われ、コンピュータや携帯電話のソフトウェアを利用して個人に閉じこもることを推奨しておきながら、疫病により家に閉じこもることを命じられると外に出て人と対面するような娯楽がなくなることを残念がる人たちが大勢いることは疑問でならない。設備を整える金銭と場所さえあればわざわざ人の群れる場所へ行くこともなく済ますことは増加しているにもかかわらず、娯楽などの目的よりも人混みが恋しいのではないかと思った。
 今日は高輪ゲートウェイ駅の初お披露目の日だが、山手線の外回りは休日にも関わらず空いている。近くに住む薬局長曰く夜から並んでいる人もいるそうだが、外出の自粛を予測していなかった中づり広告によれば駅には入場制限があるとのことだ。それに高輪ゲートウェイの売り文句は無人○○といった、電機やロボットを利用した近未来的な設備らしい。人の居場所はなくてもよいように作られている。時々、人である理由はよほどの人物でなければ不必要ではないかとも思う。一応まだ子供を産み育てる機構くらいは人の体の神秘とらしいが、そもそもこれからは人間の肉体を持つ価値自体が問われていくだろうし、娯楽施設が取りやめになろうが物が減ろうが、人でなければ何も影響はない。誰も人の肉体を持たなくなったその時に、肉体を持つという贅沢を享受するのは何者になるのだろう。
 重くなる肉体を疎んじながらバスに乗った。振り袖姿の卒業生らしき女の子たちが華やかに髪飾りを揺らしながら、寒さに頬を赤くして駅ビルの喫茶店に入っていった。
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