えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:読書感『編集者とタブレット』 ポール・フルネル 高橋啓訳 東京創元社

2022年03月26日 | コラム
 哀愁があるはずだと決めつけるのも『編集者とタブレット』の物語に対しては不躾な態度だと思う。かつて原稿でぱんぱんに膨らんでいた学生時代以来の愛用品の鞄もタブレット端末の導入により物足りなくしぼみ、ソファに半身を起こし胸の上でページを繰っていてもうっかりして落とせば七百三十グラムの硬いタブレットの角は痛い。鼻に傷を作って仕事へ出向く羽目になる。肩書こそ社長だが一応部下のはずである会計仕上がりの男は好き勝手に作家との契約を打ち切ったり結び直したりと好き勝手が目に余るようになってきた。会社の儲けを支えている作家からは直接契約を打ち切られることを告げられる。行きつけのレストランは中国人に買収されて和食レストランになることが決まり、おいしい料理を作り続けてきたシェフはスシに魂を売ることを拒んで残るものはウェイトレスのみと跡形もなくなる。そうして月日が流れる間に妻を病で失う。不思議なことに主人公の一人称の小説でありながら、大きな嘆きを読者にぶつけることなく軽やかな文章が綴られてゆく。

 主人公の編集者ロベール・デュボアは次々と自分の慣れ親しんだものから別れを告げられ、代わりに手渡される新しいものへ受動的に馴染んでいく。歳を重ねるにつれて世の中から自分が離れていくのか、自分が世の中に引きずられているのか、それとも完全に取り残されて右往左往しているのかもわからなくなるほど、変化の及ぼす影響の度合いは強まる。けれどもロベール・デュボアという人は極端な焦りも驚きもなく自分の経験の外からやってきた新しいものを丁寧に受け止めて動じない。原著が詩のような規則性で字数を予め定めた上で書かれており、ある程度感情の肌理が荒く場面が急にすっ飛ぶことはあるものの、ロベールの自分を客観視する視点から生まれるユーモアの味わいは損なわれない。紙の代わりにタブレットを手にし、長年のビジネスパートナーの裏切りの代わりに現代っ子らしい瑞々しい発想と行動力に満ちた新人たちの会社を育て、契約を切った売れっ子作家の代わりに彗星のような新人が彼の元に齎される。喪失したものと入れ替わりに彼の前へ現れるのはどこか冷めた現代でありながら、時に感心しつつ温かい手で彼はそれらを受け止める。物語は彼がタブレットへ慣れていく気持ちの運びと同じ速度で進んでいく。そのタブレットも彼の使い方を受けて傷ついたり汚れたりする頃に新しいタブレットが現れ、新しい「慣れ親しんだもの」として取り上げられてしまう様は物語の終わりの直前のベルのようだ。少しだけ寂しさを覚える。独白の調子は乱れない。饒舌になるときは決まって本のことに関する議論を戦わせているときだ。

 馴染みのレストランでアーティチョークにナイフを入れる時、薄日のような柔らかい光が行間に射し込む。使い慣れたタブレットをなくし、妻をなくし、会社を退いて原稿ではなく自分が面倒を見ていない本たちを箱に五十冊ほど詰め込んで読書に向かう時、同じ光がまた射し込む。それは哀愁への救いではなくロベール本人の人柄から滲み出す明かりだ。かといって希望に満ちて生きましょうといったメッセージで〆るのは控えめに書いても間違っているので、春らしい冷たさの残る温もりだけを汲み取れば最低限の礼は果たせたと思いたい。
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:『名付けようのない踊り』 脚本・監督 犬童一心

2022年03月21日 | コラム
・ことば以前の対話について

 どうしてこの人はどの舞台でも天を仰ぐのだろう、と『名付けようのない踊り』へ断片的に切り取られた田中泯の肢体に思った。場面は田中泯のナレーションに合わせてアニメーションへと切り替わり、灰色に薄暗い河原へ白く女の裸体が浮かび上がっている。

「美しく煌めく記憶の列の中にバサッバサッと父が仕掛けた記憶が、まさに「写真」そのものとなって、ぼくの身体に残された。
 それは、屍体。
 (中略)
 ぼくは、その場と屍体を自分の身体に引き受けた。」

 警察官であった田中泯の父が何を思って土左衛門が上がるたびに息子へわざわざそれを見せたのかはわからない。わからないけれども、筋肉を突っ張らせて震える田中泯の手は命の最期の残照のようで、見開いた瞳は視界こそ目の前の現実を見てはいるものの、視点はこの世を通り抜けたどこかを見つめているようだった。生きながら死に死にながら生きる呼吸の間に、ごく自然に翻る優雅で強靭な足捌き手捌きが彼の踊りの最初の一歩であるモダンバレエの振る舞いを想起させる。それで我に返る。壁に凭れかかり日に焼けた老人の腕と脛を剥き出しにして気持ち顔を空に向けている田中泯の脇をポルトガルの人々が一顧だにせず過ぎ去る光景もまた自然だ。彼に気づいた時、彼を見つめる時に初めて通行人は観客となることができる。

 二〇一七年から二〇一九年にかけての田中泯の公演(この言葉が相応しいかはわからない)のカットを中心に、アニメーションを絡めて彼の人生と活動を表現した映画が『名付けようのない踊り』だ。タイトルは田中泯がかつて敬愛するロジェ・カイヨワに踊りを披露した時、カイヨワが田中泯に与えた賛辞から取られている。カイヨワを以てしてすら「名付けようのない」と名付けるしかなかった踊りともいえるだろう。役者として邦画やドラマに出演した記録を挿し挟みながら現代に到る踊りの道程を綴っていく。新型コロナウィルス感染症がなければ二〇二〇年に予定されていたチェコの舞台も映像に収める予定だったとパンフレットには書かれていた。共産国であった時代のチェコで、反体制側のために密かに踊ったという複雑さは興味深いだけに残念だが、インタビューが充実しているので十分かもしれない。満開のさつきの植え込みに埋もれ、天国のような桃色の花に半身を埋め、少しずつ寺へと近づいていく。

 田中泯の踊りは衝撃的なカットが何枚もあるにも関わらず、どれも田中泯という人物の押し売りではないところが非常に稀有だと思う。全身の毛を剃りペニスを布で巻いてそこらへんの路上に蠢き警察に補導されても、黒い油まみれになって目が開けられなくなり色と相まって仏像のように半身が床と天井の間に浮かぶように留まっていても、観客がそこに見るものは踊りである。「名付けようのない」とはただ「踊り」であって、「田中泯の」という固有名詞すら外される名付けようのなさなのだ。だからこそ観客の感受性へじかに油を挿すことができる。観客自身の心を回す潤滑剤として踊りは無個性なかたちとなるのかもしれない。ポルトガルの海へねずみ色の着流しで夕日と向かい合い、天を大きく仰いでその腕が鋭角な肘だけの三角形を形作るその影は、天から抱きしめられているようにも見えた。
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・物言わぬ姿

2022年03月12日 | コラム
 朝、前の日に横着をして残した洗い物のための水が柔らかくなっていた。指がそのまま排水溝に落ちてしまいそうな冬の冷気の切れ味はなくなり、億劫な朝のルーティーンも気楽になっていた。雨戸を開けると外から吸い込まれるように侵入する冷気も底冷えは取り除かれている。細かな花粉に家族が反応してくしゃみをするが放っておくといつまでも閉め切りのままで息苦しくなるので、気分転換も兼ねて窓はまめに開けている。起きて暖房をつけることが組み込まれていた日から二週間は経っていると思う。外の日差しも温かいので雨戸を開けたついでに鉢植えを外に出すことにした。それがいけなかった。
 新しく出た若い葉の先端が薄茶色の繊維だけになり、他の葉も茶色がかって全体的に雰囲気が中年から初老にかかった人間のように緑が冴えなくなっていた。水をあげすぎたせいだろうかと土を見ても、朝あげた水は午後になると乾き切っているので気がつくと家族が水をあげてしまっている。気のせいか新しく中心から顔を覗かせている葉も色が褪せていながら、行き急ぐようにぐんぐん葉を伸ばしているようだった。「まだ寒いんじゃないの」と、家族が鉢植えを家に引っ込めて数日、大幅に緑の部分の減った鉢植えは一日中部屋の中に置かれることでようやくほっとした雰囲気を醸し出している。鉢植えは言葉も声もなく色だけで置かれた状況を現してくれるものの、なぜその状態に変化したのかは語らない。読書のようにページをめくりなおして読み解くこともできず、その変化が始まった日を思い返して変化のきっかけとなった行動を直すしかない。そういう意味では放ったらかされている自分自身の身体の変化と問題は大差ないと思いつつ、鉢植えの世話をすることで自分からは目を背け続けている。
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