えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・雪遊びと雪仕事

2018年01月27日 | コラム
フードに積もった雪を振り落として傘を差しなおした。駅から歩いて五分の間、足首が埋まるほど積もっていた雪で
ズボンの裾を濡らしながら床の濡れたショッピングモールで一息入れ、しかし歩くことはやめずにもう一つの出口から
外へ出る。建物の影でよけいに冷えるのか、踏み固められた階段上の雪はほぼ氷で、その上へさらに雪が薄く積もっている。
すれ違った老女が足を滑らせたが、手すりにつかまり持ちこたえていた。

ショッピングモールを抜けるとマンションが並ぶ。当然のように普段の通り道には誰一人として雪かきをする人は
いなかった。けものみちのように誰かが進んだ足跡を頼りに先を急ぐ。電車が止まるので家に帰してくれろと頼み込み、
まだ止まっていなかった電車で帰宅した最寄りの駅では順調に雪が積もっているので、判断こそ間違ってはいなかったが、
後ろめたさを覚えながら足を速めた。その先で黄色い悲鳴が聞こえている。足元から目をやると、小さな丘状に作られた
草地の斜面を、子供が紺色のプラスチックのそりで滑り降りていた。その後を灰色のダウンジャケットを着た親らしき
茶髪のショートカットが、素手を真っ赤にして笑顔で追いかけ、そりを坂に引き上げている。通り道に雪は積もり続けて、
しょうばい柄出入り口と敷地内だけはしっかりと雪を掃いていたショッピングモールとは対照的に、歩くたびに靴底へ
雪が絡みついていった。

少し歩くと小学生の高学年らしき眼鏡の少年が、ビニール傘を肩にかけて雪をかいていた。彼が雪をのけたらしい箇所は、
またうっすらと雪に覆われながらも、れんが色の舗装が見えていた。彼と目が合ったので目礼して前を通り過ぎる。
その間もそりの子供たちは雪だるまを作ったり、またそりを丘の上まで戻して滑り降りたりと、余念なく遊んでいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・甘さのない甘味

2018年01月13日 | コラム
味を覚えるということは、それだけの印象が舌にあったということで、無性にそれが欲しくなることを体に習慣づけることでもある。決まった時刻に決まったものを食べつけていることは舌ではなく体全体を使った習慣づけだ。どちらの方法がより「特定の食べ物」を欲しくなるのかはわからないものの、食べることを長く続けていれば味のどれかに執着を持つものだ。それがどんな状況であったとしても。

 人に勧められて有名な店の「豆かん」を食べに行った。ちょうど昼時だったので、定食屋で軽くいただいた後、デザート代わりに店へ行き、食券を先に買って席についた。粟ぜんざいが有名と聞いて以前一度頂戴したものの、少し甘すぎたという話をすると知人は「豆かん」を勧めてくれた。お酒を飲む前の底入れや口直しに食べるとのことで、なかなか粋な食べ物のようである。席はそこそこ空いていて、持ち帰りの客のほうが多そうだった。

「豆かん」は、正方形に切った寒天に味付けした赤えんどう豆をかぶせ、黒みつをかけていただく。隣の客は漆の椀に片手を添えて、箸で粟ぜんざいのもちをあんこごとつまんでいる。運ばれたお茶をすすっているとすぐに「豆かん」が来た。「どうぞ」と低めの机に碗が置かれる。見下ろした。既にそれは質量を以て目に訴えていた。妙な笑いを押し殺してスプーンを差し込むと深い。そして豆は大きい。寒天が申し訳なさそうに脇へ底へ引っ込んでいる。食べきれる自信を失いながらも程よく塩気の効いた豆と、豆の塩気へ上手に絡む黒みつの具合のおいしさを覚えるほうに頭を切り替え、甘味処の優雅な響きよりも定食屋のペースで食べぬいた。隣の客はとうに席を立っていた。

 質量に圧倒されながらもそれが口に合ったということはしっかり体は覚えているようで、次にその店へ行く予定を組んだ時は先に「豆かん」を食べ、あとから主食を考えるようにした。それくらいにすかせた腹にはちょうど良く収まってくれ、うまくいった楽しめたとほくそ笑むと同時に、そこへ通いたくなる義務感に襲われてまた今年も予定を淡々と立てている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

・確率と思い込み

2018年01月01日 | コラム
「“へい”だったんだよ」

 年初めの恒例として、もじゃもじゃ言いながらも家族全員で初買いに行き買い物袋を抱えて座り込んだイトーヨーカドーの喫茶スペースで唐突に父が言った。「“へい”」。ハイカラな呼びかけでもなく、粗雑な返事でもなく、お御籤の卦だという。漢字を訊ねると「なんだったかな」と、話の流れから類推するだについ数日前に引いたはずだろうお御籤のたった数文字が思い出せない風情である。「“平坦”の“平”?」「そう、その“へい”だ」
 凶の確率三割で名高い某お寺にもない卦である。聞くと出かけた先で見つけた小さな神社で引いたとのことで、小さいなりに社務所があったといった。肝心の神社の名前はググれと雑に投げられる。その卦は一体どういう意味なのだと続けて訊ねたが、おそらく縦長の紙に書かれた文字よりも、丁度宮司らしい人が通りかかったので直接聞いたらしい。

「それでどうなったの」
「首をひねったから、『結んだ方がいいですかね』って聞いたら、『そうですねえ』って言われた。
 凶と吉の間らしいな。すごい出ないらしくて、0.何パーセントだとよ」
 数字だけを見れば「かえって運がいい」と思えそうな内容だが、宮司(おそらく)直々に「結べ」とアドバイスされるほどの卦には一体何が書かれているのだろうか。凶と吉の間で波風のない運との説明には良さも感じるが、よくないそうだ。どのように「よくない」のだろうか、相応にしょうもないことを期待しながら念のために、期待せずに聞いた。

「それ、今持ってるの」
「いや」
「結んだの」
「結ばなかった」
 最初は宮司のお勧め通り、ろくに中を読まずに結ぼうとしたらしいが、同行の友人から「二百円で売ってくれ」と言われたので売ったそうだ。「運をそのまま引きずるぞ」と注意したそうだが、よほど嫌なことがあったのかその友人は「もう落ちる運なんかねえよ」と勇敢に購入し、父の手元からお御籤はなくなった。その後の酒の席で一時間くらい「“へい”」の話題はもったそうだ。「今度ひいたら持ってくるよ」とけろっとして父は言った。「どこで引くのさ」やはりググれとの返事に仕方なく携帯電話を取り出してお言葉通りにGoogleで検索すると、「おみくじ “たいら”」という結果が予測検索に上がってきた。出来れば平らかなままでいていただきたいものだが、お返ししたものはしょうがないので、次の「今度」を新年開始から数時間で臨みながら検索結果を淡々と、他の家族を待ちながら読んでいた。

 二〇一八年は平らかに訪れましたでしょうか。本ブログも文字だけという横着ぶりながら、とうとう一〇年選手を迎えてしまいました。ブログというツール自体のかたち、文字というインタフェースのかたちすらも問われるだろうこれからも、文字というかたちはしばらく使い続けたいと思う次第で書かせていただきます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする