えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:待ち望まれて 『九日~Nine Sols~』

2024年10月12日 | コラム
 来月十一月二六日にコンシューマー三種で『九日~Nine Sols~』の発売が決定した。喜ばしい。やっとこのゲームを周囲にプレイしてもらいやすくなった。本作の魅力については徒然の日記で語ったとおり、「いかにして「複雑なアクションゲームを遊ぶ楽しみ」をアドベンチャーゲームのユーザーに知ってもらうか」を中核に据えた親切な作りと、赤燭遊戯社の得意とする複雑な世界観と深い人物の描き込みの二本柱である。ストーリー作りとゲーム的な探索に応じて開示される情報量の加減の巧さは代表作『返校』と『還願』で鍛えられており、『返校』はスマートフォンでも遊ぶことが出来るため『九日~Nine Sols~』の前に赤燭遊戯社の雰囲気を知るため遊んでおくのも良いと思う。一九六〇年代の国民党による台湾への言論統制時代という歴史へ堂々と切り込む潔さと、題材に対する真摯な態度が当時高く評価され幅広くメディア展開も行われた『返校』は社会現象を起こすほどの影響を及ぼしたが、『九日~Nine Sols~』もその系譜は引き継いでいる。話を整理して少し考えるとどうもこれは現実のある社会問題を間接的に風刺しているのではないかと邪推するのは既にこの会社の魅力に私が取り込まれている証拠だろう。

 まったくの2Dアクションゲームの新作として、特に遊びやすいSwitchに来てくれたことがありがたい。PVを見ると一部の演出が修正されているものの細かい部分なのでストーリーの中核部分は修正されていないと信じたいが、それが修正されていても話の根幹が変わらなければ『九日~Nine Sols~』が私たちに与えてくれる面白さの質に変わりは無いだろう。アニメーションは私の並みのPCでも問題なく動き、微細な判定を要するアクションも違和感を覚えることなく進める事ができた。ゲーム専用機器ならばもっと繊細に、もっと緊密にアクションを凝縮して楽しむことができるのが少々羨ましいかもしれない。

 問題はストーリーを語る言葉の方で、しばらく遊んでいないうちにアップデートが行われ物語の根幹を成す「道/大道」という単語が一律で日本語版は「タオ」という単語に置き換わってしまったことは衝撃だった。道教の思想を世界観の根底に敷いているためにこの単語は最も繊細で重要な鍵を握る言葉なのだが、「道」だけでは道教の知識が無い人には単なる個人の思想に見えてしまいかねないので修正はやむなしかもしれないが、そこは「大道」などの単語で補足しても良かったのではないかと思う。また併せて装備の名前が例えば「尋敵刃」が「影討ちの刃」といった調子に変わってしまったことも少々残念だった。キャラクターの台詞もアップデートの度に微妙な追加や改変が施されており、注意深くなるのは仕方ないとはいえ日本語の場合は「わからなくても漢字のニュアンスで文脈を掴む」ことがやりやすいので、漢語を無闇に日本語の文法に置かなくても良かったように思う。だがそれを感じ取れるのは日本語ネイティブの感性にかかっているので難しいところだろう。来月末から一気にこの世界が日本へ広がることを切に願いたい。
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:約束の日の後

2024年09月28日 | コラム
 イヤリングを買う約束をして一週間の間に二本報を聞いた。動けなくなっていた。今も雨の重みと体調の都合もあって身体の動きは鈍重であり眠りたくて仕方が無い。眠りの中へ逃げ込みたいというよりはしがみつくように眠りを欲している。眠りに飢えている。それで一日文字通り寝込んでいた日があった。その次の日が約束の日で、あの店員の夏晴れのような笑顔に向き合わなければならなかった。事情を話す気にはなれなかった。外へ出なければ延々とまずいままだと悟り、私は出かけた。眠りの中を泳いでいるかのように現実は希薄だった。店員はいつもどおりの笑顔で、アクセサリーが売れるということもあってより嬉しそうに笑顔を輝かせながら私を迎えた。私も昨日そんな報を聞いたことも忘れて彼女のリードするままにお喋りを楽しんだ。楽しんだと思うが何を喋ったかは記憶から抜けている。疲れたという感覚は薄かった。母からは「そのチェーン、Tシャツには重すぎるね」とぼそりと言われたが、つけていくことを引き留めて外すまで出さないという過去の意地からは解放されていたのでふらりと出て行くことができたチェーンにイヤリングを合わせるとしっくり顔に収まった気がした。
 イヤリングを買って外に出る。晴れていた。会社の規則の休みは連休で潰れ明日からは何事もなかったかのように働かなければならない。誰でもそうだ。弟の会社はそうではないらしいが、私は有給休暇を使わなければならなくなった。また茫洋とした空気に取り囲まれて歩く。電車に乗る。最寄りの少し手前で下りてデパートに寄った。買わなければならないものがあった。
 インターネットで検索し、電話でも取り扱いを確認した店は黒一色の服を向かって右手に、華やかなパーティードレスを左手に置いていた。私は店に入ると小柄な店員へ自分のサイズに見合った黒い服を選ぶように頼み、試着に時間をかけて一時間ほど後に服を手にして店を出た。イヤリングの入った手提げが何故か余計に重かった。
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・異なもの縁なもの

2024年09月14日 | コラム
 足が遠ざかっていた店へ久しぶりに行く時に限って欲しいものがある。昔はついていると思っていたがこの頃は物に呼ばれているのではないかと思うようになった。
 用事の帰りに本屋へ立ち寄り、ついでに近くのアクセサリーショップへ足を運んだ。店の前を通り過ぎる度に気にかけながら思い切ってディスプレイの一番良い場所に飾られているアクセサリーの購入を切っ掛けに、嫌な予感は薄々覚えていたが案の定物と、何より懇切丁寧かつ情熱的にアクセサリーとファッションを語る店員に絡め取られるように惹かれて気がつくと「最近あの店に行っていないな」と思う程度には予定の一部として頭の隅に残る場所になってしまっていた。今日も今日とて本屋の帰り、好きな作家がわずかに寄稿していた高額なムック本を片手にぶら下げてアクセサリーショップを覗きに行った。左手には店で買ったバングルが、透明なスワロフスキーの粒に日光を受け止めて白色に光っている。
 店に入ると良く話す店員はカウンターの奥でおそらくパソコンだろうか視線を下に向け、わずかに眉間へ皺を寄せて何か作業に没頭していた。黒を基調とした服装の店員の多いこの店には珍しく灰色のジャケットとスカートの若い店員が他の客を相手をしている。声をかけるのも憚られたので私はショーケースに並べられたアクセサリーを端から眺めることにした。この店では輸入品を扱っており、定番として作られ続けている型も多いが、その年その時期だけ姿を現しては在庫がなくなると消える新作も多い。歴史の長いブランドなので復刻アクセサリーも数多い。値段は高騰した。特に原材料の貴金属の高騰が響いているとのことで、最近の新作は可能な限り貴金属の消費を抑えつつ豪奢な輝きを維持できるよう、唐草模様を組み合わせたようなすかし細工が目立っていた。ぼんやり円や鎖の連なりを眺めているともう一人の客が帰り若い店員がそれを見送っていた。彼女は客を見送ると私に笑顔を投げかけ、カウンターの奥へと滑り込む。いつもの店員がひまわりのような笑顔で現われた。
「お待たせしちゃってすみません」「いえお仕事のお邪魔をするわけにもいかないですし」「そんなことないですよ、どんどん声かけてください」「ありがとうございます」
 繊細な線を雫が連なる形に整形したイヤリングの似合う若い店員が笑顔で会釈して離れていった。
「今日はもう、いい新作を見せたくて見せたくて」「どんなものでしょうか」「絶対似合うと思って、早くいらっしゃらないかなあと思っていたんですよ」「確かにこれは素敵ですね」「でしょう、久しぶりに紹介したい新作が出たんですよ。最近はガーリーなデザインが増えた中では珍しくて」「言われてみればこのところは女の子らしいデザインが増えましたね。それにこの間来たときも確かに新作は紹介されませんでした」「そうなんですよ。私はお客様に似合うものしか紹介したくないんです。これは絶対お似合いになると思っていました」
 あえて艶を消した加工のおかげで金箔を貼ったチョコレートのような質感の、人差し指の第二関節ほどの大きさのイヤリングは店員の言うとおり私の肌合いや耳たぶの間隔を知っていたかのようにしっくりと嵌まった。
 それから2時間近くお喋りを楽しみながら購入を迷う流れは、多くの店で経験しながらいつまでも変わらない私の物欲のままに滔々と私の判断を狂わせていった。私に似合うという自分の眼識を確かめたい店員の率直な願いに引きずられたのかもしれない、と、黒のワンピースに首から提げたプラチナの鎖型の首飾りを着こなす店員の輝く明るさが眩しかった。
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:見ておくべきこと『九日~Nine Sols~』

2024年08月24日 | コラム
*作品のネタバレが記載されています。未プレイの方はご注意ください。

 発売から約三ヶ月が経過した『九日~Nine Sols~』には日本人プレイヤーはあまりおらず、やりこみ動画も専ら台湾のプレイヤーが多く投稿しており、私的な話題としても説明が何かとまだるっこしいので控えているものの、ひとつの上質な中編SF小説を読了したような感覚でゲームをプレイし続けている。
 本作はゲームとしては短めで、収集要素を無視して通常エンディングを見るだけならば慣れたプレイヤーならば数時間でクリア出来ると思う。実際自分自身二週目のプレイでは同じ条件を満たしながら一週目の半分ほどの時間でクリアすることができた。現在三週目をゆっくり読みながらプレイしている。

 赤燭遊戯社がヒットを飛ばした処女作『返校』はクリックアンドポイント式のゲームとしては簡潔な操作のアドベンチャーだが、叙情的な音楽や映画・演劇などの舞台の演出を意識した表現を使い「白色テロ」という台湾にとっては難しい時代を描いたシナリオが高く評価された一面がある。私も知人から勧められてプレイし、文章にすると冗長で薄口になりかねない微妙な感情の機微に唸らされた。同時にゲームが表現の方法のひとつであることを改めて教えられた感も覚えた。
その会社の三作目となる『九日~Nine Sols~』は静的で操作の少ない『返校』『還願』とは大きく方向性を変えたアクションゲームでありながら、ゲームは物語を語るための表現の一つである、という距離感は先の二作と変わらず、より多角的な表現とゲーム制作の技術を磨くための段階のように思える。なるべくシナリオの中核を語ることを避けてきた理由は本作がアクションゲームでありよりプレイヤーの操作がゲームの表現に直結するためだが、先述の通りストーリーの面白さが魅力に繋がっているゲーム会社のためそれを語らないまま面白さを表現することが難しい。

 まず主人公の羿はこの物語の全てを知っている。けれども同居している弟分にもプレイヤーにも彼が強行に赴く理由を語らず、プレイヤーは彼に語らせるために彼を捜査しなければならない。上手いと感じたのは羿が話の出し惜しみをせず、ステージを攻略すればそのステージやステージボスに相対して自分の意見や経緯をきちんと説明してくれるため、プレイヤーはストレスを考察の楽しみに転換して話を進める事が出来る点だ。彼が語らない場面も経過をきちんと追っているプレイヤーにはその理由が分かるように作られているので、プレイヤーと羿の意識にずれは少ない。たとえば弟分の「猿人」軒軒(けんけん)にアイテムのレシピ本を与えると料理を作るイベントが発生するが、一つだけ「材料が足りずに作れない料理がある」と言われる。羿はその材料を知っているが語らない。何故ならば「猿の戯れ」というその料理の足りない材料は「ハツ」つまり心臓であり、「猿」ということは・・・・・・と言った具合に、イベントやアイテム説明などから羿の思考とその変化をプレイヤーは読み取ることが出来る。文章で語るには冗漫になりすぎる部分を絵や音楽、そしてアクションで補いながら物語を読むという感覚が強い。

 方向性を急激に変えながらも得意部分をより進歩させ、アクションゲームとしては若干親切過ぎるかもしれないがその分丁寧に作られているということはここ数ヶ月何度も繰り返している評価だが、話という点に着目しながらプレイすると話を妨げないぎりぎりを見極めながらゲームが作られていくことが分かると思う。そんなややこしいことを考えずにプレイしてほしいというにはPCが必要というハードルがあるものの、出来ればコンシューマーに来てほしいゲームの一つでもある。誰かとこのゲームの話をしたいが為に機会があればこのゲームのことを書いている程度には好きなゲームになった。
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:射貫かれる太陽のもとへ『九日~Nine Sols~』

2024年07月27日 | コラム
*作品のネタバレが記載されています。未プレイの方はご注意ください。

『九日~Nine Sols~』をひと月かけて真エンディングまでクリアしたと書くとこのゲームの難易度が相当のものに見えてくるかもしれないが、それは単に私が毎日ゲームする時間が無いだけでゆっくりと進めたためである。ゲームの作りはアクションゲーム初心者でも順応できるよう丁寧に作られている。赤燭遊戯のヒット作であり処女作『返校』は2Dホラーアドベンチャーであり、複雑な操作を組み込まない代わりに演出や物語を徹底するという作りであるため、継続したファンにアクションゲームの経験が少ないことを考慮して『九日~Nine Sols~』には気配りが行き届いている。

たとえば複雑な操作がどうしても必要となる戦闘では、大半の状況で敵とは一対一で戦うことができる。ラスボスを含めた全ての敵には攻撃の前の予備行動が(時間はどんなに短くとも)存在するため、予備行動を見て次に自分が取るべき行動を選択することが出来る。もちろんゲームが進むにつれて敵の行動と行動の間隔は短くなり、素早い判断と操作が求められるが、どんな敵でも行動パターンが定められているのでゲームの肝である「弾き」を決めやすい。「弾き」とは敵の攻撃に遭わせてタイミング良く防御ボタンを押すことで、ダメージを受けずに防御することが出来る操作だ。この操作を軸にして主人公羿を動かしていくことが本作の基本的な操作である。ボスなど行動パターンが複雑だったり素早い敵は何度も死亡しながら覚えることになるものの。

他にも地味にありがたい点が全てのマップの全ての部屋に後から戻れることだ。もちろん一回で探索を完了してしまうに越したことはないが、集団の敵を対処しきれずあきらめた場所や、クリアを重視して先に進んでしまった場合でも、再度探索することができる。ありがちな「一度しか行けない場所のわかりづらい場所にアイテムを隠す」といったことはなく、一度しか行けない場所には一切アイテムが無いという徹底ぶりだ。一度行ったチェックポイントへ自由に移動できるツールも中盤で手に入り、なおかつこれを手に入れるタイミングでほとんどの技能が揃うので、これを手に入れてから探索し直してもよいし、限られたスキルで進めるだけ挑戦しても良い。探索すると手に入る宝を持ち帰ろうとした道中で予想だにしない強敵に出くわしてパアになるのはご愛敬だ。それも探索の楽しみである、というには少々辛いかもしれないが。

話が面白い。元ネタを崩さない神話の使い方が嬉しい。たとえば農園エリアを管轄する勾芒(こうぼう)というキャラクターの名前の元ネタが春の女神であったり、毒を渡すことで体力の最大値を上げてくれる神農は神話でも薬効や食用を見分けるために毒のある植物を食べている。あとから調べても面白く、元々知っていればにやりとさせられる。そして主人公の羿は太陽を射貫くのだ。
彼が太陽を射貫くのを見るためにはそこそこ複雑な条件を満たす必要があるが、探索を徹底して一見おまけのような要素も攻略していくタイプのプレイヤーならばあっさりと辿り着き、そしてやたら強いラスボスが中々クリアせずに悶絶するだろう。とはいえこれまでの敵と同様に行動パターンへ慣れてしまえば十分突破はできるので、焦らず気長に攻略すれば応えてくれるというゲームである。
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:赤色燈の映すもの『九日~Nine Sols~』

2024年07月13日 | コラム
*作品のネタバレが記載されています。未プレイの方はご注意ください。

台湾の赤燭遊戯(Red Candle Games)が2024年5月に発売した2Dアクションゲーム『九日~Nine Sols~』は、アドベンチャーゲームの前作『還願』と前々作『返校』から大きく方針を転換した意欲作だ。近現代社会から架空の宇宙世界へ舞台を移し、これまでの幽霊的な恐怖から一転して人造人間や機械、奇怪な生物が蠢くSFの世界の探索の楽しみが中核となった。中国神話「后羿射日」を元に主人公「羿(げい)」が神話そのままに「太陽」と呼ばれる支配者達を討ち取る冒険は、慣れてしまえば爽快な戦闘と共に楽しみながら徐々に明らかになる謎に胸をときめかせるある意味王道の作りだった。だが物語中盤のボス「蚨蝶(ふちょう)」のステージは別格である。
彼女のステージはこれまでのステージと異なり、精神世界を探索する物語だ。そのためこれまでのステージでは巨大な人工空間という舞台設定上出来なかった演出が許される、私が進んでいる時点では唯一のステージである。ここで二つのホラーゲームの演出が一気に解き放たれていった。

最初にプレイヤーが蚨蝶のもとを訪れると桃源郷のような桃色の雲たなびく温泉の前に半裸の艶めかしい蚨蝶が歌いながら座っている。留まるよう主人公に語りかける蚨蝶を無視して先へ進むと何故か元の場所に戻ってしまい、温泉にも湯治客が増えている。構わず先へ進むとまた元の場所へ戻されるが、道中に散らばるガラスの破片のような欠片に蚨蝶の姿が所々見え隠れする。この記憶を鏡やガラスのような透明な画面に映し出す演出は『返校』にも同じ場面があり、プレイヤーは進むにつれて彼女の記憶を掘り起こしていることが暗に匂わされているのだ。

そして記憶の採掘が深まるにつれて湯治客の表情は固まる。かっと見開かれた瞳は宙を見つめ、温泉を堪能していた口からは誰かを呪う言葉が吐き出されていく。ステージも最初は何もなかった桃色の空間へ、その裏へ隠されたものを剥がすような黒い光が差し込み、暗闇の世界と桃色の世界を行き来する複雑なアクションと共に鋭いトゲや武器を持った敵が現われるようになる。とうとう全ての湯治客が呪いの言葉を吐き出すようになると蚨蝶は正気とも更なる狂気とも感じられる表情でプレイヤーに、自分を痛めつけるよう懇願する。彼女は自分を罰することを望んでいるが、それを果たすために他人の手を必要としているのだった。桃源郷は失われて血の涙を流す湯治客こと、彼女と共に働いていた仲間達の影は彼女を責め立てて止まない。

プレイヤーが蚨蝶を痛めつけることで彼女の精神世界から解放されると、相方のコンピュータから蚨蝶本人は既に死亡しており、その肉体は失われていることが改めて告げられる。何らかの理由で死亡した彼女の死を惜しんだ何者かが、せめて意識だけは保たせるよう脳を巨大な機械に移植したらしい。けれどもプレイヤーが欲しい情報を蚨蝶の精神がアンロックしているため、プレイヤーは彼女の精神を「殺す」為に機械を通じて彼女の精神世界へ再度飛び込むのだ。この時表示される彼女の脳と、それを取り囲むように配置された大量の脳が痛々しい。その痛みを抱いたままプレイヤーはボス「蚨蝶」と戦わなければならない。

背景が素晴らしい。垂直に切れ目の入った彼女の後頭部を包み込むように、実験で死亡した彼女の仲間が指先から吊り下がる巨大な両手が門のように生えている。蝶が飾られた舞台の上に乗るプレイヤーと背中から蝶のような羽を生やした蚨蝶の対決が始まる。最初はこれまでのボスと同じようにボスの基本行動を教えてくれる練習段階だが、それを乗り越えた次の段階では後頭部の切れ目が開き、中から胎動する何かが垣間見えていく。三人に分身した蚨蝶の攻撃をいなすと幕が下り、もう一度開くと彼女の後頭部からは複数の目玉が嵌め込まれたような羽根を持つ巨大な蝶がリボンのように生まれて出てくる。悲鳴のような細い余韻を甘い声が延々と響かせるBGM「Smile at My Cursed Dream」も相まって、自由にステージを飛び回りながら蚨蝶の笑い声は泣いているかのような悲しみを湛えていく。精神世界の自由さを生かして彼女の記憶がプレイヤーに伝える物語は、先の二作の主人公達と同じ「罪悪感」であることがより切ない。

八人のプロジェクトメンバーを失い、さらに大勢の人が犠牲になることを知りながらプロジェクトの欠陥を表向き黙らざるを得なかった蚨蝶の罪悪感は彼女が死亡しても機械により終わらされることなく、数百年の時の中で自分を守るために蚨蝶は狂気へ陥った。誰かにその罪へ対する罰を与えてもらうことを望み続けていた。プレイヤーによって罪を痛みという罰で贖うことの出来た彼女は最後の最後で正気に戻り、穏やかに後を託して去って行く。
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:『オッペンハイマー』クリストファー・ノーラン監督 二〇二四年三月 日本公開

2024年06月22日 | コラム
 広島の原爆の被害者とオッペンハイマーの非公式の対面で通訳を務めた方の、当時のオッペンハイマーについて語られた映像が広島で見つかったために映画『オッペンハイマー』の解釈にはまた新しい考察が浮かんでは消えるのではないだろうか。原爆の被害者と対面したオッペンハイマーは滂沱たる涙を流し、「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と「ごめんなさい」を三回繰り返したとのことだった。通訳の方がオッペンハイマーの言葉として謝罪の日本語の中から「ごめんなさい」を選んだのは、あとから彼の涙を振り返っての心の混乱と表現を飾れないほど縁までいっぱいに迫り上がった感情を示しているようで、ふさわしいものだと思った。映画では時間の都合上オッペンハイマーの内心を強く描くまでは行われなかったが、この「ごめんなさい」の一言が、もし映画の撮影時にクリストファー・ノーランの耳に入っていたらなにがしかの影響は与えたと思う。映画のオッペンハイマーは人々から内心が分からず本音を掴めない、かといって掴み所はそれなりにあるややこしい人物として描かれてはいるが描写は淡く、彼自身というよりは原子爆弾を取り巻く時代背景を彼の口を通して語りかけているようだった。戦後の赤狩りに巻き込まれた失脚のための密室の尋問も、イギリスに留学して精神的に追い込まれた末に指導教師のおやつのリンゴに青酸カリを仕込む学生時代も、マンハッタン計画に参画してロスアラモスの巨大プロジェクトの責任者として働く戦中も、原子爆弾という理論が人間の手で現実に現われるまでを描いている。最初は特別な教育を受けた一部の人しか分からない文字列で表されていたものが、大学の一室で計器を使った観測に現われ、各国が競う中でいち早く世界に脅威を示すために場所と人員を集中的に集めた二年間で原子爆弾は形になり、そして日本へ投下されて数式は現実になった。おおぜいの学者がこのプロジェクトに関わる様が描かれてゆくが、オッペンハイマーがとくに取り上げられるのは計画の責任者というその立場ゆえである。原子爆弾を使用したという事実はその後のアメリカに取って有利なカードか不利なカードかわからない。いずれにしても当時の旧ソ連はアメリカが使うことを見越してしれっと自国で原子爆弾を完成させていたことはこの物語の裏拍として知るべき知識だと思う。なぜなら映画の最後にオッペンハイマーは「我々は世界を破壊した」と呟くが、それはアメリカだけではなく世界中の学者が世界を破壊したともいえることで、アメリカが最初の使用国にならなくてもいずれは原子爆弾の保持を各国は顕示したと考えれば、理論の時点で世界は破壊されていたのかもしれない。
 映画の中でも現実のエピソードとしてもオッペンハイマーは原爆の「結果」である広島の写真を直視できず目を背けていた。目を背けた彼が、死の一年前の1964年に「結果」そのものである被害者との面談に望み、「ごめんなさい」と繰り返した意識の変化は、彼の孫の精神に引き継がれていると思いたい。
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:『関心領域』マーティン・エイミス著 北田絵里子訳 早川書房 二〇二四年五月

2024年06月08日 | コラム
 一九四〇年頃、ドイツに占領されたポーランドの一角にはユダヤ人の収容施設と、収容所の職員の家族などが暮らす区画が設けられた。『関心領域』の原題はその区画を意味する言葉である。ドイツ将校、収容所所長、収容されたポーランド系ユダヤ人の三人が順番に自分のことを語る中で始めは薄らとしか見えなかったその場所が次第に色を帯び熱を抱いて、最初からそこに入れられている収容者を管理する側の将校と所長を死の臭いが絡め取っていく。将校は国と自分達が何をしているかを理解しながら他人事のようにそれを眺め、収容者は逃げ出すことも死を自ら選ぶことも許されず苦しみを慫慂と受け入れて人間らしさという砦をアイデンティティで守っていく。その合間で収容所の所長は「関心領域」の中では絶対的な権力者として振る舞いながら、彼の地位を簡単に揺るがせる上の階級の一挙一投足に怯えている。自分が絶対的に強い人間であることを他者の口から証明してもらうことで彼の自尊心は保たれ、つかの間怯えと不安を忘れることが出来る。相手が将校であろうと収容者であろうと妻子であろうと、彼には自分の地位を失う事への恐れから生まれる不安が執拗につきまとう。収容者への罪の意識などは欠片もない。自分の思い通りになる限りは妻子も可愛いと思う。いつ転地させられるか分からない将校など今握っている権力の前ではそう大したことはない。けれども不安である。物言わず常に望めば望んだだけの酔いを与えてくれる酒は信頼できる。戦況が変わるにつれて不安の強まる所長の姿が収容所の惨状と重なるように二人の目から観察されていく。所長の美しい妻にしか目をやらなかった将校も次第に劣勢となり所長の権力の寿命が具体的にわかるにつれて、所長に巻き込まれる形でそこに居る妻を本気で愛するようになってしまう。愛すれば愛するほど彼女を通して所長が見える。収容者は所長の不安定な気まぐれによる嗜虐的な命令を風のように聞き流し、収容所へ送られてきた同胞達と逮捕されていない妻へ思いを馳せる。終盤になるにつれて二人の目からも所長は孤立して、自分の大きな飾り物であった妻も波のように遠ざかり、自尊心を保たせてくれる他人がいなくなったところで語りをやめてしまう。彼ら三人の戦後は物語の最初からある程度仄めかされる流れの通り終わり、彼らのいた「領域」から皆離れてゆく。緻密な幕が下りた沈黙の後に読者が何を残すかを試されているような静けさは、もう一度物語の最初へと指を誘うのだ。
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:分かりやすさ

2024年05月25日 | コラム
 たまに遊びに行くゲームセンターへ行くと数ヶ月前に登場した景品がトリプルキャッチャーに並べられていた。サカバンバスピスの大きなぬいぐるみだった。確か去年の11月頃に登場した景品で、知人から一体4000円もかけて手に入れたという報告を受けていた。五百円五回の台だった。かつては五百円六回というサービスを知る身としては寂しいものを覚える。
 何はともあれ試してみると、キャッチのタイミングでボタンを押せばアームは閉じて持ち上げる力はあるものの、どんなに上手く持ち上げてもその場で落下する。この辺りは他のゲームセンターと同様の設定だが、落下後に弾む勢いをつけるために敷き詰められているビニールのボールの密度は床が見えるほどに薄く、高所から落ちてもなかなか弾まないように設定されていた。試すほどに現金が消えていく。ゲームに夢中になっていると財布の軽さに気がつかないところが恐ろしい。だが千五百円ほど入れたところでアームが急に気まぐれを起こし、景品をしっかりと持ち上げてそのまま落とさずに取り出し口まで運んでいった。通りすがりの三人連れが「おお」と声を上げる。確率機の存在は知っていたがここまであからさまな設定は初めて見た。
 大きな景品を置いてあるトリプルキャッチャーの殆どは確率機だと考えていた方が健全だと思う。確率機とは天井額を設定できる機械で、一定の額を投入することでアームの力を変動させることが出来る。言ってみればその額さえ分かれば簡単に取れるのだが、大抵は四千円代かそこらなので普通にセレクトショップなどで買った方が安上がりだ。このサカバンバスピスは景品としては時期的に古いのでおそらく放出台なのだろうと踏んでいたが、きっかり約二千円を取るまで取らせないという設定の緻密さがどこかさもしい。
 別の日にもう一度試して二千円を入れると運搬されてきたサカバンバスピスを受け取りながら、これは果たしてゲームなのか一律二千円のガシャポンなのかが分からなくなった。
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:『通り過ぎゆく者』『ステラ・マリス』コーマック・マッカーシー 黒原敏行訳 早川書房 二〇二四年三月

2024年05月11日 | コラム
 精神病患者のホスピス「ステラ・マリス」に自ら入院した妹は言う。

「わたしにわかるのはわたしは数字が好きということだけ。わたしは数字の形や色や匂いや味が好き。そしていろんなことについてほかの人が言うことを信じるのが好きじゃない。」

 十年後に人から追われる生活へと陥れられた兄は気付く。

「妹に話しかける習慣をニューオリンズにいるときに止していたのは気がつくとレストランでも路上でもそうしていたからだった。(中略)
 それから徐々にそういうことがなくなってきた。真実はわかっていた。自分は妹を喪いつつあるというのが真実だった。」

 コーマック・マッカーシーの絶筆となる『通り過ぎゆく者』と『ステラ・マリス』の二部作はどちらも対話が物語の中心となる。とくに『ステラ・マリス』は自発的にそこへ入院した妹と彼女の担当医との対話のみで全てが成り立ち、『通り過ぎゆく者』を読んだ後だと『ステラ・マリス』はひとつの本に収めるには長過ぎた一章では無いかという感慨を覚える。『通り過ぎゆく者』はサルベージダイバーとして働く兄の物語であり、『ステラ・マリス』はその兄の物語の冒頭を飾る妹の語りだ。妹は幼い頃から非現実的ながら立体的に彼女へ接する幻覚を見続けており、けれどもその世界に囚われる事無く現実と共存し続けている。『通り過ぎゆく者』でも妹と妄想の産物達の対話は兄の裏拍として働き、それと明らかに分かるように字体を変えて表現されている。この幻覚との対話は『ステラ・マリス』では描かれない一面だ。妹の死により消えたはずの幻覚は妹を思い続ける兄の前にいつしか登場し、兄は妹の代わりに幻覚へと話しかける。妹のものであるはずは無いのに幻覚は妹の前に現れた時のまま、兄と対話を続ける。

 対話により語られていくものを拾い集めるのは難しい。『通り過ぎゆく者』の原題『The Passenger』の本来の意味は「乗客」だが訳者の采配により日本語訳が『通り過ぎゆく者』とされたのは、主人公である兄がひとところに留まらず各地を「通り過ぎ」て行くためだ。沈没した飛行機を探索した時に兄は「乗客」の奇妙に気付くが、それを切っ掛けとして兄は何者かにより安定していた場を追われて旅立っていく。荷物をまとめて密やかに引っ越してもいつの間にか後を付けられて隠れ先は暴かれ、銀行は凍結されパスポートも使えなくなり共に仕事をした仲間は一人ずつ命をなくし、どこかへ行こうとする彼を妨害するかのように社会が彼をアメリカに囲い込む。けれども理由は明かされず、彼も戦おうとはせず、その場その場で出会う人たちと語り合いながら通り過ぎてしまうのだ。兄妹の父がオッペンハイマーの元で核開発に従事していた物理学者であり、兄妹もまた差はあれど物理学と数学を深く学び、その知識量に基づく対話も随所に見られるものの、それが兄の追われる理由であったり妹の精神の病の原因であったりとは直接的に指摘はされない。読者は兄妹それぞれの対話を読んでいくが、二人はどこかで読者に対して線を引いており容易には踏み込ませてくれない壁を感じる。句読点を意図的に省いた文章の語りはより一層それを強調させるように読者の呼吸を詰めながら二人を物語から逃すように動かし、私たちもまた読み終えることで生き延びた兄の通り過ぎた道のひとつとなるのかもしれない。
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