えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

夢のおわり

2009年11月25日 | 雑記
空を飛んでいい気分の時もあれば、ふっと地面に落ちて落ち続ける、
落ちたら冷たい床の上だった夢を見ることもあるかと思います。
ディズニーシーのタワーオブテラーにしろ、損保ジャパンビルの
くだりのエレベーターにしろ、落ちてゆく身体が重力につつまれて
ぎゅうと押される。押されていいのはあんまの指圧くらいです。

話がちょっとずれましたが、夢の世界を舞台にしたゲーム
「Nights」は、つばさや乗り物がなくても自在に浮かんで、空を飛ぶ
ゲームです。製作はソニックチーム、音速で走る青いハリネズミ
「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」を生み出したチームです。
セガサターンで最初登場したのは13年前になるでしょうか。
それだけ前に生み出されて続編も出ていないのに、ファンの気持ちを
がっちり11年間も掴み続けた作品です。

とにかく空が飛べる。大空を自在に駆けまわる。
そんなゲームにあってはならないものがありました。

落下アウトです。

「マリオ」や「ソニック」に代表されるように、アクションゲームならば
地面の穴や足場のない高所から落ちるとゲームオーバー、というルールが
あります。いっぽう「Nights」は基本的に飛びっぱなしなゲームです。
水に潜ってもへいちゃらで、高いところから落ちてもふわふわ浮いて、
また好きに空をひゅーんと飛べる感覚をコントローラ越しに味あわせてくれる、
そんなゲームに落下の影がこっそりと滑り込んでいました。

2007年の「Nights」には、主人公の少年少女たちを操作する専用ステージが
用意されていました。男の子のステージを遊んでいた時のことです。
高層ビルのネオン街を舞台に、立体的に街を抜けてゆくその街路は摩天楼でした。
下は真っ暗な闇です。しかも離れたところにあるスイッチは、飛び道具をジャンプ
して投げないと届かない。
ジャンプの目測を誤った少年は、柵を飛び越えて夜の街に墜落してゆきました。

普通のアクションゲームならば、単に落っこちアウトがあっても笑い事で
済まされますが、このゲーム、実は「落ちる」ということが最後の最後で
非常に大切な演出に組み込まれており、そこからラストのコースに向う
まっすぐな爽やかさがほんとうにどきどきするのです。
だからこそ「落ちる」ということは最後の最後まで取っておいて欲しかった。
ゲームとしてはたいへん楽しめたのですが、前作の魅力であった物語の深みが、
こういうところからほつれてゆくのは寂しいものだと思います。
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よくわからないままに

2009年11月23日 | 雑記
気づくと一週間過ぎていました。
「過ぎた」の前にはかならず「一週間」とつくのが定例に
なりそうです。


・ベルギー近代絵画のあゆみ (損保ジャパン東郷青児美術館)
・特別展 根来 (大倉集古館)

など見に行ってまいりました。
大倉集古館はホテルオークラにはさまれた六本木の、大使館の並ぶ
一角にあります。異相です。中国風の石の大柱に支えられた門には
仁王像が並び、脇に達磨大師と鐘楼が控えめに坐っておりました。

根来は漆器の一派です。紀州の根来寺で生産された、朱色の漆器を
特にそう呼びます。
漆を何度もかけて磨き上げることで、朱塗りのおわんというものは
出来上がります。

茶入「薬壺(やっこ)」の、柿のような胴体の丸みがよいです。
手で何度も触れられたのか、ふちやフタなどのでっぱったところの
朱がへずれていました。

使われていたことは、ものとして大きなことだと思います。
手を経て残ったものの数の多さとそれに連なる人の数、
数でくくればひとくくりですが、こうしてガラスケースの中にあるということは、
いったんモノとして何かを終えてしまった、あるいは終らせてしまった、
ということなのでしょうか。

美術館にはモノの最後のためいきの気配がします。
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夢のまにまに

2009年11月15日 | 雑記
昨日久々にWiiのコントローラを握りました。弟がやりたい、と言い出し弾みがついて、
「Nights~星降る夜の物語~」をプレイしたのですが、発売されてすぐ買ったにも
かかわらずなかなか遊ばないまま時間が過ぎてゆきました。10年前に発売、機種は
セガサターンの前作をまだ遊んでいたせいかどうも新作に馴染めず、置きっぱなしの
まま時間が過ぎてゆきました。画が綺麗すぎたからかもしれませんが、起動した
画面で踊る「ナイツ」というキャラクターは、しなやかな四肢でかもめのように
翻りながら、セガの青いハリネズミのようなすばやさで空を飛んでいました。
ゲームキューブのコントローラを差し込んでゲームを始めます。

「Nights」は「飛ぶ」ことに絞ったアクションゲームです。飛行機ではなく、自分が
ふわりと飛んでしまう夢を、コントローラを通してかなえてくれるゲームです。
ピエロをモチーフにした紫の帽子をかぶった「ナイツ」を操作して空を飛び、
夜に見る夢の世界を飛びまわってゆきます。プレイヤーは夢の世界を訪れる「ビジター」
のひとりとなり、ナイツと「同化(デュアライズ)」して自分の夢に訪れる悪夢たち
に立ち向かってゆくのです。
男の子と女の子の夢、ふたつのストーリーが用意されています。

前作ではダッシュと空中移動、アクロバット飛行のみでしたが、本作では「ペルソナ」
というアイテムを装備するとさまざまな形に変化し、特徴的なアクションを楽しむ
ことができます。
画はとにかく綺麗ですし、動きもなめらかですいすい飛べて、さくさくっとクリア
できました。ボス戦もわりと倒しやすくて、面白かったです。

ステージを遊んでいて残念だったのが、前作ではしょっちゅう利用していたダッシ
ュが使いづらくなったことです。「Nights」では、空中で早く移動するためのダッ
シュを使うには「ダッシュゲージ」が必要なのですが、このダッシュゲージはリン
グをいるかのように次々くぐると回復します。
まだWiiの立体感に慣れていないせいか、ダッシュを使う距離や頻度に対してリング
が少なくて、ダッシュを連発していたらすぐにゲージがすっからかんになることは
ざらでした。このダッシュが出来ないと、ちょっと爽快感が減るのです。
あと、このゲームには「リンク」といって、アイテムやリングを連続してとるとスコア
がアップしてゆくのですが、今回はリンクに必要なアイテムがコースを一周しても
回復しないので、前作のように時間いっぱいまでコースを廻りまくることが出来なく
なりました。
目的が「いかに早くゴールし、一周のなかでいかに多くのリンクを作るか」という
形に制限されてしまって時間に余裕がなくなっちゃったのですね。

ゲームをやるということではちょっとしょんぼりなことが多かったですが、
ナイツは相変わらずのにやけた笑みを浮かべているし、11年ぶりの邂逅は
悪くはなかったです。


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過コラム:いとしの借金王

2009年11月12日 | コラム
上海バンスキング再演!

まさか、まさか帰ってくるとは思いませんでした。
本格的ジャズバンド活劇「上海バンスキング」、来年春堂々の再演が決まりました!
斉藤憐作、串田和美演出、吉田日出子主演。もうもう、かつての自由劇場をひっさげての
再演です。おとなになって、行くことが出来る可能性ができただけで、
私はしあわせものだなあと思います。

私の祖父はわりあいにモダンボーイで、色気たっぷりの大人の女の歌が大好きでした。
家にはまだ祖父の愛したCDが残っています。その一枚が、「上海バンスキング」の
再録CDでした。叔父の話によれば、レコードも全て買い集めたそう。
私が聞いたのはCDの一枚でしたが、それでも吉田日出子の声はぞんぶんに色っぽくて、
甘くて、たちまち耳がとりこになってしまいました。初めてこの歌に会ったのは
中学生くらいでしょうか。昨年のBSでダイジェスト版が放映された時は、深夜に
テレビに一人かじりついて見続けていました。
これは、そのときのコラムです。


:2008年4月
『借金王!借金王!!』
-ミッドナイトステージ館「昭和演劇大全集」より『上海バンスキング』

「踊りましょう。レディに恥をかかせないで。」
この声にずっと恋していた気がする。吉田日出子の声はほんとにすさまじい。おんなっぽい媚がたっぷりで、そのくせいやらしくなくて、堂々と朗々と歌う。初めて彼女の声を聴いた『ウェルカム上海』という曲は確実にわたしの音楽ごころをすぽんとかっぱらってしまったのだ。

 第一次世界大戦前から戦争に突入するまでの、ジャズマンの紆余曲折を描いた本作。松坂慶子主演と、吉田日出子主演の映画はあるものの、3/7深夜、BSでオンエアされたのは自由劇場の舞台を録画したものだった。串田和美の演出に乗って、主演吉田日出子、小日向文世や笹野高史、余貴美子も出演する豪華な顔ぶれ。それよりももっと贅沢なのは、かれらが舞台で生演奏するってことだ。笹野高史はトランペットを唇に押し当て、藤川延也はクラリネットを吹き鳴らし、小日向文世はアルトサックスを咥える。そして演奏!

 残念ながら今回の映像は、劇をまるまる一本ではなく途切れ途切れに記録したもので、ストーリーや舞台展開が飛びすぎてわかりづらい点はあるものの、なにそんなこと、『あなたとならば』『月光値千金』そして『ウェルカム上海』の名曲はしっかり押さえられていたので気にはならなかった。

 ああそれにしても、日出子の「舞台用」の声には緊張していたからだがゆるんだ。とろりとした歌声からかけ離れた甲高い声。トーンが明らかに他の役者とはズレているのだがそれがまた、なんともいえず可愛らしく聴こえるから不思議だ。男の手をそっと取り、うつむく彼に一言「だめそっぽむいちゃ。あたしの目を見て」。「そっぽむいちゃ」「あたし」の単語がこんなに可愛い発音だと気づかされる一瞬。『あなたとならば』の前奏、チャイナドレスの日出子が目を閉じて笹野の肩によりかかる一連の仕草。一挙一動にどうしようもなくとろけてしまう。声に惚れて仕草に惚れ直した2時間半はあっという間に終わった。
(797字)
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:「不忘の記 父河井寛次郎と縁の人々」 読了

2009年11月11日 | コラム
:憶える人

「不忘の記 父河井寛次郎と縁の人々」 河井須也子著 2009年5月 青幻社

 白壁が日を照り返す秋晴れの一日、日本民藝館を訪れた。日本家屋の狭苦しさも、外国風の重苦しさもほどよく木と目の粗い壁紙が馴染ませた家だ。飾られているものも、元は誰かの家で使われていたためか、飾るだけの新館とはどうもうまが合わないらしく、こちらで飾られると見る人を身構えさせない素のままを見せてくれる。

 河井寛次郎という陶工は「素」をこのんだと河井須也子は言う。

 大正十三年生まれの河井須也子は今年で85歳、陶工河井寛次郎の一人娘だ。京都五条坂の河井寛次郎記念館の館長であり、寛次郎作品の鑑定責任者でもある。本書は亡き父寛次郎と妻、陶芸仲間の浜田庄司やバーナード・リーチ、そして柳宗悦のことを、幼い彼女が見たそのままに書き起こした文章を収録した本だ。河井家がどれだけ寛次郎という陶工を中心に廻っていたのか、どれだけの人が彼の周りに集まっていたかが娘のひとことひとことで浮き彫りにされてゆく。父に対する批評はいっさいなく、筆致はすべてへの尊敬にあふれている。

 それが惜しいのだ。この人の知っている河井寛次郎という人の一挙一動はとんでもなく多くて、それを知りたくて人はこの本を読む。だが、読めば読むほどに、はしばしに現れる河井須也子というひとそのものが気になって気になって仕方なくなってしまう。それが惜しい。『家にいて、突然母に、「ちょっとちょっと、今すぐこっちへ来よし!」と呼ばれて、何事かと飛んで行くと、「ちょっと見てみよし。この夕焼けの見事なこと!今見なあかんわ。今しかないえ。」という始末。』彼女の娘があとがきに書いている。紅葩という俳号を持つ作者は、陶工の父からも琴の上手の母からも周りの人からも並々ならぬ空気を受けている。けどそれを自身で堂々と書くには、この人はあまりに謙虚でやさしい普通の人だ。娘さんの言葉を待つしかないのだろうか。

 まだ生きているのに、と可笑しくも、それはとてもひどく惜しまれることだと思う。

(802字)
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そう、京都行ってきた(番外編)

2009年11月08日 | コラム
:記念館に寄せて:

 河井寛次郎記念館は京都の五条坂を下ってバイパスをくぐり、六兵衛窯を曲がると見える京都の昔の民家のならびにある。ひときわ目立つということはなく、他の看板と同じように、前に並ぶ家に遠慮しておずおずと黒地の木に白地の看板が二階の軒下にかけられているだけである。棟方志功の題字を黒田辰秋が彫りあげた一階の窓にかけられた看板、楚の左の郵便受けの壁のさらに左に、閉じた入り口が待っている。
 手をかけて左に横滑りさせると、戸の上についたベルがころころ、と音の澄んだ土鈴のようにわずかなくぐもりを混ぜた、金属の音色を立てた。暗い。右手の部屋に二羽の兎が向かい合った木彫の置物が、畳の上でひそひそと会話をしていた。すのこで靴を脱いで下駄箱にしまい、奥の灰色のロッカーに鞄と上着をしまって鍵をかけた。荒い網目の藁のマットを踏むこともなく上がり、受付で900円を払う。私は会社につとめるようになっていた。学生証はもう無い。私の顔を見た女性は上の段の引き出しを開けて待っていたが、「大人一枚」のひと言に黙って下の引き出しを開いた。どうぞ、とやまぶき色に銀で模様をつけたチケットが渡された。今年の二月、まだ学生だった私は青灰色の地のチケットを受け取っていた。既に半年以上が過ぎていた。私は会社につとめている。
 茶のスリッパを藁かごから引き出して履いた。河井寛次郎記念館はいつ行っても、ほどよい影に包まれている。顔は見えるけど深くは無い陰影は淡く輪郭を縁取って、誰しもがやさしくてやわらかになるのだ。いつものように自在鍵と子供の等身大くらいの人形が客を迎える。女の子ではない。女の子は柱時計の隣、箱階段の前が定位置のようで、ふくよかな頬ぺたに丸く突き出した唇、丸々と削られて雪だるまのようにぽんぽんとくびれたからだで今日も笑っている。気づくと頭を撫でられているのか、像としての前と後ろの境目、ちょうど髪の分け目になるだろうかの頭頂がすべすべと丸くなっていた。柱時計は無心に音で時を刻んでいる。
 中庭をめぐる細い通路に陶器の陳列室はある。棚はいつつ、箱階段から向って右から二つ目までは殆ど変わらない、河井寛次郎の愛用した道具の一覧。残りの三つに陶器が収まった。今日は、桃があった。青瓷鱔血文桃注。初めて会ってからそんなに時間の経った気はしないのだけれど、初めて会ってから二年が過ぎている。二年目の桃はすこしくすんだ鈍い赤と緑に包まれて、板に寝そべっていた。眠たげな人の目のようだった。桃の下に赤い壺と何かの動物をかたどった、蓋つきの赤い壺がある。つやめいて、あの時見た桃と同じように、舌でとろける赤の壺だった。この棚は、河井寛次郎三十歳ごろ、中国の技術を輝かせていた頃の作品群だった。年代は1920~1925年。形が静かで、肌も水がこぼれるように澄んでいる麗しいものばかりだ。白磁の一皿はアイボリーだとか、クリームだとか、そんな色名をすっ飛ばした雪解けの雪の色だった。
 そんな溶け出しそうな水気のある色が、棚を移るにつれて、徐々に固まってゆく。真ん中の棚を越えた最後の棚は、最晩年の作、河井寛次郎還暦を過ぎてからのものだ。掘り出してきたかのような青銅そのものの、緑の釉薬をまとった壺。ほどほどに晴れた日差しのやわらかい空色の釉薬をまとった小箱。そして底の地も粗いが目の覚める、でもやわらかい白。どれも固まっている。ぐっと色が結びついて、釉薬と陶器が夢中で結びつきあっている力強さと土臭さがある。ただ色そのものは、相も変わらずまっすぐに澄み切ったそのものだった。炎に焼けたレンガの赤と桃の赤をくらべれば桃の赤ははるかに明るいのだが、色に吸い込まれてゆく目はそこに同じ赤を見て取った。河井寛次郎の赤が好きだ。河井寛次郎の赤はたかぶらない。おごらない。まろみを帯びた赤だ。今の心には河井の赤が響き続けている。
 陳列棚を過ぎた。
 茶室を井戸のほうから廻って階段を登り、砂で作ったかまくらのような素焼き窯から空気がふっと変わる。土間に近い灰色のコンクリートにスリッパが響く。作品をよく眺めるためのガラス戸と棚、椅子が設けられているそこは、かつての仕事場だった。あともう少し登れば作品の胎である登り窯がずらりと北山にむかって並んでいる。低い低い椅子に腰掛けた。足をそろえて斜にかけるか、尻をしっかり乗せて脚を伸ばすと心地よくなる。ここの椅子は、どれにかけても尻のすわりがよい。
 中庭を通って母屋に戻った。縁側に腰掛けて見上げると、二階の窓に猫がいた。西日が差して暖かいのか、箱の上に坐って首だけが外にまっすぐと向かい目を閉じている。首に鈴がついていた。箱階段を上がってぶらさがった数珠につかまりながら二階に行った。
 猫は日差しを浴びて外を見ていた。何を見ているのかはわからないが、とにかく丸まって寝ないで首を伸ばしてしゃんと坐っていた。おなじ西日を河井寛次郎の机と椅子が障子ごしに受けて黙っていた。引き出しの取っての丸みの手触りが好きだ。硬いが坐りごこちよい低い椅子に腰掛けて机にかけてみる。ここに来たら必ずやることだった。吹き抜けから柱時計のかち、 、かち 、と呼吸が聞こえてくる。猫は外を眺めている。気づくと身体は腕組みをして、仕事や勉強で疲れたときにやるつっぷしを、河井寛次郎の机に頭をもたせ掛けてやっていた。腕が滑らかに動いて頭を受け止めた。疲れたからそうしたというただそれだけの自然さだった。目を閉じた。柱時計の音が大きくなった気がする。私の呼吸は聞こえない。

 河井寛次郎記念館は静かだ。どの寺よりもずっと静寂だ。それは、机に坐っても畳に寝転んでもどの椅子にかけても椅子を占領していても、誰も何も言わずゆるやかに過ぎてゆく時間もあるけれど、それを誰もが互いに許している心地のよい沈黙が何より先に静けさを作っているのだ。静かだった。眠る直前のように頭の中が心地よく何もなくなってゆく。ものを考えても、柱時計と空気の重み、涼しさと静けさが思考を思索へと変えて深みに連れてゆくのだ。
 
藁の椅子に腰掛けて、河井博次の作を初めてじっくりと眺めた。河井博次はお婿さんだ。お婿さんだが、義理の父の河井寛次郎に触発されて焼き物をはじめた。茶碗を焼きつぼをやき、釉薬をかけて皿を焼き、父ともので語り合った。河井寛次郎の赤なら、河井博次は茶だった。磨きこんだ柘植の櫛のようにあめ色がかった茶色、水の少ない泥を固めたような灰色と緑を混ぜ込んだ茶色に、父と同じ透明感がある。土を掘り起こすような力強さこそないけれど、色の透明な方向が確かに父と同じものを掴んでいた。

 色と、線。私にはわからないものはたくさんある。線。河井寛次郎の晩年の線、焼きこまれた線が私はまだわからない。見ると、なにやら心の奥でざわめいて非難する声が上がるのはわかる。だが非難以外のざわめき、非難は怖いからすることが多いのだが、何か感じたざわめきがある。このざわめきを聞き取った時、たぶん河井寛次郎をほんのすこし、今よりも分かることが出来るようになるのだろう。

 日暮れて道遠し。

 もう一度作品を見に行って時計を見ると閉館10分だった。中庭を見上げても猫はもういない。絵葉書を買おう。私は受付に戻った。
 猫は受付の前でちょっ、と坐っていた。しまちゃん、というんです、とマスクをかけた受付のお姉さんが笑った。しまちゃんは、この近所の猫で、記念館に毎朝出勤しては日向ぼっこをしているのだそうだ。わたしは何回かここへきましたが、しまちゃんは初めてですね、というと受付の人は目を丸くした。まあ、振り返れば、わたしが京都に行くのはたいがい料金の安い冬か真夏なので、さすがのしまちゃんものんびりと日向にいるわけには行かないのだろう。
 しまちゃんはんー、と足を耳元へやって、頭をひとしきりかいてからのこのこと箱階段に歩き出していった。わたしはロッカーの鍵を出した。
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そう、京都行ってきた②

2009年11月05日 | 雑記
30日後半。夜に烏丸四条近辺のビュッフェに連れて行ってもらいました。
ビュッフェというものにあまりなじみがなかったのですが、丁度開店したてで、
人も少なく、好きなものをのんびりと取って、おいしく食べられたのでしあわせ
でした。
白い栗のムースが、ほんのり栗の甘さを残したまま舌にとけてたいへんおいしかったです。
COCON烏丸というビルの、SARAというお店。忘れないようここに書いておきます。

つかれきった身に食事の栄養がしみこんで脳みそにまで廻ったころ、店を出て
ビルの一角、京都の藝大の学生達の開くshin-biという本屋?に入りました。
そこに入った時点で次の日の私の行き先は決まったようなものでした。
一冊の、薄紫色のカバー。

:「不忘(わすれじ)の記―父、河井寛次郎と縁の人々」 河井須也子著 青幻舎 2009年5月

河井寛次郎記念館の現館長にして、河井寛次郎の実娘、河井須也子さんの著書でした。
中はフルカラーで、河井寛次郎記念館の内装から当時の河井宅のセピア写真と
河井家のフルコースの盛り合わせで目がくらみそうになります。
あああ、いきたい。でも団体行動。でもいきたい……。

もだえる私に秋の三千院は、にこやかな日差しと庭と共に「まあ落ち着け」と
諭してくれました。おみくじの発祥地で引いたおみくじは大吉でした。



わたしは脱走しました。



もちろん勝手に出て行ったわけではなく、理由を話して、たまたま別行動に
出た友人Sにくっつく形で三千院を後にしました。でも脱走は脱走。
バスは二時半をまわり、閉館は四時半。土曜とはいえ京の道路事情はわかりません。
不安に駆られながら降りた三条京阪の時計は三時半きっかりをさしていました。
地下鉄に乗り込み、黙々と清水五条で降りて、夢中で足を動かします。風が喉元に
丁度良く涼しくて、暑さに脱いだジャケットの重さも無視してゆるい坂道を清水に
向って歩きました。

六兵衛窯を曲がったその先は、バイパスの音も聞こえず、水をうったような唐突な
静けさにつつまれていました。
前に来た通りの、黒い塀に看板。
茶の看板の白地はいつ見ても元気に輝いています。
戸を開いて中へ。ベルがコロコロと鳴ります。ここだけ西洋風。
入り口で900円の大人の値段を払って中へ。

その先の、過ごした一時間は、また別の文としてここに書きたいと思います。


暴走するわたしの言葉にいやな顔一つせずいてくれた友人に感謝。
本を取り出して口が止まらなくなったわたしを聞いていてくれた友人に感謝。
ゆるしてくれてありがとうとこの場を借りて言わせてください。

わたしはどうしようもなくここが好きです。
ごめんなさい。最高にありがとう。

京都の旅は清水前五時過ぎのぎゅうづめのバスで終りました。
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そう、京都行ってきた①

2009年11月03日 | 雑記
もうそろそろ、行った回数を忘れかけている京都行きです。今回で7、8回目に
なるかと思います。
たまたま出会った同期の友人に、大学時代しょっちゅう市内へ遊びに行っていた
頼もしい人がいたので、その人の肝いりで今回は「メジャー+マイナー」どころの
二つおいしい旅となりました。

一日目に嵐山、二日目に大原の三千院+@。
写真は常寂光寺の多宝塔です。

嵐山にゆくのは久々で、2、3年は渡月橋を拝んでいませんでした。
久々に降りたJR嵯峨嵐山駅は随分とりっぱになっていて、トロッコ列車の駅前にも
民芸キオスクのような店が出来ていたり、焼き栗を売っていたりとちょっぴり
華やぎが増していました。てくてく歩いて、昔「お昼寝用まくら」を買った布団屋
を見送りながら、世界遺産に指定されている天龍寺に向います。天井の龍を見るためです。
しかし、今年のガイドブックによれば30日の今日、天竜寺の本堂が拝観できない
ことになっており、見れないんじゃないか、と心配しながら向うと午後からは
拝観できる模様。代わりに弘源寺の本堂と毘沙門堂を見て一旦は撤退。

弘源寺は、天竜寺の塔頭(たっちゅう)寺院です。禅宗の寺院において、開山時や
住職がなくなったときなど、偉い僧侶の遺徳を讃えて弟子が立てる寺院のこと
だそうです。1429年、室町幕府の管領細川持之公が創建しました。
本堂には竹内栖鳳を初めとした日本画家の多くの作品、蛤御門の変の際に斬りつけられた
柱の後も生々しく残る中、虎嘯(こしょう)の庭の砂の白さが目を惹きます。

本堂を出て右手、細い道を通ると毘沙門堂が、本堂に負けないほど堂々として
建っています。元々は相当に広い寺院だったそうですが、今はこの二つが、ちょっと
狭そうに一つの敷地に肩を並べています。

その扁額です。弘法大師直筆で「多聞天」の三文字。多聞天は毘沙門天の別名です。
弘法大師の筆は、走り書きレベルでも相当にぞくぞくするたくましさを持つ筆致
なのですが、さすがに神様の名前を彫り上げる扁額には、すこし重々しい筆致で、
それでもさわやかな字体がどっしりと構えていました。
ご本尊の毘沙門天、こちらはインド→中国→日本と三国を跨ってやってきた仏像で、
インドの仏師が彫ったものだそうですが、今のけばけばしい顔つきとはうらはらに
思ったよりも穏やかな(いかめしいのですが)顔立ちでした。挙げた両手の袖が
両方とも上を向いているのが印象的でした。遠目から見ても、一つの作品として
すばらしいものであることはわかりますが、やっぱりお寺にあるほうが落ち着きが
あるような気がします。

弘源寺を出た後は、天竜寺を拝観するための時間つぶしに食事をして、それから
渡月橋でわいのわいのと写真大会。天龍寺の龍を無事に見ることが出来ました。
紅葉に染まり始めの庭を過ぎて、竹林に向います。

常寂光寺はほんのりと染まりつつありました。
萱葺きの仁王門の手前、先が真っ赤に染まったもみじの、赤と黄色と緑の
グラデーションに目も手も、歩き詰めた足も止まります。
見上げるとちょうど昼時を過ぎた太陽がもみじを透かして赤い光が抜けて砂利道に
落ちていました。

桃山時代からの由緒あるお寺だそうですが、細かいことは抜きにしてもさっぱりした
いいお寺です。急な階段を登った本堂の奥に、多宝塔がそびえていました。隣には
階段。また階段。半分山道と同化しかけている、土の感触ばりばりな、足のふんばりが
必要な階段です。
その眺望が、この写真です。染まりきった後も見たいものですが、日の強い光で
照らされた色具合がちょうどよくて、風も涼しく気持ちの良い頂上でした。
京都市内を、嵯峨嵐山を一望できる絶景を掴んで下山。お寺は空気が気持ちよいです。

野宮神社や錦市場など、あちこちをめぐってホテルに着いたときは足がすっかり
張っていました。
筋肉痛を怖れながら次の日に備えて休みます。

またしばらく続きます。久々の長い文章でした。
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