えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・善を勧めるその前に

2019年01月26日 | コラム
 別の本を探していたら懐かしくなり井原西鶴の『本朝二十不孝』を手に取った。岩波文庫版の五刷でカバーにビニールはなく、古本屋の紙のカバーの上にうっすら埃が被っていた。短い本だが充実した補注が本の半分近くを占めている。二十四孝子をもじり、二十人の親不孝者が井原西鶴の飄逸な筆で生々しさを抑えつつどこか読み手が面白がれるように距離を取って書かれている。
 のっけから親へ保険金をかけて毒殺しようと試みる男や、一時の気まぐれで宗教に嵌り家が没落したぼんぼんなど、現在の環境に移してもテレビの犯罪特番に映りそうな不孝者が登場する。それでも大方の登場人物が苦労知らずのお金持ちなせいか、その悪事はどこか抜けている。
「いよいよ、親仁の、無事を歎き、(中略)なを、長生を恨み、諸神、諸仏を、たたきまはし。七日がうちにと、調伏すれば。
 願ひに任せ、親仁、眩暈心にて、各々、走つけしに、笹六、うれしき片手に、年比、拵へ置きし、毒薬、取出し。是、気付けありと、素湯取よせ、噛砕き、覚えず、毒の試して。忽ち、空しくなりぬ。」
 父親に日極の保険金をかけ、期日までに父親へあの世に行ってくれないと困る息子はあちこちに神頼みをしてもうっかり長命の神様に祈りを捧げ、ようやく願いかなって父親の具合が悪くなると喜び勇んで一服盛ろうと家に帰るも、心はやって肝心の毒薬を自分で飲んでしまいどら息子ははかなくなる。欲づくで動くあさましさが笑いに転嫁される筆調が眺めていて快い。
 もしかしたら悪事をやりぬいた人間を書いてもみたかったのかもしれないが、今でいう有害図書に指定されたらそれこそ自分が登場人物のようになりかねないので、悪事を働く不孝者たちのことごとくは天罰が当たって酷い目に逢う。どこか透徹した眼差しで人のし遂げたことだけを軽やかな語調で記しているその様は、この作家の手始めにするのにちょうどいいだろう。
 今年初めに逢ったいとこの息子をふっと思い浮かべたが、それは脇に置いて本だけを楽しむこととする。
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・一緒にいてもゲーム

2019年01月12日 | コラム
 親族がいちどきに集まる正月三が日、久しぶりにいとこの息子の顔を見た。ニンテンドー3DSに顔をうずめ、「あけましておめでとう」と声をかけても返事一つしない。ビールで顔を真っ赤にした父親であるいとこが挨拶をうながすが、子どもはおざなりに目だけをあげて首を軽く曲げた。横の弟が苛立ちを押えた気配がした。

 私たちの一家が集まったところで伯父が声をかけ、一族が声を揃えて「明けましておめでとうございます」と床に座る者は手をついて、椅子に座る者も腰を曲げて深々と互いに礼を尽くす。いとこの子どもはゲーム画面へ埋まるように身体を丸めた。視線は変わらずにディスプレイへ注がれている。父親は取り上げもせずに口先だけでほら、あけましておめでとうございます、だよ、と語り掛けているが子どもは無言で彼を避けた。

 食事をしている間はさすがにゲームは取り上げられていたものの、それは私たちが同じテーブルについていたからで、彼の周りに父親しかいない時はおそらく可能性として、ゲームをしながら食事をしていたのではないだろうか。と、駅伝を映すテレビの前に置かれた袋をいとこが漁り、チキンラーメンの袋を取り出した。机の上には伯母手づからの煮しめやてんぷら、漬物が並び、先ほど伯父が蕎麦を茹でに台所へ姿を消したばかりである。「誰が食べるの」「ああ、こいつ。そば食べるかわからないから」袋には子ども用のお菓子や食べ物が詰まっていた。

 数年前からその子の偏食ぶりを正月に確認させられてきた身としては、制止のひとことでもかけるほうが親切だろう。兄代わりに私たち兄弟を一番かまってくれたいとこでもある。だが私たちの誰もが悪者になる親切を侵すほど義理堅くはなかった。子どもの母親は二人目の赤ん坊の世話で家にいるのだという。確か彼女がいた時は神妙にしていたような記憶もあるが、目を離せばこの有様を知っていながらどうにもできないものなのか、と、他人事ながら首をひねる。

 蕎麦の盛られたざるをからっぽにしてふと気づくと、子どもはいつの間にか父親のスマートフォンを取り出しておそらくはニンテンドウのマリオらしきゲームを遊んでいる。その隣であぐらをかいている弟の横顔は、苦々しさを押し殺すような無表情だった。
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・幸先アクセル

2019年01月01日 | コラム
 初詣の夜空はシリウスが完璧に輝いていた。何年も前に雷が落ちたかで枯れたケヤキの太い幹が残る境内には、どんと焼きの火が絶え間なく燃えさかっていた。火の粉が別のケヤキの枝の間まで飛び跳ねる。破魔矢の飛び出した紙袋を放り入れると、熾火になりかけた火が炎を上げて周囲が明るくなる。どんと焼きの前では保存会の半纏を着た壮年の男たちが福銭とおとそを配っていた。去年と変わらない。歳が新しくなった直後の時間の初詣は年々寒さに負けて脱落者が増えつつも、空を眺めながら列の動きを待つ一時は年を重ねるごとに代えがたくなる。
 ただまあ、それは仕方なく人間だからこそだろう、そんなわずかな時間にも遠慮なくなにかと騒ぎは起こるもので、初詣へ向かう車に乗った時点でおおよその予想はついていたのだが案の定、運転手と免許持ちがコインパーキングのどこへ車を入れるかでもめ始め、運転手は車庫入れを放棄してスマートフォンから伸びたイヤホンに自分を引きこもらせる始末となり、新年開始40分程度から家内安全の願いが切実なものとなった。オリオン座が社殿の屋根に隠れようとしている。腰の三つ星まですっきりと晴れて澄んだ夜空の下では亜音速で冷え切る空気が漂っている。いただいたおとそが腹の底で立てるころころとした音を聞きながら、真ん中の鐘を鳴らして参拝した。お賽銭は去年の福銭の五円玉にして、今年をお願いすることとしてお御籤をひき眠い目で帰宅した。

 二〇一九年がとうとう始まりました。文字どころかあっさりと、そこに人がいても簡単に人との接続を切ってしまう機械を皆々手に持ちながら、アプリケーションの文字に一挙一動する人間は過去の人から見ればそれなりに可笑しい風景かもしれません。
 人間の言葉が人間から放たれることが、おそらくこれからも言葉のツールを使い続ける人にとっては大切な設問になりつつある時代、前時代的なことばへとしばしお付き合いいただければ幸いです。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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