えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・過ぎ越しの夕べ

2016年12月31日 | 雑記
 夕方が来る。先週の華やかな騒ぎとはうってかわり明日を控えて街は静かだ。存分に外へ出たろうと26日以降のテレビのCMは家で過ごす時間を増やすかのように年末の特番やおせち料理の宣伝へせわしく映る。準備を準備をと連呼するがカレンダーをよく読まなくても正月を迎える準備に必要な日数に5日は少ない。これが会社員ともなるとよほどのことがない限り28日まではお勤め、それから大掃除やら何やらをしようとしてもごみの収集やおせち料理の予約(あるいは材料の買い集め)は大体28日で同じく仕事を納めており一旦12月の前半のどこかでクリスマスを忘れていないと正月の支度というものはそうそう難しい。

 12月31日の大晦日は忙しく流れるそれまでの30日を振り返るかのようにどこか茫然としている。6時半か7時頃始まる特番か、除夜の鐘や初詣でのための外出の支度にもまだ早い夕暮れの時刻は切り替えの支度に疲れた人への休みの瞬間にも思える。どこか駅前の騒ぎに紛れ込みたくて外に出ようとすると、ゲームをしようときょうだいから誘われてなし崩しにゲームキューブで遊び、気づくと窓には夕暮れが迫っていた。あと八時間が二〇一六年となり、外はゆるゆると寒気を増して夜に向かっている。

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二〇一六年も拙文をお読みいただいた方、そうでない方もありがとうございました。
昨年書いたよりはまだブログというメディアの在り方はそれなりに意義があるようですが、今年は文章というものの見せ方を考える機会が多かったように思います。
来年も淡々と続けるだろう拙文にどうぞお付き合いいただければ望外の喜びです。

よいお年を過ごされますように。
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・シングルベル

2016年12月24日 | コラム
 今上天皇(2016年現在)の誕生日の翌日にあたる12月24日は既にあちこちで現在進行形に言われているクリスマス「イブ」だ。前夜祭である。本番は25日でむしろ12月25日に生まれたとあるお方をお祝いする前夜祭であろうもののいざ25日を迎えてみると閑散とした街に出会う。ケーキ屋の店先で半額で売られるケーキを名残に、残り6日と迫った大晦日と7日後に迎える正月への準備へスイッチする速さはそろそろげ伝統芸や文化の域に入れてもよいような気がする。

 とまれほとんどお世話になったことのない方の誕生日を祝う雰囲気は25日当日さっぱりとなくなる。

 そんな中今更のようにTVで「クリぼっち」が取り上げられていた。「クリスマスにひとりぼっちで過ごす人」を省略したらこうなったそうで、ニュースによると今年は「クリぼっち」向けの商売が充実しているらしい。カップル禁止居酒屋、クリスマスのごちそうを一人前の量に振り替えたコース料理など、クリスマスのフィルタを除いても普段からありそうなものがそろっている。が、あくまでターゲットは「クリスマスを共に過ごす人がいない人」だ。もう少し厳密に書けば「クリスマス・イブを(略)」となるのだろうか。そこで祝うという本義が気にかかってくる。誰を祝うのだろう。自分という回答しかない。そうなると一人己の誕生日にケーキを買い帰宅してロウソクを立ててなんやかんやする行為と大差はない。単に毎日その可能性があるか一過性の期間だけのものかという違いだ。

 少子化や生涯未婚等々云々を考えると「クリぼっち」はむしろ推奨しないほうが良いようにも思えるが、そこに商機を見出してしまったおそらくは「クリぼっち」ではなかろう人々からするとそうでもないのだろう。この際もうおひとり様をさらに推進して「正月ぼっち」「花見ぼっち」「盆ぼっち」など歳時記を征服してはいかがだろうか。ピンで行くほうがうまいものや行き届いたサービスを受けられるようになった結果、よけい「ぼっち」が増えればお互い得というものだろう。
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・見世物小屋のこと2(映画『ニッポンの、みせものやさん』)

2016年12月10日 | コラム
 いい意味で地味な記録だ。朝の十時前から映画館の前に並び当日券を買う程度に物好きの客が観に来る映画『ニッポンの、みせものやさん』は大寅興業社といういち企業の記録映画である。二〇一六年現在日本で唯一見世物小屋の興行を行う会社と喧伝された部分を取るとそうなる。見世物小屋とは「好奇心をそそり驚かせるもの(珍品、奇獣、曲芸など)を見せる小屋。(中略)仮設小屋を立てて巡業して各地を回り、テレビが普及する以前は大衆娯楽として幅広く受け入れられていた」(映画パンフレットより)しょうばいだ。「想像力を掻き立てる巧みな口上」で人を呼び寄せ、「お代は見てのお帰り」と次から次へと入口へかき寄せるように人を入れてゆく。中では、太夫と呼ばれる演者がそれぞれの芸を披露し続けている。火吹き芸やへび女、犬の曲芸が映される間になつかしい筆致で描かれた「人間ポンプ」「たこ娘」「ろくろ首」など、おそらく今は演目にない演目の看板が映されてゆく。

 映画は監督の奥谷洋一郎の語りを間に挟みながら大寅興業社一座の舞台裏とそれを取り囲んでいた業態を知る人たちへのインタビューで構成されている。口上の競り合いや客の取り合いがなくなった今を、大寅興業社の大野裕子さんは「寂しいね」と何度も違う場所でカメラを真っ直ぐ見ながら言う。対抗者が誰もいない環境のしょうばいは、転じて他の人から見限られたしょうばいでもある。「失われるもの」と割り切った口調で大野裕子さんは見世物小屋というしょうばいを言ってのける。小屋掛けから始まり小屋を畳んでバンで道路へ去るショットで映画は終わる。監督はそのバンへ「さよなら」と声を当てていた。
 たった九〇分だが時間という身が詰まった濃密な映像が終わると席を立とうとする観客を慌てて係員が止めた。たった今「さよなら」を告げた監督がすーっと映画館へ来て、館長が質問はないかと言った。私の前の列で見ていた女性が手を挙げた。彼女はなぜ後継者を育てないのか、と聞いた。監督は、食べていけなくなったら辞めるものだ、商売だから、といったような返事をした。その受け答えを聞いてようやくこの映画の重みが腑に落ちた。

 「見世物小屋自体が見世物になりたくない」と最初は断られながらも徐々に迫って撮影した映像は傍目から見れば貴重で、行われている芸も後継者がいないという点では貴重ではある。けれども興業社としてはあくまで芸は飯の種だという矜持がある。その矜持に敬意を表してか、この映画も四年前に公開されながらDVDにはされておらず見世物小屋が終わった後に一週間だけ公開された。(仮にDVDを作っても映画に並ぶようなもの好きの数は少ないからだろうが)。記録でありながらも見世物小屋とともに消えてしまいそうな、あるいは見過ごしてしまいそうな奇妙なはかなさがそこにはあった。
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