えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

:指先の色変わり

2015年07月25日 | コラム
 モニタを前にキーボードへ指を乗せてキーを押し文字を入力する。画面の白いページには文字が書き込まれてゆく。毎日のように使ってゆけばモニタに映る内容だけを見ながらキーボードを操作して文字の入力、消去、ブラウザの起動、コンピュータの強制終了などの作業をやってのけられる。ブラインドタッチと聞こえはいいが同じタッチで聞こえてくるのは音楽ではなくプラスチックがぶつかり合う単調なリズムである。たまに失敗をする。キーボードのどのボタンが対応しているか手元を見直す。二つの手がキーボードへ乗せられている。気持ち爪が白く見える気がした。

 日焼けの度合いは人それぞれで、日焼け止めクリームを塗ろうが塗るまいが均一の品質で焦げる肌の謎は今もって解明されない。解明する気がないことも原因だがやれ日焼け止め、やれ日焼け防ぎのカーディガンを使おうが季節を経るにつれてキーボードを打つ指先は肌色、狐色、こげ茶色、狐色、肌色と移り変わる。文字を打つ以外の操作をするため通常は使わないキーを確認するために手元へ目を落とす日々を過ごしながらある日色が濃くなりつつあることに気付く。明らかに日に焼けていることが分かるまではもう少しかかる。日焼けの原理自体は紫外線による火傷で健康的な印象とは真逆の傷病、冷水や保冷剤による肌の冷却が必要と熱湯を被ったり火にあぶられたりした際と同様に扱わなければならないそうで、子供のころのように眼だけが白く浮かんで見えるほどこんがりと日焼けしていると思いきや外国の方であることもしばしばだ。「焼けたね」という言葉に続く単語は「大丈夫?」や「シミできるよ?」といった、将来的な心配事にまつわる悲観的な要因へ変化した。無論「よく遊んだね」と半ば皮肉じみたコメントもあるにはあるものの。

 前から嵌めている金色の指輪の光が肌色に合わせてけばけばしくなる指先の色がどれだけ濃くなるかは、天気の気まぐれに任せられている。
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・繭にいた少女たち~「Cocoon」覚書~

2015年07月11日 | コラム
「舞台を見ているうちに、自分の記憶なのか他人の記憶なのかがわからなくなっていく」―当日パンフレットより

「マームとジプシー」の舞台を観た後はいつも魂の分からないどこかを掴まれて抜き出された空っぽの気持ちになる。
 少し早いアブラゼミの声が、夏の暑さと日差しを思い出させるように東京芸術劇場のシアターイーストで鳴いていた。間近な夏、七十年前の夏、終わったことを今日、劇という形で見つめに来ている。去年観た舞台のパンフレットの塊に紛れていた「Cocoon」のパンフレットを友人は食い入るように見つめて来年行こう、と言った。雨が隠れている灰色の雲の下を歩いて会場に入った。「マームとジプシー」の白と黒で出来た四角形の舞台の三辺を取り囲んで黒い座席が並んでいる。対角線に当たる角へ向かう席だった。

 二〇一三年に初演された「Cocoon」は七〇年前の第二次世界大戦時の沖縄で看護隊として働いた少女たちの舞台だ。原作は今日マチ子の同名の漫画。少女たちの多くを演じるのはオーディションで選ばれた人々で、劇団の人もいればそれまで劇に関わりの無かった人も多分いたのだろう。今回の再演もオーディションが行われ初演とは人が大きく入れ替わり、また演出も様変わりしたそうだ。昨年オーディションの広告を見た友人は男友達を見ながら「こいつが女だったらオーディションを受けさせたのに」と呟いていたが、多分受からなかったと思う。彼はあの生真面目で凄惨な雰囲気を演じるにはユーモアの気が多い。少女であることは、難しい。

 原作の主人公と彼女の友人のうちふたりを除いて、少女役の人たちは本名で舞台に上り、ありふれたあだなを呼び合って二時間を務める。俳優たちは交代で三人ずつ窓代わりの木枠を持ち、その奥で少女たちが廊下を走ったり鼻をほじったり出席簿で尻をしばかれ「やばい」や「超かわいい」と現在のことばが入り混じる学生生活を送る。そこへ割り込んでくる戦争は奔走の姿をとっていた。サイレンや爆音をかいくぐり、ガマの暗所で水や治療をねだる兵隊の合間を、「長い廊下」をぱたぱたと軽やかに走っていた少女たちが舞台に敷かれた白砂を猛然と蹴立てて縦横に走る。画面はあくまで白い。白い画面で一人倒れ、二人倒れるごとに、奥で機械を操作していた白髪の科学者のような飴屋法水が白く薄い布を倒れた人へかぶせて人形のように奥へ引きずってゆく。布が被せられれば、死んだことになる。もう舞台には上らない。
少女たちは手をつないで走る。スポットライトで顔が濡れ濡れと光るほど汗を流して走り、互いの名前を叫んでは一抜けたと倒れてゆく。青柳いづみが黒い服の男に強姦され泣き笑いで台詞を放つ。凄まじい。覆いかぶさる男の脇からすうと伸びる腿と脛がどぎついほど白く艶めかしい。少女のまま現実に放り出され、手をつないで走り続けた最後の一人が倒れる瞬間まで彼女は痛々しいほどの少女だった。

 既に女となった身体は十六、十七歳の嘘をつけない。少女を演じる女たちはゆったりとした白いシャツと渋染のようなキュロットを履いて女の身体の線を隠し、すずめのように飛んでステップを踏み語尾を上げて言葉を放つ。大人の女という不自然と、誇張された身振りという不自然が上手い具合に合わさり、演技が舞台からこぼれ落ちてくるように会場を巻き込んでゆく。ただの絶叫が執拗に胸を掴み、一人一人が死ぬ瞬間、死んだ後の時間は布で巻き取られて片付けられ、場を保つために必要な空気を送り続けていた。最後の幕が下りてスポットライトが消えて場が消えると同時に、心のどこかが幕と共にぷつりと切れてしまったような、茫洋とした思いを抱えて会場を出た。蝉の声は聞こえず、雨が雲からどうどうとなだれ落ちていた。
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