えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

集める最中

2010年06月23日 | 読書
gooの場合、ジャンル「本」だとレビュー扱いになってしまうのですが
今日はレビューじゃない、と言っても、大分レビューじゃないのもあるか。
気にしないで続けます。

一年の間に、はまる作家をわーっと集めようとする悪い癖があるのですが、
最近心惹かれているのは武部利男(1925~1981)さんと瀬田貞二(1916~1979)さんです。
瀬田貞二さんは「ナルニア国物語」を始め、多くの児童文学を日本に紹介した翻訳者、
武部利男さんは「李白」など、多くの中国文学の研究に携わった中国文学者です。
ていねいな文章と簡潔な言葉遣いにもかかわらず、日本語の持つ柔さにおぼれない、
芯のあるものを書き上げる筆力を持つ人たちだと思います。
武部利男さんの穏やかで飄逸な日本語、瀬田貞二さんの見事な組み合わせの日本語、
どちらもどこか自分の性分が含まれた、私の好きな日本語です。

武部利男さんはともあれ、瀬田貞二さんの本はなやみます。まず図書館へ行って
かき集めるのが先決か、買ってしまおうか。
絵本を綺麗に保存して上げられる空間は私の部屋に無いので、悩みどころといえど
せいぜいがたかの知れたものなのですが、瀬田貞二さんの日本語は枕頭におきたい
骨格と品の備わった貴公子のようなことばづかいなので、やっぱり「ナルニア」
以外の何かを置いておきたいなあと煩悶しています。


それから、武部利男さんは何冊「李白」のタイトルつけたものを書いたのだろう。
そして何故あの翻訳は「白楽天」でなければならなかったのでしょうか。

ふしぎな日本語使いたちです。
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焼き物のいいところ

2010年06月20日 | 雑記
整然と整っている昼のお茶もよいものだし、濃いウォームグレイのお皿に煮物が
盛ってあるのも嫌いじゃないけれど、そこに陶器という必要はあるのかなあと
思います。

用があって久々に、鄙に住む祖母を訪ねたのですが、ふと食器棚を見ると随分ものが
増えていました。棚いちめんに、とまではいきませんが、ちょいと見かけないような
肌色に近い茶色のそろいの小皿や、唐津の地の色に刷毛を履いて薄い効果線のように
白い線をつけた湯飲み、片手では大きすぎる取っ手の無いカップなど、ガラスの繊細な
皿にまぎれていくつか陶器が置いてありました。
聞くと、引退した祖母の知り合いたちが陶器を志して作ったものとのことです。
実直なかたがたなのでしょうか、どれもいやみの無い素直な形でした。

自然に使いこなしている祖母たちの姿を見ているのが好きです。
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喋る馬の風景

2010年06月17日 | 読書
問 う な !

:喋る馬 バーナード・マラマッド 柴田元幸訳 スイッチ・パブリッシング

馬は外に向けて問いかけること、誰かに問いを受け止めてもらうことが禁じられていた。
自分に問いかけるしかなかった馬は、喋る馬だという以外のもの、喋っている馬として
喋っている何かをうっかりと見つけてしまう。深く自分にもぐった問いかけを続けて、
どんな槍が降ってきていても問いかけをやめず、痛くてもつらくても悲しくても、
馬は自分に向かって問いかけを投げ続けた。それは本質を確認するための問いだった。
唖の動物使いは答えないが応えている。馬の問いかけは受け入れられないが、確実な
答えに向かって進むよう動物使いの一挙一動が馬の問いかけを先へと導いている。

マラマッドは、誰かがことばを発すること、ということをとても細心に扱っている。
馬のことば、狂人のことば、言語をなくした人のことば、ふつうの家のことば、
どれもひと言ひと言が、よく描きこまれた風景画のように、ことばを放つ顔の首の
曲がり具合までがはまっている。
それでいて話をことばのためだけにつなぐことをしない。だからことばの組み合わせの
妙に気持ちを昂ぶらせていると話の筋に置き去りにされてしまう。
むしろ、ことばを最後まで言わせまい、ことばの深いところまで行かないけじめを話で
しっかりとつけている。どの話も(この本は短編集だ)、必ず最後にひとつの落しどころが
与えられている。作者による読者へのちょっとしたサービスなのかもしれない。

たとえばカレル・チャペックの「受難像」連作のように、登場人物のことば自体が
哲学的な構想と思考にあふれていて、互いのことばは見事な話し合いを演じていたり、
あるいは一人の思考を丁寧にていねいに書きつくすことで問いかけを与えているものは
ある種眺めていて安心するものがある。話にほうっておかれてもことばに埋もれて
安心ができるからだ。詳細に考えれば考えるほど、話の筋までかっちりとした理論で
解き明かすことができそうになり、もはや読む楽しみと言うよりは思索の一環に
過ぎなくなってしまう。

「喋る馬」はそうした問いかけだらけの本のはずなのだが、終わりはいつも整然と
片付けられている。ただしその分、すっきりと片付いた話の中に残るわだかまりは
溶かし忘れたインスタントのコーンスープのように濃い。


それでも黙っていた馬はみんなの前で大きく口を開いた。鞭打たれてもまた口を開いた。
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気づいた数

2010年06月15日 | 雑記
この記事を書く前に、昔の記事をめくっていたら、記事の件数がこれで251件目と
なっていました。はじめたのが二年前の8月なので、大体三日に一ぺんはこうした
文章を書いている計算となります。

よく続いたなあ、と思いつつ、文がだんだんと会社勤めの分別臭さをにおわすように
なっている気がして、ちょっと素直に喜べないのです。会社勤めに求められる文章は
簡潔分別理屈の三テンポ。表現力が無いね、とか、文章がかけないね、と言われる
ひと言がつくづくと刺さる一年でした。きっとこれからも刺さり続ける業です。
せめて簡潔のひとことがさらりといえて、勤めのための文に煩わされないように
ここでの文が、自分を惑わさないものでありますように。

いいものはいいと、自分が思ったとおりに受け止められますように。
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マシュー・ボーンの白鳥の湖

2010年06月13日 | 雑記
バレエは踊りなんだと感じました。からだを動かす型のひとつであり、たいへんに
熟練した全身の使い方を求めに求めるものなのだと感じました。
この舞台は指先、目線のひとつまでからだを見つめざるを得ない、動きと言うものに
真正面から向かわざるを得ない、踊りの元である動きの素を全員がぶつけてくる、
油断してみているとうちたおされている作品です。

ザ・スワンとだけ名づけられた白鳥を踊る男性が、左奥から右手前に斜めに走り抜ける
足は走りのスピードにのって舞台を軽く蹴り、目を上げると飛んでいる白鳥がいて、
また地面に足をついたかと思うと高く宙に浮いて角に降り立つ。上体は動かない。
走る足の動きも、駆けているというよりはスキップの続きのように床に触れるしぐさが
見えるだけなのに、からだの全ては疾駆している。白鳥の水をかく足取りからくちばし
のかたむきが、表現することを通り越してからだの動きの一部になっているのです。
全ての人が、自分の体の動きがなんのために行われているのかをよくよくと考えて
いるのでしょう、振る手の一つに呼吸がこもっています。

姫と王子のロマンスから一転、人々と白鳥たちとの関わりの綾の中軸に悩める王子を
据えて描いた物語は、曲ごと踊りがひっぱって進んでゆきます。あの派手で壮大で
重厚な「白鳥の湖」の一連が踊りに随っているのがなによりすごい。有名なあの
メロディも、この曲も、皆踊りに引きずられてクライマックスへと運ばれてゆく。
マシュー・ボーンはチャイコフスキーの古典を音楽は音楽として、物語はその骨組み
―王子と白鳥の出会いそれだけを抜き出しました。肝心なものは何も崩れていないのに、
さらに優れたものが目の前に現れる驚き。からだの動きに手も心も揺さぶられて過ごす
最高の時間でした。

・追記
観終わった後で、集団が動くシーンの並びや位置のズレを気にするのは日本人だけ、
と言う話になった。個人的には、西洋では普段の動きがわりとガチガチしていたから
舞台の上ではせめて自由を、ということと、日本では普段の動きがラフな分舞台の上は
厳密な型をきれいにみたい、ということじゃないかと所感。印象なのであしからず。
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モノを見る話

2010年06月12日 | 雑記
視力はよいままです。

ただ、目が悪くなってきたなあと日々感じます。


Bunkamuraザ・ミュージアム「語りかける風景」。最後までぴんとこなかった。
風景画を見るのがいちばん難しい。
いまさらながら、絵を眺めて、画かれているものをみようみようとしてしまうと、
かえって観れなくなるものなのだなあと思います。モノと付き合うにつれて
だんだんと絵と言うものがわからなくなってきたからかもしれません。

モノ以前にうつくしさということをお前は感じられているのか?という
一つの問いかけありき。
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『Free』 クリス・アンダーソン 2009年

2010年06月08日 | コラム
:Free 〈無料〉からお金を生み出す新戦略
クリス・アンダーソン 高橋則明訳 2009年 NHK出版

:立ち止まる視点

 日本語の副題はどうも違和感があってたまらない。『新戦略』なんて、本のどこにも書いていなかったからだ。副題「The Future of a Radical Price」直訳すると「革新的な価格の未来」となる。やっぱりなあ、と思った。監修した人も訳している人も、いつの間にか世界のスタンダードに取り残された(と思っている)自分の何もなさに驚いていて、副題のつけ方は、流行に一刻も早く乗らなければと焦る人をかきたてる。

 作者のクリス・アンダーソンは雑誌「ワイアード」の編集長で、かつては科学誌の「ネイチャー」と「サイエンス」の編集者もつとめていた。世の中やテクノロジーの流れを楽しみつつ、流れの行き先を冷静な視点で取り上げられる人だと思う。読者はアンダーソンの落ち着いた視点から、漠然とした現象をはっきりと見ることができるのだ。

 ここで言われるFreeとは費用からの自由、無料を指している。何かを無料で提供する手段を利用した商売は今に始まることではなく、無料サンプルなど身近な形で使われていることから話は始まる。成功の仕組みは、無料にすることで得たものをいかに生かしてお金につなげるかということだ。無料にすることで得るものとは、評判だ。評判と言う価値を利用しやすいことが無料の強みならば、インターネットはそれを膨大に、しかも簡単に集められる。インターネットで集められる評判をまた別の価値に変え、最後にお金に換えることが、フリーと言うモデルなのだ。このことを、グーグルやモンティ・パイソンやら数々の成功例を解き明かす鍵として丁寧に説明してくれている。

 本書はインターネットを主な舞台に広がるFreeをからめたビジネスモデルを、一度慌てずに眺めてみようよ、と呼びかけている。仕組みとして新しいことは無く、むしろ評価と言う価値の新しい捉え方を問いかけているのだ。ネクタイをゆるめてお茶でも飲みながら、まったり読むのがよいと思う。(800文字)
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捜索中@かつまたすすむ

2010年06月06日 | 読書
とりあえず、手元に入れられそうな物を探しています。
まずは単行本からとはいえ、古本屋のオヤジの話では、かれの漫画を発行している
出版社のほとんどが小さくて、倒産していることがほとんどらしいので、冊数が
少ないとかなんとか。

とはいえ、アマゾンさんからそのうち「赤い雪」が一冊手元に届く予定ですが、
すでに購入した二冊に収録されている作品がほとんどで、また別の本を探しにゆこうと
たくらんでおります。

紙芝居や童話の挿絵も多く画いている、というか寧ろ、絵の描き場が「マンガ」に
限られない、漫画家と言うよりは、滝平次郎のようにきまった美人の型をもった、
絵師と言う言い方のそぐう筆先の持ち主だと思います。勝又進と言う人は。

さっぱり垢抜けるということが、今のところ見えないのですが、現代を主な舞台にした
四コマと短編集を見比べていると、元々日本が着ていたものの丸み自体に、線として
色っぽくやわらかな肉感があって、作者は単にその線だけを自分の筆で絵にしたような、
肩肘凝らない絵がつくづくと落ち着きます。
それが淡白と見られ勝ちなのかも知れないですが。
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勝又進という漫画家

2010年06月02日 | 読書
古い漫画が好きだなんて言って、この人をまったく知らなかったということに
「スイマセンデシタ!」という気分です。

たてつづけに買う漫画集、一つを開けばまた一つと、同じ線のはずなのに
まったく違う表情、しっとりとした姿を描けるいっぽうで、線を減らして
気の抜けた四コマ漫画やおいろけナンセンスをさらっと描いてみせながら、
どの作品にも透徹している「かつまたすすむ」という人がわからない。
それこそ本人えがく、目のまんまるでひょうひょうとした狸のように、
いたずらっぽいが温かい表情の線なのです。

雑誌「ガロ」にいた他の作家よりもクセの少ない素直な、ある意味で単純な
線なのですが、単行本『木菟講談』の南伸坊の解説に


 勝又さんのマンガには、ごく時折、ひどく美しいシーンが、
 唐突に挿入されていて、たとえば四コママンガのオイロケ話の中にも、
 それは登場する。


とあるように、コマひとつだけではっと吸い寄せるような力があるのは確か。
「木菟講談」の裏表紙の三日月にとまるみみずくの、頭だけねむたげな狸のものと
すげかえたへんな生き物の、かったるそうな表情だけでもとてつもないなあと
魅力に混乱し続けっぱなしです。
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