えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

データの残り火

2015年03月28日 | コラム
 学生の頃から続けているブログサービスの機能には、週間のアクセス数とアクセス数によるブログの番付を見る機能が備わっている。特に目新しいことを書き綴ることのないWebサイトへ訪れるものはそう多くも無く、一日に十~二十程度が私のブログの平均アクセス数だ。一方でブログ自体の数は日々増え続けており、ざっと見る限りでは一日で六百個近く、一週間で四千近くのブログが新しく出来上がっている勘定となる。参考までにこれを書いている現在は計214, 9570件、その前日は214,8995件という数値が掲載されている。とまれ数を信じればブログは毎日増え続けている。

 おやっと思ったのはブログの数が二十万を超した頃からだろうか、私のブログが番付に入ったことだった。上位十万件から表示されるという、単純換算で二件に一件は番付へ掲載されるのではという仕組みへの疑問はさておき、平均アクセス数が十名のブログが二十万超の登録件数の中で「多い方」へ数えられた点が目についた。毎日数百単位でブログは増殖する傍らブログを書く人数がブログ数と一致することは無いが、更新が途絶えようがサービスを抜けない限りブログ自体はインターネット上を彷徨い続ける。三日坊主で放り投げられた日記帳のようにブログは気まぐれに作られて放り出される。

「言いたいことはツイッターで済ませるから、ブログへまとまった文を書くことは無くなった」との知人の言の通り、手元のスマートフォンからサービスへ接続すれば言葉を発信するに事足りる現在、敢えてブログというサービスを使い続けるのは、掲載可能な情報量がそれらの手軽な言葉のサービスの許容量を超える時だ。例えば私の利用しているサービスの番付一位である漫画家の、猫を題材にした四コマ漫画を定期的に掲載し続けているように。情報量の多寡次第で使い分けられるツールの中で、ブログという形がどれほど生き残れるか、現行のサービスが続く限りは変わらずに付き合う心づもりだ。
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注目しないということ

2015年03月14日 | コラム
 電車に乗って会社へ行く。昼休みに一時間だけ渡される休憩の最中ふらふらと外へ出る、寒い日は外にも出ず休憩室に引きこもる。会社を出る。行きとは反対の電車に乗る。パソコンで痛む目をしばたたかせる。窓の外は暗い。ドアの上に設置された電光掲示板のパネルが目薬や花粉症やニュースのダイジェストで忙しくぱちぱちと切り替わる。一様に押し黙る背広が詰まった車内へ車掌のアナウンスが規則正しく流れてゆく。電車の揺れに合わせて紙の中吊り広告の端がわずかに震えている。日常のほとんどがそこに詰め込まれている人間が見ているものは、情報量としては膨大なものを目から取り入れているが、意識をして見つめたという記憶が無いためか、見たという感覚は少ないのではないだろうか。

 電車を往復する一日のひとつを取り出して視野に入った物を片っ端から挙げてみると、もの自体の量は日々膨大なものを見ていることを思い返す。けれども毎日のように眺めるもの達に変化が無いことを退屈に思う。一つ一つの物に目を凝らすことはくたびれる。たとえば手元の百円ボールペンを見る。キャップがある。プラスチックのキャップには胸に挟めるようなクリップが取り付けられており、クリップの表面にはメーカーの名前が記されている。キャップは黒で色取られており頂点には黄色い文字でボールペンの細さが記され、使用者に使い勝手を教えてくれる。ボールペンの軸は……と手に取って矯めつ眇めつするだけでも物には見かけ以上に見る点が存在するのだ。そうして視野を記憶の中から解剖するとはちゃめちゃな量の情報に辟易してしまう。だから頭は適当に情報をすぱすぱと取捨選択して人が疲れないように調整し、頭の持ち主の混乱を招かないように持ち主が必要とするものだけを取り置いてくれる。結果、いつも毎日同じものだけを見ているような錯覚に襲われるのかもしれない。

 電車に乗る。会社以外のどこかへ向かう。七つの席の真ん中に座る。頭を窓へもたせかけて外を見る。行き先は違う。窓の外の山河は動かない。窓の外の景色は朝会社へ行く時のそれと同じだ。けれど、山の頂上にかかる雲は朝よりもぼやけ、うっすらと白い影を落としていた。
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