えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・ゲームをする場所

2024年01月27日 | コラム
 勤め先の近所にSEGAのゲームセンターがある。SEGA社がゲームセンター事業を売却してからは店名が変わったものの置かれている筐体に変化はなく、入り口手前からUFOキャッチャーが続き徐々に窓のない暗がりが広がるにつれてぎらついた液晶画面の眩しいアーケードゲーム筐体の並ぶ一体に続いていく。天井は高い。昔店員に尋ねたところ、かつてエスニック料理を提供していた店舗の店構えをそのまま転用しているため天窓があり、普通のゲームセンターよりも店内が明るいのだそうだ。客待ちの並びには一抱えあるぬいぐるみの景品を入れたトリプルキャッチャーの筐体が置かれている。どうもトリプルキャッチャーの掴んで持ち上げた後に景品がアームからぬるりとゼリーのように滑り落ちる感覚が苦手で、あまり大きな景品には挑戦したことはない。確率機の運に当たって景品をがっちり掴んだまま取り出し口に向かう姿は他のゲームセンターで一度だけ目にした。そのときの景品はチェーンソーマンのキャラクターのぬいぐるみで、白人の男性二人が子供のように息を飲んでアームを見守り、景品を取り出した彼らの周りには達成感が渦巻いていた。

 以前よりも増えたUFOキャッチャーの筐体の三分の二ほどはぬいぐるみだ。今は『ちいかわ』が大きさ問わずマシンを埋めている。安定して新作が毎月入荷されているのは『ポケットモンスター』だ。私がUFOキャッチャーを遊びだした頃からゲームボーイ時代に登場したポケモンのぬいぐるみやグッズが増え、現在も新作に登場するポケモンに並びゲームボーイ時代のポケモンのぬいぐるみが定期的に販売ではなく景品に選ばれている。理由の推測はそう難しくはない。当時の子供が金を持った大人に変化したからだろう。私もその一人だ。今日も昔ドットで表現されていたポケモンのぬいぐるみがトリプルキャッチャーの中に置かれている。けれども歩みを進めて少し驚いた。手前のトリプルキャッチャーに置かれていたものと同じぬいぐるみが橋渡しの形で置かれていた。つい手を出して過去を懐かしみながらカタカナの「ハ」の字に対し水平に置かれた景品を二本腕のUFOキャッチャーで動かすと、景品は思った方向へと転がり最後は逆さづりになったポケモンの尻を本体で押し込んで景品を落とすことができた。
「おめでとうございます」と店員が袋を持ってやってきた。

「今時珍しいですね。ぬいぐるみを橋渡しで落としたのは久々でした」
「そうですね。大体トリプルキャッチャー」
「私は古い人間なので、あれにはどうにも慣れなくて。二本腕の方が楽です」
「橋渡しは取り方がありますからね。取り方がわかればとれますから」
「あっちは運がらみですよね。橋渡しは本当に減りました。昔は箱物ですが棒の手前に落とすとか、豪快な取り方が面白かったんですが」
「『ラブライブ!』が流行った頃はぬいぐるみでも橋渡しが多かったんですけどね。
でもうちではこういう方にも力を入れているんです」
 私より一回り若い店員はおそらく自分がセットした筐体の並びを眺めながら軽く力を込めてそう言った。
「また遊びに来てください」
「そうですね、また」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

:『PERFECT DAY』 ヴィム・ヴェンダース監督 二〇二三年十二月公開

2024年01月13日 | 映画
・清らかな侘しさ

 ヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAY』はひたむきに静かだ。役所広司演じる渋谷区のトイレ清掃員の一日の過ごし方は緩やかな正確さで定められており、毎日のリズムは根本的に変わらない。けれども退屈はない。「変わらないということはありえない」と主人公の平山が言うとおり、日々は細やかに変化している。誰にでも起こりえるさざ波のような変化は平山の生活を乱すには足らないが、その日の平山の心は揺さぶられる。ほんの僅かの力加減で単調に陥る寸前の静寂が平山という人間像から描き出されていくのだ。

 朝、向かいの神社の門前を掃く箒の音で薄暗い中目を覚まし、仕事着のつなぎに着替えて改造した後部座席いっぱいに清掃用の道具を詰め込んだ紺色の車で出発する。車のサンバイザーからカセットテープを選んでセットし、車の中に流れ込む音楽のリズムのまま朝日の射す高速道路へ乗り込んでいく。トイレでは手早くゴミを拾い、壁に設置された便器の裏の汚れを自撮り棒のような鏡で確かめる。仕事が終わると着替えて自転車で銭湯に行き、湯上がりのまま浅草へ自転車を走らせて地下街の居酒屋でレモンサワーと夕食を済ませ、夜は布団の中で文庫本に読みふける。その日の光景が白黒にちらつく夢を見て箒の音で目を覚ます。仕事には時計を使わないが休日には腕時計をつける。それもお洒落に留まり、休日を過ごす彼が時計に目を留めることはない。彼の居室には時計がなく、彼の一日は彼の生活が物語る。

 それは突然平山の姪が訪ねてくることでも、同僚の若いタカシが惚れているアヤから頬にキスをされても、行きつけの居酒屋のママと元旦那が抱き合う姿を見てしまっても、崩れることはない。姪のニコに部屋を譲って箒の音が聞こえない階下で眠っても、箒の音が鳴る時間にはきちんと体が起き上がり、前の日と同じ一日を始め出す。平山は登場人物にも観客に対しても無口を貫く。黙っていても心の中の声を映像に当てはめて語らせることもせず、表情を極端に形作ることもせず、たとえば居酒屋へ行けなくなってコンビニでハイボールの缶三つとともに「ピース」とたばこを頼む一言の苛つきが強烈に響く。

 平山の生活は生活の生臭さとは無縁だ。たとえば彼の部屋にはゴミ箱がない。畳に濡れ新聞を撒いて箒とちりとりで掃除をしても、汚れを絡め取った新聞紙の棄て場所はない。臭いと汚れしかないトイレに毎日通う仕事着は一着のみで、洗濯も一週間に一度のように見えるが汚さは不思議と覚えない。トイレという現場ながら汚物自体の映像はない。それは理想的な清貧を描くために必要な省略なのだ。過不足のない調和のとれた毎日のための平山の無口なのだ。

 映画の最後に「木漏れ日」という日本語が解説される。日本にしかない表現らしい。そこで強調されるのは同じ影が二度生じることはなく、同じ風景の中にすら変化せざるを得ないという瞬間の儚さだ。その一瞬の輝きを連ねて平山という日々の綴られる速度は緩やかであり、静かな光に満たされている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・鐘を聞く耳遠くまで

2024年01月01日 | コラム
「世間が間違ってるのは、大晦日、紅白歌合戦が終わって12時、鐘がボーンと鳴るとともに行くのが初詣だと思っている人が多いんですけど、あれは初詣とは言いません。初日の出が上がるまでは除夜詣というんですね。」―-「日本の扉 浅草 2023年秋冬号」内「浅草寺子屋」より

 厳密には初日の出が登る前の深夜のお参りはまだ「新年」に入っていないらしい。そんなことを伝えるメディアはとくに無く、今年も神社の拝殿の前には長蛇の列が出来ていた。昔父が「不況の時は増えるんだよ、神頼み」と神社の外にまで続く列を眺めて言った。その歳の除夜詣の帰りは一時を回っていたことを覚えている。今年は『孤独のグルメ』が終わって十一時半に家を出たのでまだ一〇組ほどしか並んでいなかったと思いきや、鐘の音が鳴り響くに連れて列はどんどん伸びていき、待っている間の一〇分であっという間に列は神社の正門まで届いていた。開かれた拝殿は元の建物を保全するため鉄筋の建物を覆い被せるように建てており、奥まった本殿の手前で氏子と思われる人々がストーブで足を温めながら儀式を見守っている。ぼんやり見上げた空は薄曇りで月には暈がかかっていたが、雨は上がって空気は薄ら湿気を滲ませながら澄んでいた。ダウンジャケットで留められるほどの寒さだった。素手を出していてもかじかむ気配もなく、財布からお賽銭を出しても小銭は冷え切っておらず金属の冷たさそのままだった。鈴が鳴り始める。新年を迎える参拝が始まった。列が少しずつ動き三本の鈴が次々と揺らされる。

 私の前にいた人はよく響く柏手を打って体を曲げ、背中から熱が静かに登るような祈りを捧げていた。祈らざるを得ないことは存在する。年々神頼みが増えていく気がする。それは人生のままならぬことが社会に生きる実感として襲いかかるためで、長く生きれば生きるほど神様にお縋りしなければ心が保たないのかもしれない。人と人とのつながりで心を保とうと訴える商品が増える一方、こうして神頼みが続くことはまだ祖先から連綿と続く人間の「いたらなさ」を私たちが自覚せずとも体に覚えているせいなのかもしれない。

 二〇二四年、これを書いていた只中に石川県で震度七の地震が発生いたしました。被害の規模はまだ詳細に報告されておりませんが、石川県と近隣の県の皆様の被害が少しでも少なく済むよう願っています。神頼みのことを書きながら新年早々に神を憾むような出来事が起こりましたことに衝撃を受けて降りますが、人の善意が続く限りは苦境に陥っても人の手という形でだれかが助けてくれるものであると信じるのは甘い考えでしょうか。
 それでも甘さを求めなければならない弱さを抱えて付き合いながら、本年も書き綴る所存です。何卒よろしくお願い申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする