えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・明日の今年を

2017年12月31日 | コラム
 朝に雪が降り、雲に覆われたまま、また夜に雨が降るらしい。冬の日が淡く彩る雲の下の川岸を、随分前の十二月三十一日に歩いていた。そこまで寒くはなかったと思う。家の掃除は早々とほうりだして昼食をとり、そのままとぼとぼと歩いて坂道を下り続けて川岸にいた。葉が落ちた桜並木の枝ぶりを対岸から眺め、枯れ草のしげる川岸には誰もいなかった。奥の橋からエンジンの音がする。家で何もせずに歩いている自分や、通りすがって行ったマラソンランナーは行き場がないのだろうか、と、思うこともやめて、アスファルトから多少離れて見下ろすとカワセミが一羽、岸に近い浅瀬から飛び出した杭に留まっていた。くちばしを気持ち下向きに、カワセミは水面を見下ろしている。自分も手を後ろに組んでそれを見ていた。隣で写真を初老の男がパチパチとカワセミをカメラに収めると自転車で去っていった。歳末の忙しさはなかったが、今年が終わるという感慨のようなものが沸いていた。

 窓から見える外の公園の立ち木は今年すっかり冬枯れていて、欅の葉は十二月らしく素直に葉を地面に落とし切っていた。箒を逆さにしたような枝ぶりだけが窓ガラスの外で灰色にそびえている。部屋にかけた絵を変えて少しだけそれらしく雰囲気を整えた。外から染みこむ冷気が夕方にかけて部屋を外と同じ程度に冷やしてゆく中で、今年の三十一日は大人しく時計の裏で過ぎていく。休みの少なさをぼやきながら納めた職場の人々が続けて漏らす「来年も今年も変わらない」という言葉は今日一日だけは、純粋な沈黙に押されて消えるのではないだろうか。

 その時に見ていたカワセミは水に飛び込むと、羽が生えそろったばかりの鴨の雛のように翼をばたつかせて水からあがり、決まり悪そうに羽をふるわせて水滴を落とすとまた同じ杭から水を睨みつけていた。姿勢を整えて飛び込み、飛び上がったくちばしには細長い魚がくわえられており、それを飲み込むところまで見届けるとほっとした思いで帰路についた。夕暮れまであと三十分ほどの時間だった。その時の空と似た加減の雲を窓から眺めながら、どの本を手に取ろうかと思案している。


 二〇一七年は考え込むことの多い年でした。来年もまたそんな年でしょうか。
明日から始まる来年は本ブログを始めてからだいたい一〇年となります。WEBのブログ、それも写真のない字だけのものがこうも続くかとは驚きもございますが、どなたかの目にこの一字が留まっていただいたことがあればそれをよろこびといたし、本年の日記の一段落ともいたします。ありがとうございました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・今年買って地味に良かったもの

2017年12月23日 | コラム
 そろそろ趣味に「買い物」を追加してもよいのではないかと言い聞かせつつ物を買う歳末を歩き去りながら、盛んに来週から再来週の二週間にかけた買い物への誘導が続くテレビを流し見ながら手元でスノードームに詰まった『バベルの塔』を転がしていた。今年六月の『ブリューゲル展』限定(この言葉はまことにずるい)で売られていた、大きめのスーパーボール程度の小さなスノードームである。私が訪れた時は販売所の真中にレイアウトされながらも誰も手に取る人がいなかったので、哀れみを覚えながらレジに運んで行ったことを覚えている。

 中身の『バベルの塔』はピーテル・ブリューゲルの絵のとおり、途中から作りかけの階層が欠けており、窓も丁寧にちまちまとあけられている。だがいかんせん小さい。細目で見ると食べかけのチョコレートシフォンケーキのようだ。千円を切っていた値段と比すとなかなかの出来だと思う。

 黒地の箱はブリューゲルの肖像画と中身のスノードームを、金色のインクで交互に側面へ印刷した、そこそこ洒落たデザインだった。置く場所もなかったので中身を箱の上に置くとちょうどよい塩梅になる。手持ち無沙汰な時に掌で転がしていると、玉の中で螺鈿色のラメがゆるく流れてこぼれる。液体に渦を作ろうと回しているうちに塔が逆さになっていたりする。壊すよりもこれくらいで済ませる方が平和だったのかもしれない、などしょうもないことを考えながらまた土台を軸に回転させるとラメが塔の周囲に流れ窓の一つにひっかかった。

 好かれもせず嫌われもせず、買って以来同じ場所をバベルの塔のスノードームは何事もなかったかのように占めている。ほどほどの大きさとほどほどの出来、そして掌で転がすことができるという地味な満足が、なんとはなしにモノの性格を語っているようだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・火あぶりの席

2017年12月09日 | コラム
 階段を下りた地下の喫茶店には、中庭に続くガラス扉から伝わる冷気が広がっていた。その出窓の側で暖炉が明るく火を立てている。薪に火が回るにつれて木肌が白い灰になり、崩れては赤く光って熱をためていた。暖炉の前の四人席が空いていたのでそのまま座りこむと、身体の片側が熱くなった。もう片方は忍び寄る外気で冷えてゆく。身体をひねってもう片側にも火を当てた。黒い上着の脇腹が焦げたように温まっていた。

 天窓を見上げると煙突から薄い白煙が空に溶けて広がる。火がゆらめくと火の子は煙に吸い込まれ、じくじくと薪の皮がはぜて燃えていった。暖炉の底には白い灰が積もっている。この灰は季節が過ぎると売り物になるそうで、常客の茶道の先生が持ってゆくのだという。純粋な木灰が欲しいと季節が過ぎたころに取りにくるらしい。火が静まると、店の主人が握りこぶしほどの太さの薪を三本くべた。すっかり炭で黒く染まった火ばさみで薪の並びを崩すと、空気が間隙を縫って押し寄せぼぼぼ、と音を立て火炎があがった。赤い炎が数十秒もせず立ちのぼり、熱気が一気に押し寄せた。それでも炎と火の粉は真っ直ぐに煙突へ向かい、熱だけが暖炉からやってくる。「暑い」ではなく「熱い」。

 席を四つためし、暖炉から一番離れた席にぽつんと座っていると、立て込んだ客があっというまに席を埋めていた。席に座った人の背後から、七歳くらいの男の子が珍しそうに火を覗いている。喫茶店は変わらずに寒く、何かとない用をつけて客たちは次々暖炉の側へ寄っては離れ、寄っては離れと動いていた。エアコンが壊れてしまって、電気屋をこれから呼ぶんですよ、と、奥で主人が笑う声を聞きながら、私は一番暖炉に近いせいで誰も座らない席へコートを掛けた。店を出るころには背中がカイロのように温まっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする