えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

『桑いちご』 勝又進 1979年

2010年05月30日 | コラム
ほんとはこっそり一人でにまつきたかったです。
でも、一人でにまつくのにはあまりにも力のあるまんがでした。
何だこの人。

:ものが言えなくなる愛嬌
『桑いちご』 勝又進 1979 日本文藝社

 霧雨の降る神保町を傘なしでぶらついて驚いた。狭い店の本棚に薄紙で包まれた背表紙の、実のついた桑の枝をくわえる狸の邪気のなさに引かれて手に取る。ほどよく薄紙で光沢を抑えられた白地の背景に、木に腰掛けた女の子を、憎らしそうに、でも気になる目つきをした男の子が狸をお供に見上げている。女の子がたわめた枝と、腰掛けている枝から生えた枝のあいまに、『桑いちご』の赤い文字がぴったりとはめられていた。

 勝又進は2007年に亡くなっていた。63歳だった。この人がなくなったことに、いったい、誰が気を留めたのだろう。漫画のほかにも挿絵や紙芝居など、その絵はあちこちの本に散らばっている。ありふれていたものを、ありふれたままに描ける人だった。そして、彼の線には、今どの漫画家にも久しく見かけない体温のある空気が流れている。胸躍らせる弾みは無いが、ふとまたページをめくる手に気づけば水をうったように静かになってしまう。田舎の時間に包まれたときの、縁側で過ごす夕暮れの気配に似ている。作られる話の一つ一つを大切に作っていることがよくわかる、小説のような漫画だ。

 歌がいい。表題「桑いちご」の冒頭で「おいらはドラマー」を歌う男の子も、ごぜの三味線に「ハードッコイドッコイドッコイなッ」と合いの手を入れるおかっぱの少女(文字も絵もかわいい!!)も、いきなりぽんぽんと手を打ちはちまきにステテコで踊りだすおっさんも、みんな目を閉じて口を大きく開けて歯をちょっと見せて、作者の書き文字の歌詞に合わせて歌いだすのだが、これほど歌っている絵もまずない。なんだろうこの絵は。書き文字ごと歌がコマへと誘い出している。歌についていかざるをえない。つげ義春とか、水木しげるとかがむりやり絵に引きずり込もうとしているのに対して、まったく恣意のない素直な線は来たけりゃ来なよ、とただ歌うその様子だけを絵にしているだけなのだ。ほんとうになんだろう、この線は。(795文字)
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図書館のこと

2010年05月25日 | 雑記
改札を出て階段を左に曲がり、階段を下りたタクシーのたまり場を過ごして
呉服屋を左に曲がる。ゆるやかに右に曲がる、今思えばやっとわかるほどの坂を
おりてゆく。クリーニング屋を左手に過ぎ、駄菓子屋を右手に、桑の木の向かいが
えんじ色の煉瓦を積み重ねて作った図書館でした。図書館は、今も清流と小さな
お稲荷さんを抱えて元気にやっています。ただ桑の木と駄菓子屋と、それから
右に、たしかに右に曲がりながら図書館へ連れて行ってくれた道は、もうありません。

桑の木の後ろに広がっていた畑が駐車場になったころから、工事のロープが駐車場の
向こうに張り巡らされて、ロープはだんだんと桑の木を隠し、駄菓子屋が空き家になり
いつの間にかただの地面に変わると、ゆるやかな曲線は宅地の四角い地面に追い詰められて、
マスゲームのように角ばった道へと姿を変えてゆきました。駄菓子屋がなくなった頃から、
煉瓦をくりぬいて作ったような図書館に足を運ぶことはぐっと少なくなります。
もっとずっと本のある図書館がそばにあって、毎日そこに通って、夢中になっている
合間駅の向こうではショベルカーがどんどんと、壁の向こうにあった畑や八百屋や
古い家を掘り出して、空いた穴に別のぴんぴんに角の立った家を埋めてゆきました。
駅の向こうには小さなバス停ができました。バスがくるりと体を
変えられるよう、ぐいぐいと土を押しのけてアスファルトを並べ、銃弾の軌道のように
まっすぐな道路がバイパスから道の横っ腹を貫こうとしています。

呉服屋を左に曲がると、前からある工務店が一軒左手に立っています。
ものさしを並べてつくった道路は、どちらに曲がっても図書館へは遠い道です。
扇形の孤をてくてくと歩いていた記憶が邪魔をして、正方形の辺を歩かなければ
いけないたび、うっと胸が息苦しくなります。道が家にあわせた地面、家が道に
あわせた地図。また土に売約済みの立て札が増えました。

バイパスへ直通する道路はたくさんの車のために、ぐっと道が左右にひろげられて、
その分、家の影が遠くずれこみ、西日と空がかろうじて広々と両手を伸ばして、
見上げると画面の左右しか見ていなかった目が上下の動きを強いられて、まぶたの筋肉を
ふるわせながらも思い切り空を吸い込みました。
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じゃれあい風景

2010年05月18日 | 雑記
「じゃあ、『おまかせ』でやろうか」
そういって私たちはいっせいに画面のカーソルを右下の「おまかせ」という
ボタンに置いて、緑で五百円玉くらいのAボタンを右手の親指で押した。
ちょっとした時に弟から誘われてコントローラを握る「大乱闘スマッシュブラザーズ」も
いつのまにか三作目になっていた。

任天堂のゲームタイトルの主人公達がぼかすかと楽しくどつきあう対戦ゲームである。
相手をどついて、ダメージをためて、場外へふっとばせば勝ち。ルールはこれだけだ。
簡単だけど、対戦中にはアイテムがたくさん登場するわ、ステージのギミックがじゃまを
するわでなかなか気が抜けない。ふっとばされて戻ってきたその地点に爆弾があったり、
とどめを刺そうとかっこいい技を使ったら、画面がスクロールして取り残され、誰も
ふっとばせないままご臨終したりと、とにかく何が起こるかわからない。
だから、実力での差がつきにくい。

確かに上手い下手の差はあるけれど、ある程度慣れたプレイヤー同士ならアイテムや
ステージ次第であっさりと実力差が覆ってしまうこともあるのがこのゲーム一番の
魅力だと思う。コントローラを握っている最中は悲鳴やつっこみ、悪口の応酬になったり
もするが、決着がつけばすっとする。また次もやろう、という気になってしまう。
遊んでいるキャラクターたちも、どこか楽しげで遊びの余裕があるので、なんとなく
殺気の信管を抜かれてしまうのだ。

好きなキャラクターでひととおり遊び、飽きてきた頃で「おまかせ」でどつきあうのが
最近のきょうだいルールになっている。「おまかせ」とは、ステージやキャラクターの
選択をランダムに任せてしまうシステムで、これも「何が出るかわからない」楽しみが
あって、疲れてきた悲鳴がまた復活する。ぽんぽんと悪口も飛び出す。

コントローラをがちゃがちゃ言わせながら、ああこれは代理きょうだい喧嘩なんだな、
と思って弟のキャラクターを画面外に遠慮なくふっとばした。
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カルミナ・ブラーナ(デヴィッド・ビントレー振付)

2010年05月12日 | コラム
:カルミナ・ブラーナ 5月5日公演

―聴きこまれた振り付け

 音楽の区切りがそのままに肘の角度となって止まった。デヴィッド・ビントレーはたしかに拍を腕のひとふり、足のひとふりで捉えている。「カルミナ・ブラーナ」の冒頭、運命の女神は黒い布で目と胴体を覆ったきりの、裸の足で舞台を踏む。銅鑼が鳴る。静をこめた激しくしなやかな手首と肘のくびれが鋭く空を切り出した。音楽が徐々に運命の女神のやりくちを熱っぽく語りだすリズムに合わせてからだのあらゆる点線が五線譜の上を流れ続けていた。
 中世ヨーロッパの詩人達が書き記した詩を、1937年にカール・オルフが声楽とオーケストラを使い仕上げた物語が「カルミナ・ブラーナ」だ。聞きなれないラテン語の同じフレーズを繰り返すコーラスの合間にソリストの歌詞が埋め込まれ、気を緩めると冒頭と結末の絶唱に頭をがんがん揺らされただけで終ってしまう。その、埋め込まれた歌詞をもからだで丁寧に拾い上げることが、デヴィッド・ビントレーが振り付けに与えた役割のひとつなのかもしれない。歌詞を解し発音を噛み締めて、音をからだに合わせた精読の過程がまじめすぎるほど振り付けに落とし込まれているのだ。
夜の街を舞台に、だんだんと堕落してゆく神学生と彼を魅惑する女性のきわどい衣装、時に使われるギミックまでが、「カルミナ・ブラーナ」にしっかりとはめ込まれているので、与えられる驚きは実はすべて音楽の移り変わりの瞬間なのである。その分、踊り手のわずかな隙が極端な不協和音と違和感になって現れる。一列になって退場して行く女性たちの間隔のずれや、走り出した男性の背に現れる素が、いちいちに目だつのだ。踊りが指揮者のタクトと一体となっているいっぽうで、踊り手から拍がこぼれてゆくのは寂しい。
 それでも、ただ一人で舞台に立つ冒頭と最後の運命の女神が全てをもとの鞘に戻してくれる。人らしい曲線の動きを削ぎつつ、無機質にならない硬質な腕のくねりと、芯となる腰の固め方は完璧。

(798文字)
コメント (2)
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ふみ読むこと

2010年05月11日 | 雑記
いったい、読書とは一体どういう趣味なのでしょうか。果たして趣味と読んでもよいものなのでしょうか。

よくわからなくなったのは、配属されてすぐのことでした。とどのつまり、読書とは何らかの情報を得るツールに過ぎず、パソコンや新聞を読むことと同等の何か、情報をただ文から得るための手段ゆえにそれ自体を趣味とはみなさない、そう言われたのだと受け取りました。疑念はまだまだ続いています。

本とICTとが公然と、読書と言うことをめぐって見事な対立関係を作り上げ、「お金になる」との嗅覚に鋭い人が、本を読むことと関係なしに本の傍へともみ手をして擦り寄ってくる。読書が好きだというひとも、よくよくと話を聴いてみれば、それは書を読むことが好きなのではなく、話を辿りストーリーの転変で楽しむことが目当てであって、つまるところツールは何でもよいのだと、そんな風に見えるのです。

本が紙の本でなければ困る人はたくさんいます。便利と言われているものがなくたって楽しく暮らしている人は、今のところ、まだまだ大勢です。ふみ読む人はパソコンを開けば、膨大な文章や文字量が現れては消え、うたかたの文字をつづり続けている只中にさまようことは簡単になりました。さまようけれど、泡沫の文字は手にふれてもはじけて消えて行くばかりで、手をすりぬけて行き場の無いことばばかりが心に沈んでゆきます。

読書が趣味だと言うこと―それは本に触れること、紙のにおいを嗅ぎ新刊の鋭利なページの端で親指に血をにじませ、つるつるのカバーが少しずつ手の油と汗で反り返り、栞を捜しているうちにページを見失い、文字を辿り、本を閉じ、文字をさらに空中におう、一連の動き自体がなくてはならないものになっていることなのでしょうか。ただ文章の一言一句を噛んで味わい、つづる思想がたとえ情に転げすぎていても、舌先で弾むことばの美味さを味わうことでしょうか。

料理の机と皿が語る如く、読書もまたうつわをもってものを味わう、空を掴むような趣味ではないかと思います。
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ベータ版初さわり

2010年05月05日 | 雑記
Gooさんが、ブログのエディタというのでしょうか、入力画面のデザインを
最近変更するよー、という試験版をためしにつかってみているのですが、
「カテゴリ」と「ジャンル」の文字がちっさくなった以外はなかなかいいなあと
思うのです。

ただ、「カテゴリ」「ジャンル」の二つの文字がちっさい分タイトルが大きくて、
タイトルの真下に来ているこの二つをクリックするのがなんとなく面倒になったな、
というどうしょうもなく気分的な使いづらさがあります。

でも画像が画面の端に表示されるようになったのは、とってもよいなと思うのです。
字数のカウントもWordの数え方に近くなって、文字の分量も程よく考えられて、
こことは仲良くなれそうです。
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