えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

祭りの六日:あなたとならば?

2010年02月28日 | 雑記
いのちかけて書いております。たぶん。


「男動かすスイッチ」みたいなものが吉田日出子にはあるんじゃないかと思います。
1993年のキリンのCM、カウンターに緑の服で坐っている吉田日出子の9秒目の視線。
隣の客の、ビールがたっぷり注がれたグラスの手元から口に運ぶ一連を追いかける
目の、ちょっとむくれたような口元とあいまって何かを訴えかけます。困ったことに
カメラはまったく見ていないのですが、はっきりとわかりやすい目の動きに見る者の
視線も一緒にひきつけられてしまう。ぱっと目を大きく開いて動かす一間、余計な動きの
一切無い身体はわずか二秒の間に収まりますが、「あ、ビールほしい。」と吉田日出子が
語るには十分すぎる時間です。
二秒をはさむ「何にしようかな」と「えーっと、えー……っと……」ののんびりまったり
した口調からしてみればすばやすぎる仕事人の目線を板前は汲み取って、「それじゃあ」
と目を輝かせた彼女に答え「ビール一丁!!」と奥へ怒鳴りつけるのでした。

完全に板前はスイッチにやられております。

これはどちらかというと「命令形スイッチ」ですが上海バンスキングは「依存系スイッチ」
の吉田日出子だと思います。役の「まどか」がとにかくマイペースなのもありますが、
とにかくまどかが誰かを動かす瞬間すばやくスイッチのONOFFがなされ、男はなすすべ
もなくスイッチの落差に感じ入り、何かしら反応をせざるを得なくなるのです。

劇中、ひそかにまどかへ思いを寄せる軍人が出征直前に最後のダンスを申し込みます。
快諾するまどかに、逆に照れてしまう彼は、せっかくのダンスなのに身体を抱いて、
彼女を見つめることができずぎこちない足取りを踏むばかりです。
そこへまどかが、少しすねたような、女の子が唇を尖らせているような物言いで、
まっすぐに彼だけを見て
「だめ、そっぽ向いちゃ」
と、有無を言わせぬひと言。
彼はおずおずとまどかの目を見て、二人は踊りをつづけます。
吉田日出子のあたえる弛緩と緊張が、声と目に集約される一瞬です。


追記:見つけてしまってわくわくしているものがもうひとつ。

「いとしのファニー」(作詞/滝真知子 作曲・編曲/越部信義)
「もっと泣いてよフラッパー」(作詞/串田和美 作曲/越部信義)

吉田日出子の声が好きならぜひぜひ聞いてほしい二曲です。
特に「いとしのファニー」は反則クラスのたのしさ、色っぽさ。
ジョージ秋山の「浮浪雲」が劇場版アニメになったときのテーマソングです。
オープニングだけでも見る価値はあるでしょう。
作曲の越部さんは上海バンスキングの舞台音楽を担当されていた方ですが、
いっぽうで「みんなのうた」やアニメ「みなしごハッチ」など子供に馴染みのある
音楽もたっぷりと作っていた方です。
彼女のかわいげの残るおきゃんないろっぽさと、越部さんの明るいウクレレの使い方で、
二人のよさが引き立つ曲になっているのではないのでしょうか。
♪ファニー、ファニー いい娘だよ♪の「よぉ」がやばいかわいいです。必聴。
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祭りの五日:知らない歌に

2010年02月27日 | 雑記
フラフラとビュッフェのにおいに誘われて、舞浜はシェラトンホテルまで
ごはんを食べに行ってまいりました。
シェラトンの一階、結婚式用のチャペルとお庭を前にして席につくと、
なんだかジャカジャカしたBGMがステレオを超越して聞こえてきました。
耳をそばだてることもなく、陽気に叩くボンゴに合わせて聞こえてきたのは
『キサス・キサス・キサス』のナンバーでした。

スペイン語で「多分、多分、多分」という意味です。
一生懸命な男の人に、いつも返事が「多分」な女の人をうたった歌です。
ぴったり息の合った「キサス・キサス・キサス」を聴かせてもらいました。

この歌、ナット・コールもスペイン語で歌っているのが有名で、私もこちらを
聞いていたのですが、こんな歌も彼は歌っています。

『GET OUT AND GET UNDER THE MOON』

第二次大戦前夜のアメリカでひそかに信仰されていた十五夜祭りを讃える歌です。嘘です。
演奏も歌もナット・コールのものは星がつま先で飛び跳ねてゆくようにはずんでいて
たいそう可愛らしいのですが、これをさらに日本語に訳した題がまたよいのです。

『月光値千金』

蘇軾をひらめいた瞬間の訳者のガッツポーズが目に見えるようです。
高校の古文の教科書で見覚えのある方もいらっしゃると思いますが、「春夜」という詩の
「春宵一刻値千金 花有清香月有陰」
この冒頭から「値千金」を、春の宵の月下から「月光」をいただいてつくりあげたのが
『月光値千金』の一曲です。1969年に日本でリリースされました。これで単に好きな曲を
紹介しただけだと過去の私が怒り出しますが、長々と書いたのもまたこれが吉田日出子の
当たり曲の一つだからです。
彼女のために(劇のために、でもどっちでもよいのですが)訳しおろされた歌詞は



月白く 輝き 青空高く
梢の あおいを 我に 寄せて
寂しそう その人 心に消えて
楽しく ときめく 胸の 思い

OH! OH! あなたと私は
我が心に かたる
うるわしの 夜よ

青空に輝く 月の光は 楽しき 思いを 我に寄せる 

♪(聞き書きなので一部あやふやです……)

「青空」は聞き間違いじゃなく、確かにこう歌っています。
雲ひとつ無い真っ青な空色ではなく、空気が思い切り透明な夏の夜空、明かりの無い
星空をきっと見上げると、夜の黒の底に沈む紺色を見つめることができます。
月が白く明るければ、よりいっそう暗い青が光り輝いて、手足が青くなる時間、
澄んだ夜の間を歩く涼しさを、吉田日出子は歌います。
でも、歌われるのは暗いジャズクラブの中。それでもスポットライトを月のように浴びて、
余貴美子とチャイナドレスに身をつつみ、半月のような扇子のはじを両手で持って
斜めに顔を隠し、歌が始まると扇子がすーっと脇に下がって華やかな顔がマイクに
向かいました。丸くて愛らしい笑顔が白歯をちらりと見せて歌いだします。

やっぱり画面の前でぽーっとなってしまいました。
声も顔も色っぽいのに、配役のせいかもしれませんが可愛げがものすごくて反則でした。
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祭りの四日:しなやかな声

2010年02月26日 | 雑記
ふっふっふっふ。
予想はしておりましたがまだ26日の25時だからいいんだい。
気を取り直してまいります。


上海バンスキングの顔というか、声というか、ともあれこの人なくては
バンスキングがありえない、そんなヒロインが吉田日出子です。
よくよく考えると、私の愛聴している『上海バンスキング』のCDというのは
歌手も役者、演奏者も役者で、一部本職の音楽家が携わっているとはいえ
歌や音楽を仕事としている人たちのものではありません。
それでも惹かれるのは、吉田日出子が役者だからこそだったのではないかと思います。
全ての曲が場面に関わっていて、誰かの背景や心情、周りの状況や雰囲気とともに
歌われなければならなかったからこそ、『上海バンスキング』のタイトルのもと
吉田日出子は歌えるのではないかと思います。そして彼女の声の艶は演技を上回って
のびやかにスピーカーから響いてくるのです。

幕開けにふさわしい「ウェルカム上海」の華やかで余裕たっぷりの色気、
「月光値千金」「あなたとならば」の甘やかでころころした女らしさ、
「素敵なあなた(高音が信じられないほどきれいです)」「港は雨の晩」で鮮やかに
浮き出る頽廃の空気。

もちろん曲そのものの持つ雰囲気とも、バンドとの息とも合っているのですが、
どれを歌っても曲に負けずに歌いこなす吉田日出子にどんどん引き込まれてゆきます。
艶っぽさと可愛らしさを併せ持つ声は、何度聞いてももたれません。
頽廃と言うことばに含まれるささくれのような居直りよりも、冬の寝床のまどろみに
似た穏やかな、でもかげりのある暖かさの際立つ声の歌うジャズは、日本人の耳に
馴染んでちょうどよい。

『上海バンスキング』はミュージカルではなく、ジャズメンたちを描いた中必然として
歌やジャズを取り入れていった結果の歌と俳優でできています。
だから、お話を演じるにあたって、歌自体に何かの役割ががっちりと割り当てられている
というよりは、その場に一番ふさわしい歌・歌い方・演奏の仕方は何か?と丁寧に
作り上げていったから、歌手として歌い上げてかつ「聴かせる」歌になったのでは
ないでしょうか。

CDにはたった23曲しか収録されておりません。先の「海ゆかば」も収録されてはおりません。
(LPにはCD未収録のものも入っていますが)
どう歌うか、吉田日出子。
何を歌うか、吉田日出子。

どきどきします。

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祭りの三日:つながりの先に

2010年02月25日 | 雑記
今週22日に、このブログもお世話になっているポータルサイト「Goo」が
新しいサービスを発表しました。
その名は「ひとつなぎ」
ちょっと画像がちっこいのですが、名前のとおり人と人との関係をデータにしてつないで
くれるシステムなのです。現在は検索対象を有名人に絞り、実験的に公開しております。
関係性は「友達」「共演」から「ライバル」「役」などいろいろとあり、生きている役者
さんから歴史上の有名人まで色々とつながることができます。

最初に画面を開くと、自動的に誰か話題の人が現れます。浅田真央ちゃんだったり
ぜんぜん知らないひとだったりが、○にかこまれて画面中央に現れます。人にカーソルを
あわせると、周りに中心の○とつながった泡がいくつか現れます。これが関係性を
示す単語で、好きな関連をクリックすると○の中身に対応した人がリンクされて
現れる、というシステムです。

というわけで、早速「吉田日出子」で検索!!

結果が本日の画像です。写真が出ないのが寂しいですが、「共演」というカテゴリで
みっつの泡が。

少ない。

不安に駆られてばーっと三つ全てクリックします。

誰だ、この人たち。いや、期待してたところじゃない。
出てきた三名は

・柄本明
・甲本雅裕
・手塚理美

の三名。柄本明はわからなくもないのです。かつて自由劇場に参加していたので、
自由劇場の面々と共演もしたことがあります(73年の「A列車」という演目では
串田和美・尾形一成・柄本明・柳原晴郎・高田純次・笹野高史・吉田日出子
なんつうゼイタクなメンバーで共演していたりもしました)。
他がちょっとわからない。
こういうとき、Webの手っ取り早さは味気ないなあと思うのですが、謎は直ぐに
解けました。
2007年公開の映画「神童」にて、この三人は吉田日出子と共演しているのです。
じゃあ何で串田和美が出ないのだ。彼だって「神童」に出演していたにも関わらず。

理由はなんとなく分かってはいるのです。
この「ひとつなぎ」、ブログやWebニュースなどから人名の入った記事を拾い出して
分析し、日本語の係り受け構造を利用して関係性を整理するという仕組みを
とっております。つまり、ブログやWebニュースに書かれた文章から関係性を
組み立ててゆくため、初めの頃はおかしなデータが出来上がる可能性もあるのです。
ある一人の人に対して、多くの人が興味を持ち記事を書けばそれだけ関係性は
ひろがっていきます。なのであんまり興味をもたれない関係は「ひとつなぎ」で
つながることが当然少なく、人名も限られてきてしまいます。

でも、これからどんどんブログで皆が取り上げれば、このデータは改善される可能性が
あるのです!
そして劇はまだ始まったばかり、これからどんどんブログに皆が彼女のことを書いてゆ
けば、また違った結果が現れるかもしれないのです。

一週間後・二週間後と、吉田日出子の関係、果たして進化してゆくのでしょうか。
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祭りの二日:後ろ向きの赤とんぼ

2010年02月24日 | 雑記
さて淡々と二日目です。
先月二十三日、最寄り駅の電車到着音が童謡「たきび」に変わり、
一日のどしょっぱなからおうちに帰りたくなる毎日が始まりました。
うたわれている「さざんか」は中秋から冬にかけて咲く花なので秋の歌でも
冬の歌でも、どちらともとれるうたです。ただ、「雪」とか「赤鼻のサンタクロース」
などの冬のうたに比べると、「村祭り」「ちいさい秋みつけた」など秋のうたは
メロディーが物寂しく聞こえます。私は「たきび」も秋ではないかと思うのです。

上海バンスキングはジャズメンたちのものがたりですが、知る限りでは
二箇所ほど、ジャズ以外の曲が登場しました。
ひとつは「海ゆかば」。楽しく演奏する皆の前に現れた軍人たちが「フキンシン!」と
リクエストしたうたですが、演奏がすすむとこっそりジャズが紛れ込み、いつの間にか
どんちゃかしたなんとも軍服にそぐわない身体のはずむうたに変わってしまう演出が
かけられていました。
もうひとつは、「赤とんぼ」です。

笹野高史演じるバクマツ(ばくちの松本)、彼が戦争に招集されたことを余貴美子
演じる恋人のリリーに言えず、でもリリーは彼の雰囲気から別れのにおいをさとり
不安に任せてバクマツを問う、その問いに、笹野高史は黙ってトランペットを取り出し、
観客とリリーに背を向けてマウスピースを口にあてました。
静まる重い空気の上をすべるように、背をまっすぐにした笹野高史のトランペットは
ゆっくりと「赤とんぼ」をワンコーラス、一音一音が耳の奥に落ちるような遠い音色で
吹きました。

彼のアロハの背中がどうしようもなく頼もしく、男らしく見えるのがこの一瞬です。
もうすがれない背中ではあります。ことばで言えずにトランペットに乗せた弱さも
見えます。だから「赤とんぼ」の一曲、夕暮れにかけて落ちてゆく音階を強い音色で
背をしゃんと伸ばして吹いた時の潔さがきわ立つのです。壮年の笹野高史の男らしさが
凝縮された背中でした。

以来笹野高史の「かっこいい」姿勢に釘付けなのです。
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祭りの初日:肩越しの出会い

2010年02月23日 | 雑記
ふっふっふ。早速やってしまった。
23日の24時に帰宅してしまったのだよ。だいじょうぶ、まだ間に合うぜ。
でも言ったからにはやります。

昨日から(そうです、ゲネプロで昨日は公演があったのです!!!)はじまりました、
「上海バンスキング」復活公演。
渋谷のシアターコクーンは帰ってきたメンバーとお客、そして新しいお客を
つつんでジャズに暮れたようです。

間16年。こどもが育つ16年と、おとなの過ごす16年は、速度も密度も全然ちがう
もので、しかも16年だと「まだ」16年、少なくみえますがどうしてどうして、
気づくと身体に降りつもる年月の思いもよらなかった重さに愕然とします。
そこから7年進んだ9年前ほどになるでしょうか。叔父の運転する車の助手席に
もたれかかりどこかの高速道を突っ走っていた時、風の音に混じった小さなさざめきが
耳をとらえました。

あまりにも小さくて、CDから出てきた音だと思えず、トラックを巻き戻しても
最初の数秒はやっぱり誰かがさざめいている。笑っている。つまみを左にひねって
音量を上げると拍手と口笛がスピーカーから現れました。息を合わせて一拍。

CD「上海バンスキング」の冒頭、「ウェルカム上海」はこうして始まります。
人間らしいあたたかなゆがみと楽しげな楽器の息づかいがわっと飛び出しました。
あわてて右につまみをひねり、ほどよく車中に響くよう加減します。続けて現れた
女性の声音の、余裕たっぷりな暖かみ、成熟したからだのやわらかそうな、艶と
可愛げを兼ね備えて誰にも媚びることのない明るさ。
若き吉田日出子の歌に以来ずっと抱かれながら過ごした時間が今に至っています。


晩、渋谷で降りて食事をしていると、黒いベルベットを着たおとなっぽい森三中に
近い女性が、品のよいばら色の口紅を動かしながら、テーブルの一つ二つ向かいに
坐っていました。平行に置かれたパンフレットの表紙はきりっとしたカーマイン、
ふと持ち上げたそこに、サックスを首からかけた男性と、すみれ色のドレープを
たっぷりとったドレスの女の人がいました。
ことばこそ聞こえませんでしたが、さらにニア森山中が手を掲げると
「上海バンスキング」の文字。

私はにやっとしていたと思います。
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予告編らしきもの

2010年02月21日 | 雑記
2月23日です。

フィギュア女子シングルが始まる日でも
国立博物館で長谷川等伯展が始まる日でもありますが

私にとっては上海バンスキングの公演初日であります。
なんと立ち見席も売り出し、当日券も開演一時間前から売り出すとのこと。
セットも衣装も94年の最終公演に使用したものを使うとか。
ずっとどきどき、わくわくしてきた数ヶ月がついに来週に迫ってまいりました。

というわけで、個人的にバンスキング祭りを開催します。
23日から一日一本一週間、バンスキング関連について記事をかきますという
ただそれだけのことですが、サボリ気味のからだにカツを入れるためにも、かきます。

がんばってゆきましょー。
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うたを読んでみよう

2010年02月18日 | 読書
よみたい本が多すぎて、だらだらとつまみぐいをしながら
日々を過ごしているのですが、このごろは詩の量がすこし増えました。
とは言っても、おセンチに浸れるほど修行が足りず、想像力の欠如も
あいまって、詩を「読む」程度のことしかできず詩のどこを読むのか。

せいぜいが語感のまろみを味わっているだけなのです。

たとえば「兼好法師歌集」の

ころもうつよさむの袖やしぼるらん
あか月露のふかくさのさと

これは夜中、貴人の別荘地である京都伏見の深草へと通っていた最中、
砧を打つ音に気を留めて詠んだうたです。砧は布をやわらかくするために
布を広げ、木の槌でとんとんと繊維を広げてゆくことです。秋の夜長と月に
縁のあることばです。
砧打つ音がきんと届く冷えた夜の沈黙と重みを夜露に託したうたです。
墨のにおいがわずかに薫る、距離のあるうただと思います。ことば勝ち。

いっぽうで「山家鳥虫歌」こちらは全国の歌謡をあつめた本ですが、

月夜影にも乾したい袖を
濡らしたよ又しぼるほど

七七五七調、三味線の音が聞こえないでしょうか。
同じ袖でも夜露に涙、しぼる重みが違います。月の光は冴え冴えとして
ただ明るいだけです。光のつめたいことはわかっていても、
滴り落ちるほど涙のしみこんだ袖はもっとつめたく肌にまとわりつきます。
作者はわかりません。この本のすべての歌の作者はわかりません。
あるいは道端、あるいは田んぼ、あるいは遊里で歌われてきた歌たちの
ことばの切れは息継ぎの間とぴったりで息ができます。
和歌は、語句なので最初の「ころもうつ」と「よさむの袖やしぼるらん」の間に、
意図的な息の止め方があるので、どことなく息苦しい。
ただ、文章を目で追っている最中は、どちらもひらがなのまろみが口どけよく
味わえるのです。

これが漢詩になると、今度は漢字との壮絶なバトルが待構えています。なにぶん
中国語は四声をあきらめた者にとって、それこそ音そのものを味わう漢詩なんて
しょっぱなから理解をなげてかかっているものなのです。
文字の響きと音を融合して初めて芸の真髄がわかる。なべて詩はネイティブのものです。
音を知らない漢詩がデュプロブロックの山河なら、音を知っている漢詩は水墨画です。
字だけ見ていてもそれが十分わかりすぎるほど「もう!!!!」という感じなのですが、
つたない文はもうやめます。こんな漢字です。

鋸山如鋸碧崔嵬 上有伽藍倚曲隈

山僧日高猶未起 落葉不掃白雲堆

(後略)


夏目漱石若き日の詩です。
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奇跡に逃げんな

2010年02月12日 | 読書
*ネタをばらします。ミステリー小説の好きな方には注意とごめんなさいを。
 なんだかすっきりしないので書きました。
 満漢全席の食べられない野菜の鶏みたいに細かくて綺麗だけどのみこめない小説です。


:「クリスマスに少女は還る(原題 Judas Child)」 キャロル・オコンネル 務台夏子訳 創元推理文庫 1999年


社内SNSを続けています。勤め先だけではなく、グループ会社全体でつながっているので
他の会社の方ともやり取りができてそこそこ重宝しております。
やり取りの中でお勧めいただいたのが本作、キャロル・オコンネルの「クリスマスに少女は還る」
の一冊でした。600ページを越える長編で、街からさらわれた二人の女の子たちを捜す大人
たちと、悪者から逃げ出そうとする女の子たちのクリスマスまでの一週間を描いたお話です。

ん、と首をひねってしまいました。

その方は緻密に練られたプロットと書き込まれたキャラクターの収束される手際が
たいへんすばらしいとおっしゃっておりました。確かに筋書きは緻密に練られています。
ただ、それは入り組んでいるという言い方のほうが正しいと思うのです。道筋は入り組んで
いても解決への歩みはとてもストレートに進んでゆくため、読者は登場人物に全てを任せて
読み進めることができます。

ミステリーの書き方が一様にそうなのかはわからないのですが、主な登場人物のほぼ全員が
性格と役割をかっちりつくりあげられたキャラクターマシンなので、いくらとっぴな動きを
しても全て予定調和に入っているのが堅苦しい。
ヒロインの少女がホラー映画好きで凝った演出を使い大人をだますくらい頭がよく、行動力
があって友達想いで、誰をも惹きつける引力を持つと描かれていても、全ては作者の書きた
い終わりをよりよく演出するための鍵でしかないのです。とにかくもやっとした悲しみを
植えつけたいがためにこのヒロインは作者に殺されます。

どうも人を描くより自分の描いた筋書きがいかに魅力的に見えるかを重視してこの作者は物
語を書いています。そのため、描写は的確な感覚です。

「……しかし彼は、車の四つのタイヤの下で道路が時速九十マイルで飛びすぎていく、
 今の感じが好きだった。」

車のはやさもはやる気持ちも、「飛びすぎていく」のひと言でまとまるいい流れです。
読むとしたらこうしたところくらいかなあと思います。犯人もこんな感じでさらっと
流されます。犯人が確定するころには「お前誰だっけ」となるくらい出てこない奴を
犯人にしたあたり、作起承転結の「転」を「とにかくチェス板ひっくり返せばいいよね」
的な勢いで扱う作者のやらしさが露呈しています。

とどめがエピローグです。要約すると、

さらわれた二人の少女は、お互い智恵を出し合って助かろうとがんばっていました。元気で
活発な少女は気弱になりがちな女の子を励まして一緒に助かろう、と勇気付けます。
最後の乱闘で悪者に立ち向かった女の子を少女はかばってやられてしまうのですが、
検死の結果実は少女はさらわれた当初から死んでおり、助かった女の子は初めから一人。
だからクリスマスの日に戻ってきたのは「Children」ではなく「Child」。
わあ何か奇跡だねすごいね。邦題の勝利です。



腰が抜けました。



お前は西岸良平か。「鎌倉ものがたり」第71話「オムレツは知っていた」のお母さんかお前は。
20ページだぞ。20ページの漫画と600ページの小説が同じ分量だってどうゆうことだよ。
子供が殺されるからてっきりサイコパスなシリアルキラーものかと思ったら西岸良平かよ。

なるほど、これがミステリーか。
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雪の日

2010年02月11日 | 雑記
起きると10時をまわっていました。

飲むのはたしかに楽しいなあと思います。
たのしく飲んでもいい人がいて、誘ってくれる人がいて、
よかったなあとも思うのですが、疲れや、わだかまりを忘れられるほど
ぱーっと、ということがどうも性分上できなくて、
どちらかといえば、じっくりと話し合ったり、静かに黙っていたりする
時間のあるほうがわだかまりといったものは溶けてゆくようです。

一つまた歳をとりました。去年は泣いて、おととしは黙っていた、
今年は苦笑いしていた、そういう日でした。
祝ってもらっても、苦笑いが張り付いてしまう、何時頃からなのかは
おぼえておりません。

外は雪になる雲行きです。重い雲の下、これから出かけてゆきます。
寒さがきつくなりすぎませんように。

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