えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

脱走帰還

2009年10月31日 | 雑記
ちょいとした旅に出ていました。職場の友人の誘いで京都まで。
今帰ってきてのーっとしているところですが、まだわくわくが
収まりきらずに取り急ぎ文にしています。

お寺はこわいです。入ると押さえつけられたように考えさせられます。

でも、前からも、たぶんこれからも京都でいっとう好きな場所は、
ただただ静かで、空気が止まったようにしんとしているにもかかわらず、
穏やかでなによりも暖かでした。

場所が肌にあうこともあるのだなと思います。

旅のつれづれは、また後日に。
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度胸

2009年10月26日 | 読書
気になる漫画家を挙げてみようと思いましたが、意外に漫画家で
今よみたい!と思う方はそこまでいませんでした。
珍しくいつかは読みたい!と思う一人の漫画を今日本屋でふっと
買う気になったのは、オビの推薦文の勢いのよさでした。



○○○さん大推薦!
 「                         
                            」
 *締め切りギリギリまで色々な著名人に、ここに入るコメントをお願いしましたが全て断られました。


』(原文ママ)


ものすごい暴投ぶりです。読ませたいのか読ませたくないのかすらわからない
投げやりぷりですが、表紙のタンジェリン・オレンジの暖かさとベレー帽の
男のアンパンマンを髣髴とさせる団子鼻艶ほっぺのセットに安心感をおぼえ
手に取りました。描かれている動物の目が全員死んでいることに気づいたのは
購入してからでした。

店員がバーコードを読み取ってビニールを外し、わら半紙色の字に紺の四角を
真ん中に染めて中に書店の名前を抜いたカバーをつけようと本の表紙を軽く
開きました。旧名オレンジ・イエローの背景に肌色の塊が見えました。予感が頭をよぎります。
やっぱり絵のままの人のようでした。買ってそのまま、小学生のように読みながら
帰宅するには年を取りすぎてしまった漫画に敗北感を覚えながら黙って帰ります。

ネタにされすぎてしまった、雄雄しくかすれて弱々しく歪む線の薄い絵に混じって、
第二話の「ビデオレター」第一コマの左端でキーボードを必死に打つ口をむすんだ
おっさんの、まじめな一生懸命さがにじみ出ているまっとうな、あまりにまっとうな
姿を見つけるとせつなくなります。一見の価値はあります。
最後の浜岡賢次との合作漫画直前の「秋田書店のバカヤロー」のひと言で、
それまでの漫画の細かいところが全部ふっとぶように出来ているのは照れ隠しでしょうか。
いえ、あのまじめなおじさんに気づく前から、最初に読み終えた後になんだか
ひどくほほえましい気持ちに駆られました。蜘蛛の糸を切ってしまった
カンダタでさえいとおしく思えるようになったお釈迦様の心境のような。
ずうずうしいたとえですが、言われているほどめちゃくちゃでもないし、オチに
つなげるための話の展開はかなりかっちり作られていると思います。
ただ、やはり絵柄とギャグの外しっぷり、下品さにはそれなりの耐性を読者に
求めるのでそこは注意すべきなのでしょう。ほどほどに生暖かく見つめてやるのが
いちばん読みやすいと思います。


:『画太郎先生だぁ~い好き(ハート)』 満☆画太郎作 秋田書店 2009年11月


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いっしゅうかん

2009年10月25日 | 雑記
光陰矢のごとしなんぞとよく言われますが、意識的にしないと
いけないことを忘れすぎて気づいたらまた七日がたっています。
七日という単位でものを考えさせようとした人は、
七日が長すぎる時の倦怠感を思わせず、短すぎるせわしさも感じさせること
なく、気づかなければ気づかないほどひそやかに過ぎ去ってゆく年月を、
よくよくと身にしみてわかっているのだろうかと思います。

今日はパソコンの調子がよくて、変換するたびにとまるということもなく
いつものように打ち込んで、変換できています。
今日は機嫌がいいです。
でもパソコン(竹中さん ??歳)に振り回されて、かきたくなかったり、
かけなくなったりするのはそろそろお暇したいので、そろそろ買い替えようかな、
と考えた矢先の今日のスムーズさ。
何か考えていることもあるのかなあ、とも思ってしまいます。
思ってみれば竹中さんでどれだけの言葉を打ち込んできたか。
一度高熱をだして記憶がふっとんだので、正確にいくつかはわからないですが、
5万やそこらの数ではないかも知れません。

年を取る年月はどんどん早くなるけれど、自分がどれだけ変わってゆくかが
わかるのは、年々遅くなり、振り向くととんでもないところにいる自分を
見つけている。

さて、去年のわたしは、今頃何を考えていたのだろうか。

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ここのところ

2009年10月19日 | 雑記
目に見えて文章が雑になっています。
読んでいただいている方には至極しごく申し訳ないです。

ものを読みすぎて(読まなさ過ぎて)消化不良を起こしているのかもしれません。
難しい本を背伸びして読んでいる。
思考の整理がおぼつかないまま言葉にうもれている。

幸田文の「季節のかたみ」を読みました。やっぱり、身の回りのこまごました
ことを文に落すのが上手い人です。崩落のことを書いた項で、わからないことを
わからないとありのままいい、惑ったことをそのまま書いてもわずらわしくない
人徳というか、文徳というものがある人です。

土砂崩れのことをやけに詳しく書いているなあ、と思ったら「崩れ」という
一冊もあります。こちらは、あちこちの土砂崩れ現場を巡ったことを、身体の
きしみと共に描いた一冊です。なぜ、土砂崩れに興味を持ったか、と言うことを
幸田文は、生活とともに人も崩すから、と語っています。
人を崩す、つまり心を崩す現場を、何も出来ず話をきくだけ聴いたのでしょうか、
耳に苦しい話を抑えて幸田文はただ自分の思ったこと、感じたことをかきます。

感じたことを読めるように順を追ってかける、このことがどれほどすごいことか、
飾り気も素っ気もない言葉の選び方が好きです。

似たような女性随筆家に武田百合子と言う方がおりますが、彼女もわたしは
割合好きな作家なのですが、幸田文とはまったく正反対のものの書き手です。
たぶん武田百合子のほうが、ことばが好きな人のものの書き方をしていると
思います。それこそ熟柿のような。
幸田文は、落雁のような文です。
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本と読書のこと②

2009年10月15日 | 読書
それっぽい本ばかり読んでいる気がしたので、記録代わりに挙げてみました。

・荘子 ・老子 ・王陽明の本 ・論語 ・ルソーの散歩 ・梅原猛の円空を巡る冒険 ・梅原猛の空海解説 ・アルセーニエフの探検 ・どっかの翁の書いたもの ・とある准南の王様について―金谷治 ・若いドイツの兄ちゃんの懊悩 

・諸星大二郎のジャストミステリー

*書名は一部うろおぼえです

読書はむつかしいです。むつかしい本がむつかしいのは、一つの言葉につまづきながら読む楽しみがあるからです。
つまづきながら読む楽しみ/苦しみに浸ると時間は過ぎる。読まなくてはいけない本はたくさん並んでいる。本はデータのインタフェースのみなのだろうか?とずーっと考えているのですが、どうもモノとしてだけ考えても、伝達のインタフェースとしてだけ考えても仕方のない思いがあります。
でも本と言葉はいくら考えても別物ではないか、という思いは年々深まるばかりで、こうなると言葉をつむいだ人と言葉との関係と、言葉の載る本と言う二つの関係性の二極化で本は引き裂かれてるんじゃなかろうか、先日の愛書家たちを見ていると引き裂かれた片割れを思いました。

読書と理解も、また必ずしも一致せずで苦しいです。本は悩みの塊でもあります。
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本と読書のこと

2009年10月14日 | 雑記
今日見かけた「SPA!」で書痴を特集しているのを見て、ちょっとうなってしまいました。

そこで紹介している「本が好きな人」とやらは、本のために家を改装し、本を集め集めすぎてダンボールにつめた本の上で寝ていたり、床板を外せば本、壁には書棚、本で埋まった部屋に埋もれて自信げに笑う人々の写真と詰められた本たちが載っていました。

さすがにダンボールに詰めてその上に寝ている人へは編集者(あるいはライター)も「そりゃ本末転倒じゃないの」と裏拳つっこみを入れてはいたものの、どうも本好きと読書好きは違うんじゃあないかというモヤモヤが写真をみてはっきりしました。その人は本を手に捧げてにこやかにカメラに写っていたけれど、脇のことばに「表紙で買い、読んだこともないこともある」とあって、手にしていた本は白黒写真ながらもきめが分かるほど丁寧につくられた紙に、金を埋め込んだかのような文字が印字された表紙で、見るからにモノとしてすばらしい物であることはわかるのでしたが、手に取られたが故のへずれや汚れはどこにも見えなくて(白黒だからかもしれませんが)、あ、読まれてないのか、と感じました。

本を手に外出することが多い私はしょっちゅう本を鞄にいれて、薄いカバーだとずれたところから直ぐにくちゃくちゃさせてしまうのですが、そうした読み方はこうした人の対極にあって、こうした人から見れば「本がいたんで、お気の毒」ということになるのでしょう。ただ「本が読めなくて、お気の毒」ということではないことに思い至ります。ほんとに読んで理解しつくすまで読み込んで、活字を舌先で拾いこむように言葉を口にしている人達はいつでもそうしていたいので、本を抱え込む気持ちは分からなくも無いのですが、「奥付の印刷がひとつひとつちがうから」と個性の違う同じ本を抱え込んでにやけている笑顔には首をかしげてしまいました。

働き出して本が読めない、ということはそこまでなくて、満員電車のラッシュに押しつぶされながら人と人との隙間にはまった手に握られた文庫本のページをめくって読むことも出来ますし、考えて読みたければ自分で時間を作って読めばよいことなので、そうそう読書と人との時間は切り離せないのではないかと思います。
文庫本片手に過ごすか、書庫の中でモノという本に埋もれて悦にいるか。

楽しみ方はどちらとも。本で読むことが好きな人とモノとしての本がただ好きな人とを混同しないように、せいぜい気をつけたいものです。

孔子は4巻を切り、ページ数でいえば残りは40ページをきりました。
なんだかどんどんツンデ……いやいや。
ちょっと弟子につっこまれただけで「今のナシ。ちょっぴりからかっただけさ☆(前言戯之耳)」なんて言うのも深い考えあってのこと。
たぶん。
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くじらとルソー

2009年10月10日 | 読書
久々にいきつけの古本屋のオヤジに会いに行ったら、
近くの商店街で「古本まつり」をやっていた。

岩波の「史記列伝」が、多少状態はわるかったが5冊1200円で売っていたのを
横目で確認して、まずは一回りする。アーケードの無い商店街の道筋の真ん中に
本を並べたテントが立つ。

オヤジに似た人がいた。でもそれはオヤジではなかった。会釈をしたら小首を
かしげた。

一回りしてもオヤジは結局いなかった。鞄には本が増えてゆく。最後に「史記列伝」
を鞄におさめて商店街を後にした。いつもの店に歩いてゆく。店は開いていて、
オヤジはいつものように銭湯の番台のようなレジに坐っていた。

なんとなくほっとする。一冊文庫本を買って店を後にした。

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ちょっとだけ、ちょっとだけ

2009年10月07日 | 雑記
どうして本を読むのですか、と聞かれて、
「そこに思っても見なかった自分を見るから」と答えてしまい
すっかり河井寛二郎のことばがすきなのだな、と再確認しました。


言葉は難しいです。漢字はもっと難しい。
どうしてこんな表意文字があるのだろう。

たとえば「権」という文字がありますけれども、これは「権力」という
言葉にもあらわされるように、力を意味する言葉です。
いっぽうで、もともとの字は黄色い花の咲く木で、天秤のように
使う気、つまりつりあいや平均を表すことばでもあります。
そしてさらに、正常な状態に反する、という意味も持っている矛盾の漢字です。

これが形と線から出来てることが、もうたまらない。


ところで、「論語」を読んでいて孔子の性格にむかむかしてしまうのですが、
(自慢好きだし、しょっちゅう揚げ足取るし、すぐすねるし)
これはいったい何なのでしょう。
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雑記

2009年10月04日 | 雑記
たとえば、海が真下に見える窓辺で波の音を聞いていたりとか、川のせせらぎを真横にして畳にころがって本を広げていたりとか、あるいはただ虫の声と風を部屋に通して聞き入るだけとかともあれ、何かしらの自然と空気を共にしていると、ふっと何も考えていないことがままあります。
波でへずれて丸くなった岸壁にぼーっと突っ立っていても、大潮で増えた海水がどっと岩にたたきつける音と、波しぶきと、波が近づいてくる音と、あちこちに音はあふれているのに耳は静かで、そういう時何も考えていない自分に出会ってはっとします。「あれはきれいだなあ、これはすさまじかった、あの時は何もいえなかった」とか、いろいろと景色を言葉にするすべはあるのですが、表現しようと思えば思うほど、表現は離れてつかめなくなる。

身がぎっしり詰まっている言葉は、読むたびになにかしら別のものが見出せるのに、身が詰まっていない言葉は、流れるだけで、何かありそうで、結局言葉自体には何もなくて、文章を解して組み立ててあげないといけない。それは読むためには大切なことで、そもそもそれを読むために本を開くのだけど、どうにもおっくうに思ってしまいます。直球で来てくれることばが一番やさしい。
あらわすためにこねくりまわさず、ただあらわそうと思って選んだことばは強い。
語られていることが何であっても、です。



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