えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

『戦国無双3』お話とゲーム性の考えごと

2010年03月25日 | 雑記
二ヶ月ほっぽらかした文章に一旦ケリをつけました。
微妙な文でお目汚し。


 ほんとうは、批評と言うものは、ものの一面を新しく開くものだ。ものの選択を増やしてあげるためのことばであり文章なのだ。だからこのゲームについて私のことばがものをいうのは、ここまでにしておこうと思う。

『戦国無双』シリーズには戦場に「ミッション」という要素が用意されている。本筋のクリア条件とは異なる戦功目標で、条件を満たすと何らかの効果が現れる。もちろん、ミッションをクリアしなくともゲームをクリアすることは可能だ。このゲームの場合、ミッションにはゲーム上でのクリア要素のほかに、発生させることでシナリオの詳細を補完する役割があった。主なゲームモードである「無双モード」では、戦場に向かう前にムービーやナレーションによって状況の大枠が説明され、キャラクターとの邂逅やイベントはプレイする戦場で行われるという構造で話が進んでゆく。単に戦場で敵キャラクターと邂逅するだけではなく、ミッションによる邂逅の意味づけがゲームとしても行われることで、プレイヤーは条件をクリアしつつストーリーにより近づくことが出来たのだ。

 たとえば以前の文で触れた織田信長の妻・濃姫の場合、シリーズ一作目の「戦国無双」では夫に付き従うシナリオと夫と戦うシナリオの二種類が用意されている。分岐は「姉川の戦い」ステージでのミッション「涙と革命」の成否で決まり、選択はプレイヤーに一任。このミッションでは、敵として信長の妹・お市の方が登場するが、彼女を撃破するかしないかが成否の鍵であり、同時に、互いに妻としてどんな生き方を取るかを濃姫はお市を通して選択する、という大枠の筋書きでは語られないストーリーがここでプレイヤーに提示される構成がゲームとして表されているのだ。そして、ゲーム中の選択がシナリオそのものの分岐に関わることで、ミッションはお話の単なる一要素としてではなく、プレイヤー自身が話の道筋を決めてゆくという点において主体的になれるものだった。
 
 いっぽうで二作目以降は、キャラクターが増加したこともありシナリオ分岐は廃止され、さらにミッションの固有名詞が消えた。ここで注意したいのは、固有名詞が消えたことでミッションひとつひとつの意義が薄くなり、ゲームとしてはミッションそのものが話から外れるという点でストイックになったといえよう。前作では達成度の要素の一つだったミッションに縛られることなく、戦場の自由度が上がった。ゲームが直接話に響くことはなくなったものの、キャラクターにそぐった話をしっかり作り上げた上でゲームが動くよう配慮されているため、前作よりも遊びやすい。本作もミッション自体の条件や位置づけは二作目とほぼ同様である。だが、ひとつだけ前作との遊び心地が明らかに違うことがある。
 
 それは、ミッションを達成しなかった場合のペナルティがかなり厳しいことだ。

 本作ではほとんどのミッションがステージクリアの条件と結びついている。ミッションをクリアするたびに味方の進軍や敵の進軍が変化することは以前と同様だが、今回は味方の軍が敵に突撃する頻度が多く、ミッションを放置すると大事な味方がたちまちやられてしまい、難易度が易しくて自分がやられていないのに勝手にゲームオーバーになることがままある。また、軍団の「士気ゲージ」がゲームから消えたことも味方の敗走しやすさに影響していると考えられる。「士気」とは「やる気」と思ってもらえばよく、ゲージの多寡で所属チームの兵士が強化/弱体化するというシステムだ。士気はプレイヤーや味方が一定の人数の敵をやっつけることで上昇するので、ピンチの時でも大活躍すれば味方の生存もなんとかなるという効果があった。これが本作では失われたことで味方の生存率が下がり、ミッションをクリアすることの必然性が増したのではないだろうか。

 ミッションについて、ざっと印象をまとめるとこんな感じになる。

    ミッション名の有無    ストーリーとの関連性    ペナルティの難度

一作目    あり           高い            低い
二作目    なし           中間            低い
本作     なし           低い            高い

 あくまでも個人の印象であることは了承して欲しい。本作でもミッションがまったくストーリーに関連していないことはなく、邂逅することで武将同士のやり取りが発生し、話の細部が語られると言う構成は変わらない。ただ、過去作と比べると、ゲームを遊んでいる最中の関心が、話を追いかけることよりゲームをクリアするほうに比重が傾いていると考えられるのだ。いっぽうで、各キャラクターのしっぽりした関係性は過剰ともいえるほどきれいな映像で語られる。それでいてミッションをクリアしてもお話はあまり語られず、むしろミッションとは直接関係の無いところで、関連の深い武将が援軍として登場したりするので、ミッションはゲームのさなかクリアするためのただの「壁」となっていないだろうか。また、今回は「武将効果」と呼ばれる、特定の武将をある条件――コンボ200以上や体力MAXなど――でやっつけるとアイテムがもらえるという「ミッション」が存在しており、こっちはシナリオとは全く関係ない。「敵の防御ダウン」とか一見嬉しいおまけかも知れない。だが彼の設置されているステージにはたいがい「強い武将の○○を××分以内に倒せ!」というミッションが存在する。アイテムの制限やらいろんな制限が、こいつをテクニカルに撃破することをプレイヤーに義務付ける。話は頭から吹っ飛ぶ。

 そんな面倒なことを考えず、味方がやられないうちに全員撃破すればいいじゃない、という考え方もある。だがその遊び方ならば、もっと他にも安価に楽しめるゲームはたくさん存在すると思う。『戦国無双』ならではの話と遊び方を楽しみに、プレイヤーはコントローラを握るのだ。本作をプレイする中どうしても、話においても遊び方においての作り手から押し付けられた窮屈な感覚が、最後まで取れなかった。ゲームのルールの制限はプレイヤーの意欲を掻き立てるものであって、お話の飾りではない。楽しく遊んで、次の挑戦への意欲を残して終る、そんな遊び方を長く続けられるようなものを遊びたいと思う。
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あぐねる

2010年03月22日 | 雑記
3月は不安な月です。
一年としては始まったばかりなのに、一年に終わりが二回もあるせいか、
その終わりのひとつだからなのか、芽吹く花もいっこうに嬉しくならず、
かえって散りかけのその頃に新しい年の訪れを感じるのは皮肉な喜びだと思います。

歩いた靴先に当たった、つぼみのついた桜の枝が重そうに膨らんでいるのを拾うと、
赤茶色のがくからぷっくりふくらんだ若草色のつぼみの奥に埋まる桜色が見え隠れ
します。どうということはないのですが、昨日の突風に吹かれたあと、朝のしばらくだけ
まっさおな空を見上げることなしに落ちてしまったつぼみが寂しくなり生けておきました。

ふくれにふくれたつぼみの開くきっかけは、つぼみがよくわかっているはずなのに、
わかっていることを聞き取れないままおろおろして取る「とりあえず」の好意は、
往々にしてまちがっていることが多いものです。

:過ごしたけれど描ききれないものもの

・美しき挑発 レンピッカ展 「ピンクの服を着たコゼット」
・長谷川等伯展 「松林屏風図」
・日本民藝館 「編み・組みの手技」
・柳宗悦 「妙好人論集」
・浦澤直樹 「Pluto」
・美の巨人たち ヴィルヘルム・ハンマースホイ
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梅の花薫れ

2010年03月15日 | 雑記
吉野梅郷

日向和田の駅を降りるとはじめて、今年の梅がかおった。春の空はすっきりとは晴れてくれない。遠景は粒の細かいおしろいを、わずかにつけてはたいたように白くかすんでいる。道路をのったりと埋める車から目を上げてみると、駅のちょうど向かい側の山の中腹が、白と薄く削った赤のパステルをさっと掃いておいたように盛り上がっていた。吉野梅郷は麗らかな花の盛りを迎えていた。

今年の冬は日射しがあたたかく、家の周りでは日当たりと温度にしっぽりつつまれた気の早い梅が昨年の大晦日にはほころびはじめていた。それも、一月の寒さで落ち着いたかと思いきやの青天続きに、一月の晦日には既に6部咲きの様相を呈していて、冬の空気に髪の芯まで冷たくされながら見上げた枝には濃い桃色の紅梅と、レンガ色のがくをお尻に敷いた白梅が嬉しそうに咲いていた。鼻を近づけると鼻腔の奥でかすかに花のかおりを感じたが、かつて嗅いでいた生花特有のみずみずしい梅のかおりはしなかった。整理された宅地とひきかえに斬られた、子供の私の腕が回りきらないほど太く、かおりの強い堂々とした白梅の跡にいまは、若々しくひきしまった細身の白梅とさんご色をした八重の梅がうきうきと咲いている。なんとなく、「いまどきの」とつけたくなるカップルのようでわずらわしい。夜に脇をすぎてもかおらない梅。

お祭りに騒ぐ梅郷の道路を、駅からまっすぐに歩いて小高い山へ向かう。風を防ぐ林を残してくりぬいた谷あいの坂一面が、青梅市自慢の梅の公園だ。青梅中の春を寄せ集めて山にぎゅうと押し込んだ梅の塊だ。出迎える蝋梅の、水仙と沈丁花を混ぜてミネラルウォーターで薄めたようなさわやかなかおりを通り過ぎると、金色のさんしゅゆがたんぽぽを煮詰めたような黄色のつぶつぶをさりげなく、でもほこらしげに空へさし出している。坂をゆるゆる上ってゆくたびに梅が挨拶をする。鴛鴦、鶯宿梅(おうしゅくばい)、八重旭、酔心梅(すいしんばい)、書屋の蝶と、名前だけでもしとやかな春が目の前で思い切り枝を伸ばして花ひらいている。その開いたひとつひとつが一面の空気に漂っている。どこで息をしても梅がかおらない時が無い。それでいて、梅のかおりは息苦しいということがない。枝ぶり、花、かおりのすべてが調和していて、どれかが極端にきわだつということがないのだ。

中での気に入りが二本。ひとつは白梅、ひとつは紅梅。
林ぞいの、頂上へ向かう道の途中に植わる白梅「月影」は、その名も青梅という地名にもぴったりとそぐった梅だ。日に透かすとほのかな緑が花びらに透け、空色とも若草色ともなんともいえないみどりの影が白にさす。月影は蒼い白梅なのだ。
花を支えるがくが草色というそれだけで、他の梅には無い青の影が「月の影」の名にふさわしく、夜空をこうこうと照らす冴えた月光に似て涼やかな顔を見せている。
もう一つの「朱鷺の舞」は、東側の斜面を見下ろすあずまやの傍にいる。青梅市生まれの八重の紅梅は、おくゆかしく花びらを重ねた底に朱鷺色の鮮やかな紅を流し込んで、小さな牡丹を枝に咲かせている。朱鷺が一羽静かに羽を広げて飛ぶ瞬間の羽毛のさざめきのように静かでおとなしい舞だが、この梅は愛らしく咲く。

色の薄い梅を楽しんだ後は、紅梅の「紅」にふさわしい濃さの紅梅たちを近くで眺めるとよい。たぶん、山から下りれば盆栽でしか目にすることのない、家の近くで見ていたあのピンクは「紅梅じゃない!!」と叫びたくなるほどあでやかな紅梅たちが、惜しげもなく何本も何本も山を彩ってしゃんと咲いている。観てやって欲しい。これほどの紅色が空に向かっているすがすがしさはそうそうに無い。

全ての梅がめいっぱい咲くこの一瞬、青梅の春をもらって今年の春が始まる。
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:「ナンセンスギャグ漫画集 珍・妙の巻」 諸星大二郎

2010年03月11日 | 読書
吉田日出子の歌に酔っている間、「なおざりダンジョン」(こやま基夫)の新刊と
諸星大二郎の新刊が同時に出るとは思わなかったです。
しかも今回はナンセンスものに絞った選集で。
今回は雑誌が見つからなくて読めなかったり(「蒼ざめた機械」「星に願いを」など)、
別の本に掲載されている都合(「猫本」「猫本2」とか)でばらばらに収録されていた
昨今のまんがを一冊に収録した作品です。もちろん、昨年3月に雑誌「ユリイカ」にて収録
された雑誌投稿初受賞作「硬貨を入れてからボタンを押してください」も写植を貼られてば
っちり収録されています。

今回の収録は70年代から80年代にかけて集中的に描かれたものを中心にナンセンスのひとく
くりをされていますが、だいたいのお話の「のり」というか、諸星大二郎という漫画家の
特徴的な濃い線がコミカルなタッチで抑えられている分、プロットの作り方に集中して
読むことができるという点が特徴です。たとえば「妙」に収録されている「禍れんだあ!」
という短編では、カレンダーといっしょにうっかり壁紙まではがしてしまい、モノが雪崩れて
すっかりぐちゃぐちゃになったところで心配した下宿の人々が押しかけてくる。
カレンダーをはがしそこねたと言いかねてウソをついてしまう主人公だが、そのウソが
現実になってしまい…と文章にすると味気ないのですが、諸星大二郎はいともあっさりと
ぐちゃぐちゃになった部屋と下宿とトラブルをひとまとめにして7ページに納めています。

以前、「栞と紙魚子」がドラマになった際の本人のインタビューに、のほほんとした
自侭なテンポで答えていた口調そのままを漫画にしたような、知らん顔で人を食ったような
間の外し方が多くの漫画のオチにあらわれているのです。
おーざっぱにオチをつけたのだろうなーという作品もなきにしもあらずなのですが、
そこはまたご愛嬌。というかご愛嬌が7割。いいんです、読めれば。

次はSFか「幽」の選集が出てくれると嬉しいです。
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後夜祭:再開のうた

2010年03月02日 | 雑記
観はじめてから、ロビーでの拍手まで、胸にずっと何かが燠火のように
残り続けています。

それがなんなのかは、残念ながら、うまくことばにできないのですが、いい夢をみたあと、
目が覚めて夢の外にいることを感じていながらも、夢の残した香りがまだ消えずに
漂っている、離れてもなお余計にきつく香るにおいに酔っている、といった感じです。

たいがい好きで好きでしょうがないか、よかった、と思えば思うほど、ことばがなくなります。


大森博史も小日向文世も串田和美も吉田日出子も笹野高史も、みんなみんなとにかく素敵でした。
笹野高史はバンドマスターとして指揮を振るう手が何よりも格好良かったです。
串田和美は楽器を持っていないとき、一人になったときに舞台に重みを与えてくれました。
大森博史の立ち姿は真摯で心をひかれます。
小日向文世、素直になれない男の意地と見栄がよいです。
楽器を手にした後の誰もが、そのままの自分で吹いていた音楽の勢いはすばらしかった。

そして、吉田日出子の声はやっぱり、芝居全体の脊髄となって流れていました。
彼女の声があってこそ、この劇をもう一度やろうと言ってやれたのだと思います。
からだが衰え、音こそ低めでしたが、悲しいことも辛いことも受け入れてくれるような
やさしさがあるくせにどこか距離を置くような色っぽさは、戦争に巻き込まれた人々を
描いたある部分では重々しい舞台を包み込んでいました。

ああこの声に惹かれて私はあそこに行ったのだ、上海バンスキングに行ったのだ!
観れてほんとうにほんとうによかったです。

観劇を共にしてくれた友達、吉田日出子の歌を教えてくれた叔父、
何より吉田日出子が好きだった祖父に、今日はありがとうございました。
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祭りの七日:いとしみあった 人々のために

2010年03月01日 | 雑記
あの時あなた 来てました……
だから声、かけて あげましょね

「上海バンスキング」の冒頭は軽快ならっぱと弾むベースで始まる。
たん、たん、たん、と音がステップを踏むように上がる。
華やかな舞台のように踊りだした演奏はそれが当然であるかのように、
吉田日出子の声に主旋律への道を譲った。

ウェルカム上海 ウェルカム上海
朝には消える 思い出の上海

恋は燃え 愛のときめき
冒険も また熱い涙

ああ……夢が 多すぎる

苦い 葉巻の 煙のように 
幻の ウィ・マダム 懐かしき上海!!!

結婚式の花束のように、いとおしみながらも明るく放り投げられた声を
観客は拍手とともに受け止める。吉田日出子が一礼して去ると、
またらっぱがぶかぶかと足踏みをはじめた。

いつかあなた 来るでしょう
だから声 かけて あげましょね

ウェルカム上海 ウェルカム上海
いつか見たような 忘れた上海

愛は消え 血は凍り
躍る心も過ぎたとき

ああ……夢が 多すぎる

どこか遠くを見つめるように息がそっと吐かれる。ほんの少ししめっぽい吐息を
振り払って、ベースがずかずかと歩いてくる。

苦い 夜明けの 朝もやのように
幻の ウィ・ムシュー! 懐かしき上海!

最後にカーテンコールの大きな一礼をして、歌はいさぎよく曲から去ってゆく。
深呼吸して最後の一息をらっぱがベースが吐いて、曲が終わる。
はじまりのこの曲は、どこも同じだ。

明日は舞台を観に行く。

とりあえず明日は、吉田日出子の舞台を見ることなく彼女の曲が好きだった
祖父に感謝して行きたい。

――愛(いと)しみあった人々のために、
  見知らぬ人々のために、
  よみがえれ!「上海バンスキング」
 (串田和美)
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