えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・デニムの色合い

2015年06月27日 | コラム
 やれ外歩きだ散歩だ買い物だ遠出だと引きずり回していたジーンズも数年を越えると経年劣化のガタも散見するもので、かつては藍一色だったズボンの面影はなく着用者の使い方と体型に合わせようとした結果太腿の辺りは白っぽく色落ちし肩掛け鞄の内ポケットに収めた鍵が鞄の革越しに当たる腰回りの布はザキザキに糸がほつれている。それでも穴が開かない丈夫さは大したものだが、それも太腿の裡で円周が最も太い箇所に触れると既に擦り切れた布の間から最後の砦のように二枚重ねの一枚に触れられる穴に指を差し込んで今更ながらに体型を考え直すがもう遅い。

 肌が見えるほどわざと大ぴらに膝元やふくらはぎ辺りの布を切ったダメージジーンズという考え方もあるにしろ、さすがに太腿の内側という見せたいのか見せたくないのか、むしろ見せられる側の方から着用差し止めを喰らいそうな部分のみぽっかりと布地を取り除いた代物は見たことが無い。むろん太腿を見せるためにそこが切られないことは無いだろうが、穴が開くというよりは目のような切れ目の一部として切られるのがせいぜいだろう。太腿の内側に開く穴は単に身体へまた脂肪が付きましたよという無言の伝言だ。

 同じ尺度をメーカーで使用しながらデザインの違いという、そこが一番身体に合う合わないを決めるのではないかと思う差分なのか健康診断で突きつけられた結果の直接的な反映か、新しいズボンのサイズは前のズボンよりも一つ大きなサイズにした。今のジーンズと交代しながら履き続けようと思い、下から二番目の棚に乗せられていた色の濃いジーンズに目を留める。
「これは何色ですか」
 よろしければご案内しましょう、と売れ筋の商品(ボーイフレンドジーンズやクロップドデニム等々)を丁寧に説明いただいた黒い背広の男性店員は、私の手にしたジーンズを見てむ、と考え込んだ。明かりの加減で黒か濃藍か区別がつかなかったので尋ねたのだが彼も目視では分からないらしく、ズボンを持ち上げてラベルを見ながら張りのある声で自身なさげに「黒・・・ではないようですね・・・」と答えた。
「濃藍ですか」
「そのようなお色ですね」

「こいあい」という音節が彼の中で漢字に変換出来たのか今一不安になる。素直に濃紺と言わないこちらもこちらだが、仕様がないので試着する。試着室の照明は店舗よりも白色の強い光で、ズボンはわずかに青みを見せた。じっとりと雨で湿った土のように布へ青が染みた藍色だった。これから何度水を潜らせるか分からない経年で、せめてその青は残って欲しいと思いつつズボンを選んだことを告げると、背広にそぐわない桃色の針山を彼はいそいそと持って裾直しを始めた。その向かいの壁から、先輩らしき茶髪のボブカットの女性が彼の手もとを小首を上げて覗き込んでいた。白いジーンズの彼女に見守られながら、黒い背広の男は身体をかがめて私の足首に合わせズボンの裾を矯めていた。
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:第九回日経能楽鑑賞会 能「融」シテ 友枝昭世 二〇一五年六月四日 国立能楽堂

2015年06月13日 | コラム
・月から朝日を

「能の場合は、口伝されるのは意味である。――そして意味とは決して過去のものではない。それはひとりひとりがおのれの現在の体験の中で検証できるものだ。」
――『なにもない空間』 ピーター・ブルック

 白い足袋が身体を運んでいる。手すりの下から覗く足袋の一足と、手すりの上に現れている老人の身体は別物のように、しかし全く同じ拍子で動いていた。橋掛を越える手前でやっと足袋と身体が繋がり一体になる。拍のような呼吸を置いて、四つの柱で囲まれた舞台へ友枝昭世は身体ごと足を踏み出した。ワキ柱の傍らで端坐する僧の宝生閑は既にこれから舞台の中央へ出でんとする老爺が人ではないことを既に知っているようだった。腰蓑をつけ田子を提げた老爺は掴んでいた田子の紐から慎重に手を離し、「月も早」と屋根に遮られた国立能楽堂の空を見上げる。夜が始まった。

 能『融』は真夜中を作り出す能だ。京を訪れた一見の僧は荒れ果てた六条河原の院に足を留める。そこに突如として現れた前シテの汐汲みの恰好をした翁へ訝しげに僧は問う。「ここは海邊にてもなきに、汐汲みとは誤りたるか」翁は答える。「河原の院こそ鹽竃の浦候よ」。かつて左大臣源融が贅を尽くした館の旧跡に立ちながら二人は詞を交わす。屋敷の庭に塩竈を作り、毎日遠くから海水を運ばせては塩焼きの様を愉しむ豪奢を翁は吶々と僧へ語る。そこへ月が翁の言葉と共に現れる。仕事の帰路で足元の花を見つけるように顎をふいと上げるだけで友枝昭世は月を示し、夜を分からせた。三年前の友枝昭世の『融』の老爺が人間と亡霊の中間ならば、此の時の老爺は出の一歩から亡霊だった。宝生閑の僧は自身も半ば幽鬼となりながら、翁の亡霊と共に『融』の月下の光景を組み立てていた。

 翁の野太い声が淡々と波のように染み渡り、凪の水面に落ちる葉のように身体が舞台をゆるやかに流れてゆく。舞台の外へ身を乗り出し両肩の田子で水を汲んだ。田子を掛けた肩を前掲してわずかに水の重みを感じさせつつ幻のような歩みの軽さはそのままに、田子を床へ置くと老爺は舞台から下がった。

 スポットライトが明るく照らす能舞台に夜は更けてゆく。地元の人間である(今回は彼が唯一の観客と地続きの人間に見えた)里人が翁の語った内容と同じことを語る間、僧は黙して既にそれを熟知している様を示していた。深夜を迎え、弔いのために僧は廃墟に座り続ける。笛が呼ばわるように空間を割いて鋭く鳴り響いた。幕が上がり現れたのは中将の面、融の大臣の亡霊である。現れる彼を知っていたはずなのにはっと息を呑んでしまった。狩衣と袴が死に装束のような生気のない純白に光り、鉢巻をつけず切りそろえた下ろし髪を前後に垂らした若々しい姿のそれは間違いなくこの世に執着する幽鬼だった。袖が翻る。金糸銀糸で雲を縫い取った象牙色の狩衣の隙間から金と黒の円の模様が見え隠れする。腕を大ぶりにするような荒々しさはないが、面の壮年の男が顰めた眉の煩悶を映し出すように手足は激昂を以て力強く動いた。ともすると引きずり込まれそうな恐い舞台の上で僧は舞を見守る。融の大臣は幕の寸前まで戻りそのまま退場かと思わせながら、舞台の上――六条河原の院の廃墟――に後ろ髪を引かれるようにするすると戻ってゆく。そして舞う。地謡が朝の訪れを謳うと亡霊は鮮やかに夜から去った。三年前には分からなかったかれの遺す余韻は、眠りから目覚める早朝の一瞬に似ていた。
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:第九回日経能楽鑑賞会 狂言「清水座頭」 シテ 野村萬 2015年6月4日  国立能楽堂

2015年06月13日 | コラム
・酒と仕草と男と女
 幕の奥から杖が床を叩く音がした。鼠色の装束に白髪の老人――アドの野村万蔵の山吹色の帯の腰元までしかない背が杖で足取りを作りながら舞台中央へ足早に歩いてゆく。シテの野村萬の座頭はなんとなく人の良い金貸しを生業にしていそうだった。

 男女二人の盲のすれ違いを笑いの軸に据える「清水座頭」はたった二人の舞台だ。京都の清水寺へ縁結びに参詣へ訪れた若い瞽女と壮年の座頭が夢のお告げのままに結ばれる、ちょっとした恋愛譚である。野村萬演じる座頭は盲の実を嘆きながらも「二世代に渡り盲は遺伝しないだろうから、目明きの子どもに老後の面倒を見てもらうためにもお嫁さんをもらって子どもを設けたいものだ」とのたまい、いざ観音様のお告げで妻となる女が待つ場所を知らされても「人違いだと恥ずかしいから向こうから声をかけてくれないかなあ」と嘯く世帯じみた図々しさが憎めない。

 そして当然のように酒が登場する。袴に吊り下げた朱色のひもの瓢箪を両手に持ち、床に広げた金の扇へ「どぶ、どぶ、どぶ」と、見えないどぶろくを一杯に注ぐ。いざ酒を注がれた扇から酒を飲み干すにあたって、手つきこそ指を揃えた整った所作であるものの飲み干すごとに力強く跳ね上がる両肘のテンポで飲む酒は大変に幸せそうで酒が欲しくなる。ワキ座のアドは女らしく扇を縦にして傾け方も水のようについと滑らかな色っぽい飲み方で、これも喉が渇いて仕方ない。酒に酔った放埓な調子で歌う平家物語も多分こちらの聞き間違いだとは思うが「踵に毛が生えて」などところどころに妙な歌詞が混じるもので、少し間違えば下品に落ちそうな仕草を野村萬はさっぱりと演ってのける。大いに清々しい。

 結ばれることが分かった最後、アドの瞽女の手首を取り多少前に重心をかけ、一歩に重みを与えつつ舞台中央へ歩く姿は男らしく、また妻を披露する男の胸を張った気恥ずかしさと披露される妻の慎ましやかな足取りを以て終わる。演者の年の差を意識するこちらが恥ずかしくなるような、いい男ぶりだった。
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