えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・孤独と笑顔

2022年07月23日 | コラム
 外の日差しのように笑顔が眩しくて目を細めそうになった。よく眠れておらず碌に家から出なかった横着が祟り全身くたびれた風情の自分の姿を鏡で見られない。いらしてくださったのですね、と声を掛けられるだけで、それがしょうばいのものであってもまだ実体のある人間として扱われていることを実感する。日が落ちるにつれて薄暗くなる家の中で会社から貸与された(支給と書くか貸与と書くかで会社と自分との関係をどう捉えているかがわかる)パソコンを開いて連日沈黙していると、口を開くことすら筋肉が嫌がって引きつる。今日の買い物もマスクの下で口の動きは隠されているものの、声はくぐもる。一方の店員はマスク越しでも声が晴れやかで、襟なしの黒いシャツに黒いジャケットで上半身を引き締めながら下半身は歩くとドレープが揺れる薄い生地のゆったりとしたズボンを履くという難しい組み合わせを着こなしていた。耳元には星の光のような透かし細工のイヤリングが鈴のように揺れてぶら下がり、首から胸にかけて太い金色の首飾りが豪奢に輝いている。黒と金色の組み合わせは合わせやすいだけに、自分が服やジュエリーから浮かないよう従えるのが難しいと思う。といったことを伝えると店員は嬉しそうに目を細めた。
 輸入品を扱うその店では来月以降から一気に三割から四割ほどの値上げを行い、値段の振れ幅は数千円から数万円と巷の値上げからは桁が違っている。だから今、駆け込みでお求めになられるお客様が増えていらっしゃるんですよ、ともう一人の男性の店員が言った。彼は店の商品を身につけていない。訊ねてはいないが男性ものの製品を見かけないこの店をなぜ彼が職場として選んだのかは気になるが、細工を凝らした品物を前に姿勢を崩さず敬意を払っているかのように佇んでいるので、少なくともここが大いに気に入った職場であることは間違いなさそうだ。二人共に休日構わず仕事を楽しんでいることがよくわかる。わかるだけに今自分がいる売り場の煌々とした白い明かりと、わだかまる家の暗がりへこれから戻らなければならない現実に気が重くなる。
 働くということをこの店に来るたびに自問自答する。金のために働くのは結局ことばを丸めても会社のために働いているということだ、自分を会社に売り渡すことで自分が得られるものは金だけでよいのか、と新人の時に訊ねた私の先輩は今はもう勤め先を離れている。
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:読書感『ギフテッド』鈴木涼美 文藝春秋 二〇二二年七月

2022年07月09日 | コラム
 ずっと張り詰めている。張り詰めた空間の中で細い弦が跳ねて立てる鋭い音へ耳を澄ませるように、読んでいかなければならない。張り詰めていながらどっしりと安定している。疳のきつさや神経質に飛びつかないように律している。体温はきっと低い。低いけれども触れると皮の下の血管の脈動を感じる。『ギフテッド』が一歩も引かずに歩かせる東京の新宿の地面は固い。だから主人公がヒールのある靴で歩くと音が立つ。その音は不規則な形を描いて規則正しく読者を先へ運んでいく。

 たとえば、鈴木涼美の水商売の経験があけすけに書かれているとか、男を挟んだ女同士の切った張ったを想像するとか、とにかく女のコを期待するだろう読者が勝手に登った梯子はきれいに外されて、かといって女が誰でも持っているそれなりの濃密さや引力のある母と娘という関係性の、とにかく泥沼を探そうとしても整頓されたことばの空間があるばかりだ。死んだ人間である「エリ」を除いて登場人物は名前で語られることはなく、主人公の二十代後半の女性の足取りに合わせて場面を演じてゆく。名前がない代わりに物腰や振る舞いがその人物を確実に規定する。観察眼が現実からもぎ取った新鮮な風景が息遣いの生暖かさを綺麗に映し出す。

「コンビニで氷結と淡麗と水を持てるだけ買ってから行った」
「金持ちなだけではなく幸福なことがわかる服を着ていた。」
「客の顔にお金以外のものを映したことはない。」

 こつんこつんと歯で氷を噛むようなことばの切れが味わい深い。施錠した自宅に帰る一連の動作を儀式のように耳で感じている主人公の聞く音は反復されるごとに読者の中へ少しずつなにかを落としていくような感触を遺して続いていく。胃の病気で余命幾許もない母を看取るために仕事を辞め、乾いた唇にリップクリームを塗り込むほど行き届いた気遣いを惜しまない主人公の素っ気ない掴みどころのなさへ、しがらみの深さが裏拍としてしがみついている。
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