えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・半年の息抜き

2019年04月27日 | コラム
 梅の宴に添えられた香り立つような文章から漢字を二つ取り、新しい元号は「令和」となった。発表されてからあっという間にIMEは対応して「れいわ」とキーをたたくと「令和」の字へと簡単に変換される。特需とばかりに万葉集や「万葉秀歌」は版を重ね、近所のささやかな本屋にも注釈付きの万葉集が出版社を問わずに平積みされ、あと数日で入れ替わる今も売れ行きは変わらないようだ。

 大きな区切りが発表されるときは何かと物騒がしいが、年末よりも消費税の増税よりも元号の変化はそう「次」を意識させられないのでは、と、周囲を見渡して思う。新聞をめくれば十連休の過ごし方への戸惑いと旅行先の特集が並び、隣の席では飛行機代の高さに頭を悩ませる同僚がいる。国内の往復で七万強だと彼女は嘆いていた。ハワイや韓国のそれなりの旅行プランなら二泊はゆっくりできそうな金額だ。国内である。ここぞとばかりにあちこちの観光地が来ておくれとテレビやインターネットに広告を投げるが、そこに待っているものはあとあと後悔しそうな「ぼったくり」であることは容易に想像できる。

 元号はつかわないよ、と、喫茶店のマスターは扉の外でたばこをくゆらせながら言った。こちらの喫茶店はお休みですか、と尋ねると、いつも通りだよ。木曜定休。と、すげない返事が返る。アメリカのたばこの香ばしい煙が店内へゆるやかに漂いはじめた。話題になるだけいいじゃないか、とワイルドターキーのロックを粋にあおってバーの主人は空のグラスを洗い始めた。連休直前の街は空いていて、九時を回っても客は私一人と十五分ほどで去った飛び込みの夫婦ものだけだった。風がつよくなるばかりの寒い夜だった。

 年が変わるその時よりも確実に天皇の即位という国としては大きな変化も、足元の民草には持て余す休みと余分な仕事にしか見えないらしい。それでもあと数日に迫った来月に何かを待ちわびているような、春の訪れよりも年の訪れよりも期待する気配を、新しい元号に感じている人はそれなりに多いようだ。
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・散る桜落とす歯垢

2019年04月13日 | コラム
 半年ですねと電話口で受け付けの小母さんが慣れた口調で言い、二時半があいておりますが、と尋ねた。そのために予定を空けていたのでいつでもよかったので、そのまま予約を入れて当日駅に向かうとまた電車が遅れていた。約十五分遅れている元三十六分発の電車がちょうどホームに滑り込むところに間に合い、電車に乗って電車から降りた。歯医者はすっかり土地になじみ、半ば傾いた春の日差しと通りがかる学生たちのざわめき声が似合うたたずまいだった。

 職員のものではないスニーカーが一揃えあった。そばに自分の履物を置いて玄関を上がるとちょっと有名な料理家に似た風情の小母さんがあら、と声をかけた。今日はこれを書いてくださいねと初診のような表を出される。検診のための書類のようで、歯磨きの時間や回数といった比較的細かいことが簡潔なチェック表になっていた。提出してしばらくM.R.ジェイムズ全集上巻に目を落としていると老人が思ったよりよいよいの足取りで「ありがとうございました」と診察室を出て行った。名前を呼ばれるのでカバンと上着を抱えて診察室に入る。いつも奥の部屋から出てくる医者が珍しく、椅子のそばに突っ立っていた。

 今日は何もありませんね、とあまり感情のない声で医者は三十秒ほど口の中を見て言った。フロスで歯垢を削り落とし昨年の診察で「ここは虫歯になるであろう」と予告した個所を丁寧に見ていたが、残念そうにも励まそうともしない無表情な声で「何もありませんね」と告げた。それからブラシを取ると、これもめずらしくガチガチと上の歯へ時々器具を当てながら私の歯を磨きだした。けれども何事もなく終わることもなく、「ここ、気を付けてくださいね。前歯。ぬるぬるです。見栄えにも関わりますからね」と、そこそこ巨大なくぎを刺して春の診察は終わった。半年後、また来てくださいね、と立ったままカルテを書き込む医者の姿は、思っていたよりも小さくなっていた。
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