えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・『食前方丈 八百善ものがたり』 雑感

2020年05月30日 | 読書
 東京の料亭「玉川」の建物が解体されるニュースを聞きながら、江戸時代から続く料亭「八尾善」の九代目女将のものした『食前方丈 八百善ものがたり』を眺めていると、そこで動かされていた金額の莫大さという太い柱が見え隠れする。創業者の初代栗山善四郎が没した一七〇八年には既に店があったという老舗で、現在は著者の孫の十一代目栗山善四郎が跡を継いでいる。年代を見ればすぐわかることだが、江戸の始まりから三百年以上東京の真ん中で時代を見続けている生き字引のような店だ。

 とても控えめな本だ。「八百善」が保管し続けていた書画や文書などの史料の紹介を中心に、江戸時代から明治時代を駆け抜けた四代目から七代目が料亭というしょうばいを通して関わった時代を淡々と語る。享保の改革のあおりをうけて豪勢を売りとする料亭しょうばいの緊縮を潜り抜け、跡継ぎたちの死を乗り越え、名物とも揶揄された火災をも潜り抜けて史料は「八百善」という店が「栗山善四郎」という人の手を通って生き続けてきたことを示し続けている。特に文化文政時代に文人たちの高級サロンとして蜀山人や酒井抱一に愛好された四代目の時代に多く筆が割かれている。その華やかさは川柳にも記されている。

詩は五山 役者は杜若 傾はかの
芸者はおかつ 料理八百善

 あまりにも水が悪すぎて、おいしいお茶漬けを作るために飛脚を鳥越から玉川上水までかっとばしたので現代の価格に直すと一杯六万近く費用がかかったり、食事券に記された金額分を使いきれなければ差額を現在の価格で四十万近くも払い出したり、と、上方とはまた違った堂々とした奢侈の気風が江戸らしい。料理の研究のために日本中を旅した四代目善四郎が、何故か京阪の料理については一切触れていないところには引け目じみた親近感を覚える。思うところがあったのか、書くこともしたくない何かが起きたのだろうか。

 惜しむらくは史料に敬意を払った結果、現在の「八百善」に繋げる「ものがたり」が薄いことだ。たとえば上方の料理に対して江戸の料理は地方色が薄く、「非常に豪奢なもので、一般庶民の口に入るものではなかったので、これのみが江戸料理と決め込むことはできないが、関西料理とは違った江戸特有の料理」の、差異の部分は詳述されない。また、「八百善」のしょうばいの仕方については折詰が古くから売り物である以外はほとんど触れられていない。それでも献立表や当時の書簡などをめくっているだけで漂う老舗の古格が、一種妙味を醸し出している。
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結構たくさんいた家(読書記)

2014年03月22日 | 読書
 ジョルジュ・シムノン「家の中の見知らぬ人たち」読了。すんなりと読み進められる反面、そこで起きたことが何か、誰が何を思ってそうしたかを考えだすと途端に複雑性が一気に膨らむ。主人公の四十八歳の弁護士、娘のニコラをそれぞれに取り巻く人々。本と酒に埋もれて十八年間を過ごした主人公の過ごす一晩に、突然が忍び込む。極端に驚きもせず、セリフもなく彼は物音を聞いて篭もり続けていた「穴ぐら」から夜一歩を踏み出した。ドアをまたぐ一歩を境目にして、主人公は「見知らぬ人たち」を次々と見つけてゆく。その人たちは彼の身近なところで時間を過ごしながら主人公がただ知らなかったが故に今まで見えなかった人々だ。娘のニコラ然り、彼の知らない間に忍び込み、生活し、死んでいった男然り、バーの主人然り。

 部屋から外に出た階段から見下ろしたレーンコートの男然り。

 主人公は自分が驚いていることを見つけて驚く。驚きの表現は作者シムノンの非凡さを表して余りある。ただ文字を追い掛けていると、いつの間にか何故彼はすべてを甘受したように行動するのかわからなくなってしまう。しかしその理由を懇切丁寧に説明する事なく、彼の一挙一動は驚きの元に自然と描写されてゆく。彼の思考をつらつらと書き続けるよりも、彼自身が何故そのような行為に出たか気づく瞬間を以て全ての説明に替えている。
 飲んだくれと哀れまれる彼が、自分の娘が原因で引き起こされた自宅での事件の弁護へ立つとき、髭をさっと剃り落とし糊のきいた白いカラーを用意して身なりを整えようと考える瞬間、彼は面白味を味わいながらそこにいる。論理的にでも感情的にでもなく、その人がそのままにそこにいる。

 端的に、「娘が男を沢山家の一間に引き入れて遊んだ結果、一人の男が殺され娘の恋人が被疑者になった」と書くと、何故主人公が被疑者の弁護を引き受けたのか、その心理を深く知りたくなる誘惑に駆られる。作者はそれを読者の楽しみと心得ているのか、あえて深堀をせず、けれども洞察に基づいて、主人公の軸をぶらすことなく感情的に矛盾した行為を自然に描く。どこにでもいそうでいて、いざ探そうとするとどこにもいない人を。娘とのやりとりが時間に沿って断片的に差し挟まれながら、極端にならず確かな変化がもたらされている流れが好きだ。
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そんなに騒がしくない小人たち(読書記)

2014年03月19日 | 読書
 ジョン・ブラックバーン「小人たちがこわいので」読了。伝奇、SF、人間恐怖入り混じり少し煩雑の気は感じるが1974年の発表年を観れば相当。川原泉「小人たちが騒ぐので」の元ネタには違いない。文章の抜書きをしようにも際立って文に優れた何かがあるわけではなし凡な文の印象。翻訳の所為かもしれないが説明くさく、主人公たちの味わう恐怖の種類が多彩な分ひとつひとつの出来事の怖さが断片的で、一本の怪談を集中して聞いている時のような怖さの起承転結には欠けている。文章が平坦なことがかえって読む分には気楽。

 これがフィルボッツのように飾り立てた文章、ラヴクラフトのような当人の頭の中をそのままにさらけ出すような川の流れのような文章であれば分量は倍増し、恐怖の方向性が書き手の手腕をさらけだすように散漫になるか、より際立たせるかのどちらかになるだろうか。少なくともフィルボッツはちょっと嫌だ。「赤毛のレドメイン家」の解説者が探偵小説ではなく描写へ評価をすり替えていたのは時代の感覚により仕方無いとはいえ、まだそんなに古くない小説でそれを蒸し返すようなまねは勘弁。

 飛行機の音に呼びさまされる、誰が聴くかもわからない飛行機の音が記憶を呼び覚ましてゆく場面がよい。その飛行機に乗っている人は何も知らぬまま、目的の場所へたどり着くまでの時間を過ごしている。中にはオチの飛行機の乗客のような人物もいるかもしれないが、宅の家の上空を通るアメリカ軍や自衛隊の音が静かに過ごす屋内へ滑り込む時は、紛れ込んだ異物への不快感が呼びさまざれざるを得ない。それだけに物語の肝をつとめる古代の怪奇の力の弱さを残念に思う。

 飛行機の音の不条理な恐怖から呼びさまされた恐怖は飛行機のそれを上回ることなくダイナマイトの前に沈む。クトゥルフTRPGを思い起こしてしまうのはこちらの知識が悪い。どちらにしろ例の彼の影響を忠実に受けていることはまず間違いないだろう。キリスト教の知識が無ければアイルランドの複雑な情勢と絡みつくプロテスタントとカトリックという差が醸し出すものも理解できない身がとやかく言う問題でもない。ただ電車内の読み物としてはきっちりと整った読みやすい文なので頭に優しい本だと思う。
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クレヨン王国はしりがき

2013年06月25日 | 読書
掃除をしたら青い鳥文庫の『クレヨン王国』シリーズがそれなりに出て来たので、
懐かしさのあまりおとな視点のあらすじや感想めいたものを順不同に殴り書き。
『クレヨン王国』シリーズの自然描写の精密さ、色彩のうつくしさ、
季節の感覚のするどさは言い尽くされていると思うのであんまり言及しない。
主な主人公の子どもの姿については、何をかいわんやだ。

・一冊め『クレヨン王国 十二妖怪の結婚式』
 :二十歳の娘さんと十歳の女の子、害虫駆除のノリで妖怪の調査を頼まれる。
  二人ともクレヨン王国の住民とはいえあんまりだ。
 :クレヨン王国の住民も人間の住む世界では文無しだという現実が突きつけられる。
  依頼主からは通信機しかもらってない。やっぱりあんまりだ。
 :結婚相談所へ潜入捜査のため金策にはげむ二十歳と十歳。
 :万策尽きたところを見かねた妖怪が百万小粋に貸してくれる。
  登場する女性で魅力的な人物は、ヒロイン除けばみんな妖怪だ。たぶん、意図的に。
 :妖怪とはいえ十六歳(自称)が結婚相談所に登録している。大丈夫か、その企業。
  法的にはセーフなところが妙に生々しい。
 :大臣たちの家主(還暦)が妖怪に狙われる。一連自然な運びであるところがこわい。
 :いろいろあって妖怪は人間界から退散。仕事を終え、せつない別れに涙ぐむ二十歳を慰める十歳。
  これでしっくりくるのだからおそろしい。

 総じて:濃厚。


・二冊め『クレヨン王国 まほうの夏』
 :クレヨン王国の事件とこっちの世界の事件が錯綜。伏線の置き方が絶妙。
 :三日以内に正しい「もの」へなれないと死ぬ生き物を拾った主人公の少年少女。
  かれを育て導く親に選ばれた時、やっぱりというか女の子は当然のようにすぐ肝が据わる。
  男の子の動揺はしかたない。読者だって動揺する方がきっと多い。
 :森と湖に囲まれた夏の合宿で親の苦悩を味わう少女。少年は年相応のトラブルと
  相応でない事件にかまけて出ずっぱり。遊んでくれるお父さんに生き物は満足。
 :少女、育児ノイローゼ気味。生き物と真剣に向き合うゆえのなやみ。少年も反省。
  でも事件も大事。生き物、成長してものわかりがよくなった。その期間はあまりに短い。
 :生き物のタイムリミットと事件の終幕が交差して掬い上げられる。
  エピローグの少女の指先から後ろ姿へ、カメラがフェードアウトしてゆくさまは映画のよう。

 総じて:青春子育てサスペンス「湖は見ていた」。


・三冊め『クレヨン王国 黒の銀行』
 :御年卒寿のおじいさんを見舞いに行く途中で拳銃強盗に荷物を奪われ山へ置き去りにされる十八歳と十五歳。
  もちろん二人とも女の子。こんなトラブルに慌てるようでは、クレヨン王国は遠い。
 :夜に溶け込むようにクレヨン王国の門が開き、二人の前には漆黒のカードが残った。
  カードに触れると銀行へ直通。便利。
 :黒の自然物ならカードの額面に応じてあらゆるものを引き出せる、
  想像力と自由な発想が求められる銀行を眺めていると、紙のお金が味気なくなるのはなぜだろう。
 :おじいさんの家に居座る強盗へ立ち向かうため、旺盛な想像力で黒をばんばん消費する二人。
  アリ五万匹で1ブラックだそうです。
 :ついには黒が足りなくなって金策ならぬ黒策に走る。黒の大盤振る舞いは豪快ですかっとする。
  黒銀行の窓口担当の的確なツッコミと大人対応がすばらしい。
 :もう拳銃「しか」持っていない強盗がかわいそうに見える。
 :ラストスパートはめまぐるしさから台風一過の涼やかな上天気。夏の早朝の爽快な気配が香る一本。

 総じて:やさしめスラップスティック。


・四冊め『クレヨン王国の花ウサギ』
 :初めて読んだクレヨン王国。小学生のころの視野を一気に染め上げてしまった。
 :小学生の女の子が、飼っているウサギに導かれておにいさんを助けにゆく物語。
  ただし女の子はかわいい暴君である。元気が一番。
 :そんな女の子へクレヨン王国は現実よりも現実的な状況を突きつけ、判断を求める。
  女の子はそれを正面から受け、決断を下しながら前へ進む。
 :空と大地と水の全てから敵視されているという厳しい舞台だが、その分、ウサギを
  心の頼りにしながらも自分で歩を進める女の子の姿がりりしく景色に映える。
 :幻想の風景の描写にすぐれた作。
  魅力的な風物に事欠かない王国の中でも、せつなさに裏打ちされた美が鮮やかな
  この世ならざる風景に込めた作者の情愛が見て取れるような文は、心にしみいる。

  総じて:不思議の国とたたかうアリス。
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遺産はたくさん

2012年09月05日 | 読書
 ここしばらくはアガサ・クリスティーの小説を枕頭に置いていた。創元社文庫をたまさかに交え、大半はハヤカワ文庫版だ。地元の図書館が旧版を早々にリサイクル図書として放棄する関係で、手に取る本は2000年代の新訳版が多いものの、個人的には1970年代の訳が、ぎこちない箇所もふくめてしっくりと読める。古い版は表紙を星新一の挿画で有名な真鍋博が手がけており、丹念な細い描線と割り切った色の使い方が作品の気配をいやましている。創元社文庫の表紙もコミカルと不気味さが混在した雰囲気が良い。訳文は2000年代の方が私たちの使う言葉に近づいて読みやすいが、アガサの執筆と並行して翻訳された時代の方がより雰囲気を残していると思う。

 『アクロイド殺し』『オリエント急行殺人事件』『牧師館の殺人』から始め、現在は『クィン氏の事件簿』をぱらぱらとめくるに至っている。道具を奇抜に使った仕掛けが少なく(時代背景もあるだろうが)、誰でもふいに起こしてしまいそうな些細な事象や会話が謎のとっかかりとしてよく使われており、事件の構成自体はシンプルだ。そのためか、丁寧に文を読み謎を解こうとする読者にも、私のようにプロットを楽しめればそれでよしとする雑な読者にも、謎を楽しめるように計算して作られていると思う。

 ただ、お国柄というべきか時代柄というべきか、事件の核心に何かしら遺産が出てくる筋がきが多く食傷してしまった。「なぜ殺したのか」を謎の深みに落とさないためには、遺産という動機は単純で受け取りやすいのだが、それが続くとお腹いっぱいになる。良くも悪くもシンプルなのだ。

 気に入りは月並みだが『そして誰もいなくなった』と、『謎のクィン氏』である。どちらも人物描写、それも群像としての描き方が特に卓越していると思う。誰かの背中にライトが当たり、また次の人物にライトを当てることを繰り返してなお登場人物ひとりひとりが生きて動くクリスティーの筆致が魅力的にうつる。人間のふるまいにものを言わせるための数言が生きている。そういえばどちらも遺産の関係がないのも、理由の一つだろうか。
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:『顔のない女』雑感

2011年01月18日 | 読書
※順番が逆だろうとお思いかも知れませんが、上の文章ありきでこれを書く都合上、レイアウトの順序として日付をずらします。ご容赦ください。

たぶん自分のべとべとした線から脱却するために、今のかすれたような黒や塗るところを決めて筆でしっかり塗ってしまう墨の使い方になったのではないかなあ、と想像していますが、ここしばらくはお話も技巧的に作っているのかなあとも思います。

この「顔のない女」で残念に思ったことは過去作「影男」「クレイジーピエロ」のパロディが露骨であったこと、そしてその過去作以上に本作品自体が面白いものとは思えなかったことです。オチのつけかた、人物の姿、不思議な力の描写、どれも過去作ほどにはそのキャラクターの怖さや残虐さを感じません。それは、二つの作品の魅力の核が「影男」は時間の推移、「クレイジーピエロ」はからだの動作にかかっているためで、時間をかけてゆるやかに浸食してゆく「影男」、身軽にはねまわり敵を斃しつづける「クレイジーピエロ」のある種の爽快さが一枚絵に閉じ込められてしまうことで、話はテンポ良く進むけれど肝心の敵役のすごさが伝わりにくい難点が大きくなってしまったように見えるのです。

昨今のこの人の作品のつくりかたに、「夜姫さま」のあとがきで言及されている「紙芝居」の一連『「動く」→「’決め’のポーズもしくは’見せ場’の静止画」→「動く」』の繰り返しが大きく影を落していることを感じます。
それは、以前の作品が映画のように小さめのコマで物事の推移を追いかけてゆくことに対して、絵に重きを与えて見せてゆくやり方です。そのため、大ゴマを使い描かれた絵には効果線がほとんどありません。
たとえば「鷹姫さま」のように、セリフがまったくなかったり、あるいは「姫さま」シリーズ全体のように動きが少なく、場面がいきなり切り替わることで何も損なわれなければ十分に面白いと思います。

ただ、本作のように、他の作家ならばもっと動きを交えて描くようなシーン、キャラクターがバタバタ動き回ることが想像できる話だと、あえてその手法で書く必要があったのか考える余地はあるのではないでしょうか。


そういう意味では動きの見せ方がどんどん鮮やかになってゆく諸星大二郎とは対照的な進化をしている漫画家なのかも知れません。
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漫画のこと

2010年10月31日 | 読書
数年ぶりに諸事情あって部屋の床に積んであった本をかたしました。
ここまで部屋はひろいものかと想いつつ、部屋の左右に移動した上
高さの増した本の山にとほうにくれている夕方でした。

めくりなおしてみると、昔から今にかけて漫画のコマはゆっくりと
大きくなっていて、その分本もどんどん大きくなっていることが
わかります。

コマをつめてつめて描きこまれているのかと思いきや、一つ一つの
コマをつなげる時間の動きは昔のほうがこまやかなのかなと思います。
一瞬の動作や変化を分ける細かさではなくて、20ページとかそこらで
終らせる話全体の流れを汲み取り、必要なものを削いで詰めてゆく
神経のこまやかさはあのぎゅうづめのコマにしか出ない味なのだと
思います。

漫画で何を描くかということと、どう描くかということのなかで、
何を描くかということの「なに」が、「絵」であり「自分」になって
しまっている比重の重さが今のまんがには濃くていけません。

絵としてはむしろ何かを表現しようと思わなくてもよいのかもしれません。
何を絵として埋めてゆきたいか、そこを自分の生き方としてからだで考える。
考えて頭でっかちになってもしようがない。

見せ方がある程度方法になって、誰でもわかるように見える今から始める人と、
何も先例が無いものを作り出せて出さざるを得なかった昔とは何もかもが
ちがうので、本来比較するべきものでもないのですが、
手元に置いておきたいものとしてはやはり後者をえらびます。

ただ中身が昔だからといって、オンデマンドはやっぱり敬遠してしまうのは
私の生まれ育った手がまだそれを許さないだけで、これからの人は不自由なく
きっと暮らしてゆけるのでしょうか。
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亀と旅

2010年08月26日 | 読書
:「リクガメの憂鬱」 バーリン・クリンケンボルグ 草思社 2008年
:「呉船録・攬轡録・驂鸞録」 范成大 東洋文庫 2001年

一つは長江を下って、もうひとつは家の庭から空を見上げて、今あるそのものだけに想いを馳せている二冊を読んでいる。

セルボーンというイギリスの片田舎に住む亀は、とある博物学者のつつましやかな書簡によって世界の、こんな日本の片田舎で、きっと彼が死んでから200年以上経った今、その存在を知ることができるほど足跡をしっかりと残されることになった。
「セルボーン博物誌」からは著者ギルバート・ホワイトの姿も、亀も、アンテナを張り巡らせていなければその姿はこぼれてしまう。他の多くの書簡からもホワイトと亀の姿を取り出して組み立てて見せたのは作者の編集者と言う仕事がよくよく役立っていて、ろうそくの代わりに灯心草を使うところなどはにやりとさせられる。

ただ亀がちょっと文句を言いすぎだなあと思う。文句と捉えてしまうのはたぶん作者なりの冗談を聞かせた部分なのだろうけれど、こうしたことばはメレンゲのようなもので、硬すぎても柔らかすぎてもしっくりと行かない。焼いたときにさっくりとした歯ざわりを味わうためのメレンゲ作りは意外に重労働なのだ。


范成大という1000年近く前の男は、仕事で赴く任地の旅に苦しむ影を見せず、日々の情景を一つずつ愛し、起こったことを受け止めて文字に日々落とし続けていった。その文体はのちに日本に渡り、詩は宋時代の随一として愛された文人だった。今その詩集を日本語の訳つきで手に入れるのは思ったよりむつかしい。でも、詩より愛されたのはその日記のことばだった。
小川環樹氏の訳から一文をひく。

「ここに至って回顧西望すれば、もはや遥かのかなた一つの点ともみえぬくらいになり、ただ蒼煙落日、雲は平らに限りなく、高きにのぼって遠きを懐う嘆あるのみである。」

「さまざまの難儀なめ」を途中ひと言で済ませて駆け出すように見上げた空の、蒼と赤が複雑に入り混じり変化してゆく落日の雲に彼のついたため息は、すべて疲れたものをさらりと吐き出して、あとはただ来た道のりと平坦な大地を包み込む空に心をゆだねるだけである。

これはもうぜひとも、漢文で読まなければならないと思い先日ついに古書を購入した。寛政時代の本はダンボールより軽い。ページの中の白いところだけを器用に食べた虫食いの跡とセピア色を通り越して茶渋色のよれた紙に関わらず、墨の線は黒々と残っていて文字に欠けたところは無い。180歳年上の彼に使われているフォントは細いくせに芯が太く頼れる耳だ。小川先生の訳を頼りに漢字の流れを秋の夜長、解き明かしてゆきたい。


どちらも水の流れのように、時間を独特に辿る本だ。
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人生読書は本より何事

2010年07月29日 | 読書
価値観とは自分を別のものの中から見出すことで、モノを選ぶことはまさに
そのものずばりなのだということを読んだ時は素直にうなずいた。今はすこしずつ
深まる考えがうなずきをとどめようとする。それでも、自分が選んでいるものは
まちがいなく今の自分のあり方や、ものの見方と深く結びついていて、あるいは、
意図しないところでぎくっとする事象やことばに出くわして、やはり自分から逃れ
られないということを確認しては、気味が悪くなるいっぽうで安定した居心地の良さを
感じる。それがまた気味が悪くなる。

比肩して自分に押し込めないで、その人はそのままありのままに受け取りながら、
またその人のあり方に自分を見るような、二重のものさしが、モノにおぼれないためには
どうしても必要なありように思える。自分に帰ることがかえって足かせになっている
今の読書、どうしたものかと思う。

幼稚園のころに戻って、字と文をありのままに受け止める練習をもう一度するべきより、
誰かの選択に身を全てゆだねてみるのが早道なのだということはわかっている「のだが」
わがままに落ちる。
本の傍らにいるのに飽きているのか、本の傍らにいる自分に呆れているのかはよくわからない。
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いまさらながら

2010年07月12日 | 読書
:「屍鬼」 集英社 小野不由美原作 藤崎竜漫画 2008年
:「屍鬼」 新潮社 小野不由美作 1998年

派手なわりに鋭い線の持つ刃物のような冷たさに気づいてから久しく手に取らなかった
藤崎竜の漫画をもういちど読んでみようかな、と思い至ったのは、アニメ化を宣伝する
電車の液晶広告を見てからでした。ぽっかりと埋められた黒い瞳の少女たちではなく、
厳しい表情の顎の尖った少年でもなく、目を惹かれたのは棺を運ぶ黒い葬送の群でした。
トーンの無い白と黒の影、人とその手に持った幡が平等にまっすぐで、棺の陰が土手の
線と平行に重なるようにすっきりと塗られ、きつい日射しと葬儀の極端な白黒が、真夏の
焦れた沈黙を一コマに閉じ込めている。藤崎竜は止める絵が上手いのだなと腑に落ちました。書き文字で「カオーン」と称された葬儀の鐘か何かの音が、夏の沈黙をいや増しています。

人口1300人程度の外場村にて、夏から晩秋にかけての4ヶ月に起こった奇妙な惨劇を描いた
「屍鬼(しき)」は、1000ページを越える小説をもとにジャンプスクエアにて連載されている
漫画です。小説では一人の主人公を追う形ではなく、複数の中核となる違った立場の人物
達をおいた上で多くの人々を彼らの周りに配置し、事件は村全体のものとして受け止めら
れるのですが、漫画ではもう少しスポットを中核となる登場人物たちに絞って、小説の
前半の大半を占める村内の関係性の説明はすぱっと省いています。

漫画家の「封神演義」を初めて手に取ったときは、奇抜なデザインにもかかわらず洗練さ
れた絵に釘付けになっているだけでしたが、徐々に話が佳境にかかるにつれ強くなる主人
公たちの真顔が、妙に重々しくて、笑顔もかんたんに受け取れきれない複雑さが現れてからは、
手に取り読みはするけれど、話に拒絶されている間隔は最後まで抜けませんでした。
その複雑さが、「屍鬼」の世界にはよくあっていると思います。追い詰められてゆく人々
の緊張感の昂ぶり方、それぞれの登場人物が抱える背景と関係性、恐怖の忍び寄り方を、
ほどよく按配する複雑な計算が、すっきりと漫画の流れで整理されているのは壮観です。
老婆やおっさんの死骸がやけにぬめっとしていてリアリティがあるのはご愛嬌。
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