えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

子規つづり:文からたどるもの

2010年04月30日 | 読書
 随筆ほど読みづらいものはない。

 随筆から人を読むことは至難の業だ。それは、そのときの書き手の心にもっとも寄るものを描いているゆえに、そのときが正直に出されていればいるほど、かえって作家の心からは遠ざかるものだからだ。何かまったく別のもの、小説だったり論考だったり思想だったりの方がわかりやすい。思いを凝らさず、頭をひねって組み立てていったものの隙間に、作品とはまったく関係の無い作家そのものが置き忘れてあることが、こうしたものにはままあるのだ。随筆には置忘れがない、というか、この置き忘れそのものをいかに書くか、ということが、随筆の元となっている。正岡子規は、置き忘れを忌むかのように物を書き尽くしていった人だ。

 明治三十五年の九月「病床六尺」の一本が載った二日後に逝った。一日たった数行でも書き続けた。視点の幅広さがかえって布団の狭さ、もっと資料を尽くし語ることを尽くし書きたかったろうことがぽろぽろとはみ出して、将来なりたいものを聞かれた子供のように弾んだ勢いがある。正岡子規の文は、ことば自体が木版のように刻まれている。そこには、そこに書かれている以上のことばがこっそりと割り込む余地もなく、動かす余裕もなかったのだろうが、動かすことは出来やしないのだ。水気が抜けた木材のように硬く軽い筆致に熱情はなく、たとえそれが病でのたうつ様を描いていたとしても、どこかさらっと乾いていて、余計な情は省かれている。だからこそ、文の合間に見える子規はいず、文そのものに正岡子規はいる。上気した頬の柳宗悦を見ていると、余計にそう思った。
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脱走記録

2010年04月22日 | 雑記
ついに……ついに「会社の」お泊り研修の魔の手が迫ってまいりました。
おそらくほぼ一日中の座学、たぶん居眠りの連発、研修中ひそかにつけられていた
「眠り姫」の二つ名再現。
海辺の風と寒気が眠りを覚ましてくれることを祈りつつ、初めて乗る列車旅に
行ってまいります。
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こわい書評

2010年04月20日 | 読書
二万五千冊の文字に惹かれてクリックした記事の、インタビューに答えている人の経歴に
ブログで書評をやっている、しかも書評がしごく有名で、出版社からも献本が多数、
ともあれ、書評と言うジャンルですごいことをやってるよーという人がいたのでちょっと
拝見してみた。

そんなに怖くはないなあ、と思った。

もちろん、読む量だって頭の回転だって半端ない人なのだ。一日に十冊は読むと言う。
文章の読み方も趣旨のとらえかたが上手いなあと思う。毎日のようにすじの通った文章を
書いている。回転が速い能力のすぐれた人だなあと思う。
ただ、一文を読む限りでは、自分がほんとうに好きで好きでたまらなく、しかも価値を
深く感じたものを感じたままに書くといった、決め球のような本はWebの書評で
見つけられなかったというか埋もれてしまって見つけるのに技術がいるというか。
ひとつの書評として文章として、読み応えがあってごちそうさまでした、という気分に
なるものはどこにもなかった。とどのつまりこの人にとって読書と書評は処理のひとつに
過ぎないのだろう。

だから狐さんの書評は怖い。怖くてなかなか読めない。文の端々まで気遣いのいきとどいた
洗練された文なのに、まったくくどくは無い。紹介する本も、埋もれだしたものを発掘した
泥臭さを見せびらかすような俗っぽさなんかなくて、新しい発見の喜びを一途に伝えて
くる選び方がなされている。何より読まれた本が狐さんの中にすべて残っている。読むほう
も、それがわかるから、狐さんの書評を読むと本を開きたくなるのだ。読むことと書くこと
が臓腑にしみわたっている人の書評は、どれを紐解いてもたった二ページの前にひれふした
くなる。というかひれふしている。

「書評を書こうとおもうと、感想文になってしまう」と言われたけれど、感想文でかまわな
いと思う。評なんてそうそうできない。格好つけて本の体裁を書いても、読んだ自分が意外
なほどに本に思い入れがないことがわかるばかりで、書くことをつなげることなんてできな
い。だから感想文だってかまわない。自分が思ったこと感じたことを書いて、本をどんどん
自分の血肉にしてゆけばいい。
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同居するひと

2010年04月17日 | コラム
同居人は今、隣で椅子に腰掛けている。かなり昔、友達から誕生日プレゼントにもらった
椅子は、角が擦り切れたりペンのしみがついていたりするけれども、足はがっちりしていて
揺らがないのが気に入ったようだ。肩から腰にかけてゆるやかな曲線で出来ている背中に
はまるよう、いちょうの葉に似たすぼまりが腰のあたりまで続く。腰掛けたあと、足を
広げやすくするためすえひろがりになった席が、同居人にはうまくはまるようだった。

一週間前、250円でひきとってからすぐこの椅子にすわり、そのまま坐り続けている。
煙がかった深い緑色は飽きない。つくりもののようにひきしまった硬さのある色だが、
外に出てくる緑色は表面に生えたわずかな白い和毛にはばまれて柔らかい。
とりあえず「カクさん」と名づけた。カクさんはくもひとでのように五指をもつトゲを
あちこちにはりめぐらせている。小指のつめくらいしかないトゲは横に広がっていて、
撫でやすそうだなあと指をつっこむと皮膚のすきまに針の先をひっかけて警告する。
あんまり触ってはほしくないらしい。

松葉色のこんにゃくゼリーを饅頭型につみかさねた、丸っこい形をしているくせに、
こんにゃくゼリーのヘソにはばっちりと針を生やしている。おまけにさっき眺めていたら、
ヘソのひとつに小さな小さな、消しカスくらいの子供がいた。子持ちなのも黙っていた
ところをみると、そこそこにちゃっかりしている。それでいて水をくれとも言わず、
ただ窓のそばを陣取って日に当たっていれば満足。ストイックなのかずうずうしいのか
よくわからない性格をしている。時々ゆすぶると、砂を針の間に引っ掛けてわずらわしそう
にじっとしている。

カクさんの住まいはコップで、親指と人差し指でつくった○くらいの大きさの植木鉢に
細かな石を敷き詰め、首から頭が出るくらい石で埋まっている。砂を半分ほど出して
しまえば4頭身くらいになるのにさっき気づいた。出してやろうかとも思ったけれど、
首まで埋まっているほうが愛嬌があるのでそのままにしておく。水色の椅子型ケータイ
ホルダーがお気に召したのか、コップの中で毎日ふんぞりかえっている。でも寒いと
緑が縮こまって灰色味が強くなる。はいはいと部屋の奥、タンスの上辺りに置いておくと
機嫌がよい。ひよこ用の電球でも買ってやろうかと思う。でもそれじゃあちょいと
日射しが弱いのだろう。なんてったって出自は砂漠だ。
緑といったら東洋文庫の背表紙くらいしかない本で乾いた私の部屋で、
カクさんは唯一の華やかな緑である。

追記:せっかくなのでカクさんの本名を調べてみた。「Coryphantha」という種類らしい。コリファンタと読む。いろんな種類に別れているが、詳細はどれだかわかっていない。
硬い炭酸飲料みたいで好かないので名前はカクさんに決定。
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史記つづり

2010年04月13日 | 読書
:史記世家 全三巻
:史記列伝 1~2 岩波文庫 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳

ここまで読んでからしまった!と思ったのは、岩波文庫版では「本紀」が出ていないので
王朝の流れや事件の流れが非常に断片的になってしまったことです。
いわずと知れた司馬遷によって、BC91年武帝のころ書かれた「史記」は、中国で初めて
紀伝体のスタイルをとった歴史書でした。
全ての出来事を年代別に記してゆく編年体の「春秋」がそれまでのスタンダードだったの
ですが、司馬遷はあえて個々の国や人間にスポットをあて、書き連ねてゆく紀伝体を選び
ました。そのおかげで、うっかりすると年代に埋もれてしまいそうな人、国、そうした
ものの誕生から終わりまでを私たちは濃密に読むことが出来るのです。

紀伝体はいくつかの章に分かれています。まず「本紀」があり、天文・歴史・作法などを
つづった「書」、そして「世家」「列伝」。他にもあるかもしれませんがまずはこれまで。
細かいところを知るには全て読むに限りますが、大本を押さえるには「本紀」に限ります。
なぜか。
それは、「本紀」には天下を治めた王朝の歴史が描かれるからです。
何より、天下を治めた天下人たちの伝奇がここにあるからです。武王、始皇帝、項羽、劉邦、
バトンを引き継ぐように変わる国と人の伝統の根幹は「本紀」に詰まっています。
まずは是を読まなくては始まらないのですが、それでも「列伝」に惹かれるのは司馬遷の筆致です。

彼の筆致は、列伝になると俄然精気を帯びます。
たとえば、第26巻の刺客列伝の、始皇帝を暗殺しようとした荊カ(くるまへん+可)が
暗殺に失敗し、兵に取り囲まれたときを司馬選はこう描きます。

「……荊カは成功できぬとさとり、柱によりかかってからからと笑い、両足をなげだして
 どっかとすわり、吐き捨てるように言った。」

原文は未読ですが、読点の打ち方にわずかながらリズムが残っていると思います。きっと
馬を走らせるように筆をたたきつけながら書き上げたのでしょう、動脈を切ったような
勢いほとばしる筆致です。
ただ出来事を描くだけならば、くやしがったり、笑ったりする描写はいりません。
竹の板を重ねることになっても、これだけの人の動きを司馬選は書きました。
「離騒」で知られる詩の名手屈原が、讒言にあい王の機嫌に触れ、僻地に流された時も
司馬遷の筆には墨以外の何かがのっています。

「屈原は長江の岸辺に来た。髪をふりみだして沼沢地をあるきつつ苦しみの声をもらし、
 顔色はやつれ、すがたも枯れたようになっていた。」

「髪をふりみだして」や「苦しみの声」、「あるきつつ」。諫言がききいれられず、
世の中、人を諦めきった屈原の気が狂いそうな悲しみと苦しみを、司馬遷はたしかに
感じ取っています。自身も讒言を受け、死刑とひきかえの宮刑――男性としての機能を
失う刑――の屈辱を舐めても「史記」を完成させるために生きている身と引き比べて
いる。だからこそか、司馬遷は成功してつつがなく生涯を送った人よりも、正義を貫こうと
世に問いかけて去っていった人々の苦しみを描く時に筆が冴えてゆくのかもしれません。

でも、単に自分の苦しみを文にこめるだけではひとりよがりです。司馬遷の文は、資料の
深い読解に裏打ちされているものだからこそ、さらりと描く苦しみが引き立つのだと
思います。
どういう経緯で、かれはこんな行動を取ったのか。どんなことばが、王にどう受け取られたのか、
歴史書としてこそ書き残しませんでしたが、司馬遷の描く人物の動き方や台詞回しは
そんな思考の積み重ねの一部に過ぎないのでしょう。

この辺、「漢書」と読み比べてみたいところです。

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「よろこぶ」ということ

2010年04月07日 | 雑記
ああそういえば「よかったということを見つける」と言っていたなと書きながら
思い出しました。今日は心の構え方を教えてくれる講演を聴く機会がありました。
そこで演壇に立ったグレーのスーツの女の人が、ちょっと外国人のようにところどころ
ひっかかる独特の発音で、男の人にはまねできない丸みを帯びた声音が落とし込むように
何度も何度もそうおっしゃっているのをぼんやりと聞いていました。

どうしてもテクニカルな話になりがちなのですが、やっぱりテクニックか、とも
つっけんどんにいえないのは、そうした一つ一つの話を講師の方はきちんと体験から
導き出していて、自ら悩んだ末に導き出していった行為であり方法なのですから、
裏づけのあるテクニックなのですね。心から同じ悩みを持つ人々のためにこの人は
説いてまわっている。ただ最後に「何を説いていたのか」と考えると、それがあっさりと
具体的な行為で表されてしまうそれだけなのが、妙に腑に落ちないのです。

よく考えてみれば、「よかったことを見つける」のには、自分の行為と向き合って一人
黙考することが求められます。これはりっぱな反省です。よくよく振り返る覚悟がないと、
毎日なんてとても続けられません。省みること自体はまったく腑に落ちることなのですが、
どうも妙だなあと感じるのは省みたあとの心の行き先なのです。

「よかったことを見つけ」ます。そこで現れるのは起きたことを喜ぶ心です。喜ぶとは
どういうことでしょうか。自分にとって好ましいと思うことで、物事を受け止めやすく
することでしょうか。うれしい、と思うだけなのでしょうか。日々是好日、とさらりと
言ってしまってよいのでしょうか。ここまで言うともう一歩踏み出せないでしょうか。
手を合わせて、「ありがたや」のひとことです。ここがひそかな背景にあるのでは
ないかと思うのです。感謝の情。ただその感謝を誰に向ければよいものか、それを
はっきりと示してやらない点――むしろ「自分」なのかもしれないですが――、同じく
省みることを求める説教とは異なるのではないかと思います。

柳宗悦の「妙好人評論集」をひもとけばこの言葉が身体になったような人ばかりが
現れてきます。南無阿弥陀仏の六字を唱える。心ゆたかに仏さまの教えを味わっている。
教えに埋没することなく、自ら省みることを常に覚えながら、罪深い自分をすら
みつめて拾い上げてくれる手があることを感謝して生きている。暮しそのものを受け止める
暖かいが真摯な姿勢、手を合わせて目を閉じて、背中を丸めてお題目を唱える沈黙が
私は好きです。

そうした受けとめ先を抜きに、まず省みることを示す「よかったことを見つける」講師の
ことばは面白いなあと思います。今の語り部は仕事の中から生まれてくることが面白い。
だれが語ろうと、行き着く先は、そこに仏がいようといまいと、同じなのではないでしょう
か。どんなことばでも巡って自分の中にいるのならば、そこに自分がいようと誰がいよう
と、日々を善しとして暮らしてゆければなにより。
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:「AGHARTA」1~8 松本嵩春 

2010年04月06日 | 読書
ぴんとくる漫画や本が来なくてちょっと迷い中です。


:時々こういう漫画がある。
中身を読み込もうとしても、するっと絵が流れていってしまって、何か言いたげなのだが、
その実、何を語りたいかすら流されてしまっているようなものがある。
現在もヤングジャンプで連載の続く「AGHARTA」はややこしい。

どこかの未来のような都市を舞台に、純水がなければ生きられない繊細さと、
両手両足を鎖でつながれながらも大の大人をあっさり片付ける強靭さを併せ持つ少女
RAEL(リエル)と、暴走を続ける彼女の心の支えとなる少年ジュジュ。
少女と少年のつながりを軸に進む話は、織り込まれる要素の多さが絵もことばにも
組み込まれすぎて、巻を進めるごとに新しい話が出てくる。混乱するのは、伏線の
回収がその間殆どなされていないせいだろう。

読み勧められるほど話が極端に魅力的かというとそうでもないが、
絵に溢れる空疎な雰囲気と危うさが独特の引力を持っている。そこまでなのだが。
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