えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・指先の重み

2023年04月08日 | 雑記
 また本を買った。位置も変わり以前よりも特定の国に偏るようになったものの、書店が売りたい本とは別に書店員の売りたい本がそれとわかるように置かれているので欲に任せて買う。電子書籍にすると何を買ったか忘れるためものとして手元にある方がよいと言えども世迷い言、置き場所が無ければ売るなり自分の場所を減らさなければいけない。押しつぶされるように本を積み上げて地震の細かな揺れに怯え、本が崩れることよりも本を失うことを恐れる。電子書籍にならない本もある。電子書籍は電気が無ければ読めない。人からなぜ電子書籍にしないのかと聞かれても、思い出したい時に本を電子書籍ではうまく開けないために本を買っている。
 また本を買った。よく通う店の主人がカウンターの裏でひっそりと読んでいたSFを一冊と、今月出たばかりの本を迷って一冊買った。自分の頭に対してどう考えても背伸びはしているが、たまには頭も牽引しないと本が入らない。本は実態がなくとも文字の数で人を押しつぶすことができる。指先に沈むビニール袋の伸び方がそのまま文字の重みである。
 家には本が待っている。郵便受けにゆうパックが突き刺さっていた。置き配よりはなんとかましな光景だと思いながら抜き取ってボール紙の間に指を入れて破り、プチプチクッションに梱包された本を取り出す。今日何冊新しい本を手に取ったかは忘れた。手元には本を読めない時に活字へ自分の頭を戻すための薄い文庫本の怪談集が置かれている。
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・万年筆の話

2021年07月04日 | 雑記
『ロリータ』の冒頭でハンバート・ハンバートが舌先で玩弄する発音のように、万年筆の筆先から走るインクはノートの繊維を潰さずに滑って文字を形作る。船腹の骨組みのような機構の曲げ伸ばしが金属のペン先を支えつつインクをペン先へと運び、筆圧に応じた量のインクが定められた幅に従い流れ出す。単純に美しい道具だと思う。人から貰い受けてペリカン製の吸引式を一本手に入れて数ヶ月経つが、小さな玉の回転でインクを吐き出すボールペンよりもペン先という金具で書いているような手触りがする。

 ペン先を折り曲げたりペン先を修理したりという描写を小説で見かけているせいか、プラスチック製の本体のこの万年筆でもペン先は修理してもらえるのか、吸引の仕組み部分を修理してもらえるのか、という不安は拭えない。筆圧が強すぎると折れてしまいそうな反発が返ってきたら、その日の書きものはやめている。

 気がつけば筆記用具は貰い物で溢れているが、この万年筆に慣れたらもう一本を誂えてもよいかとも考えている。生き物のように手入れが必要なだけに、書きものをする人の愛着が道具から見える思いがする。なくなる鉛筆よりも、メーカーの機嫌次第で替芯がなくなるボールペンよりも、この道具は長くそのままでいてくれるだろうと信じて。
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碼頭姑娘((mǎ tóu gū niáng) 『還願』挿入曲「港のお嬢さん」 意訳

2021年04月25日 | 雑記
※明らかな超訳です。ご笑覧いただければ幸いです。

大海滿是波浪    海は波しぶき
不見船入港     港に船はなく
她站在碼頭     埠頭にわたしは立って
遙望著北方     遥か北を眺めている

青絲飛上白霜     わたしの黒髪が白くなっても
心還惦著他      心にはあなた
信裡沒說的 那句回答  手紙にはいつまでも 書かれない返事

傻傻的姑娘戴一朵花 等著他回來呀 髪に挿頭したお嬢さん 無邪気に待つの
小小的嘴 藏不住話        小さな唇に たくさんの言葉秘め
都唱成情歌呀           恋を声に乗せた

青山依舊 歲月如常 也不見她悲傷  山は昔のまま緑 としつきは過ぎても
有情的人 別問她 你還願意嗎?   同情するなら 聞かないで
                 まだ待つのかと

大海滿是波浪  波立つ海に
不見船入港   船は来ない
她站在碼頭   波止場でひとりきり
遙望著北方   遠い北へ思い馳せる

青絲飛上白霜     髪が白くなろうと
心還惦著他      心にはあなた
信裡沒說的 那句回答  手紙には 白紙の返事

傻傻的姑娘戴一朵花 等著他回來呀 髪に挿頭したお嬢さん 無邪気に待って
小小的嘴 藏不住話        小さな唇に たくさんの秘め言葉
都唱成情歌呀           歌う恋がこだまする

青山依舊 歲月如常 也不見她悲傷  山は昔のまま緑 としつきは過ぎても
有情的人 別問她 你還願意嗎?   同情するなら 聞かないで
いつまで待つのだろうと

傻傻的姑娘戴一朵花 等著他回來呀 髪に挿頭したお嬢さん あえかに留まる
小小的嘴 藏不住話        小さな唇に たくさんの言葉を詰めて
都唱成情歌呀           忍ぶ恋を歌う

青山依舊 歲月如常 也不見她悲傷  山は昔のまま緑 としつきは過ぎた
有情的人 別問她 你還願意嗎?   同情するなら 聞かないで
                 いつまでも待つのかと

若有來世 你還願意嗎?  生まれ変わっても また待つのだろうか
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Zebrahead『Hello Tomorrow』 意訳

2021年03月11日 | 雑記
*ガリガリのロックながら、この曲だけはメロディラインやリズムが日本人によく合う気がします。
 好きな一曲なので、自分のことばにしたくなりました。
 英語の解釈違いなどは苦笑いとともにご笑覧下さいませ。

Hello tomorrow and good-bye to yesterday
We’ve been waiting for this moment
And we still don’t know what to say
We may never find the answers or know the reason why
Why we both decided we should say good-bye

こんにちは、明日。そしてさよなら、昨日。
この時をずっと待ち続けていて
お互いに何と言うべきかまだ掴みかねていて
たぶん答えは延々と見つからないし理由はいつまでもわかることはない。
どうして「さようなら」を言いそびれているんだろうね。

Nothing but good thing are coming my way
If you are going please let me stay
You bring me down when I’m getting high
You turn me on, I amplify

ぼくにいいことなんて起きるわけがないが
もしきみが喜んでぼくを引き止めてくれるなら
高ぶるぼくをきみは天地無用に振り回して
ぼくを変える、どこまでも大きく。

1-2-3 times you’ve broken me(Broken me)
1-2-3, 1-2-3

一、 二の三できみはぼくを壊す。(ぼくを壊せ)
一、二、さん。一、に、さん。

I won’t bleed like this forever
I’m down to ride but my wings are severed
Blindside blitz evacuation
I’m stuck in hell your on vacation

血を流し続けたくない。
ぼくは翼をもぎ取られて落っこちてゆく。
見えないところから排泄された雷に撃たれて、
きみのお戯れの地獄へぼくは嵌りこむ。

I’ve been waiting
Waiting for the day
I’ve been waiting
Waiting for the day
I’m still waiting for tomorrow
Tired of living in yesterday
I’ve been waiting
Waiting for the day I’d be over you

ぼくは待ち続けている。
その日を待ち続けている。
ぼくは待つ。
来たる日のために。
ぼくは明日のためにまだ待ち続けている。
昨日を生きることに疲れてしまった。
待っている。
きみのところへ辿り着く日を待っている。

Oceans, devotions, these notions run dry
Floating away and I don’t know why
Spend all my days in a bottle thinking
You’re like an anchor got me sinking

海のような愛に献身、そんな概念は干からびて、
知らないうちにふらふらしながらどこかに行ったよ。
狭い了見にぼくの毎日を費やしていると
きみは錨のようにぼくを深みへ沈めた。

1-2-3 times you’ve broken me(Broken Me)
1-2-3,1-2-3

一、二、三できみはぼくを壊す。(ぼくを壊せ)
一、二、さん。一、に、さん。

Say good-bye now and mean it forever
Got to move on and keep it together
Forget the things that you’ve said and you’ve done
That’s in the past, here comes the sun

今言う「さよなら」は「ずっとさよなら」って意味。
上へ上へと這い登ってきみの側に居続けたっけか
きみのことば、きみの振る舞い、全部忘れたよ。
なにもかもが過ぎたことなんだ。ほら、日が登る。

1-2-3 times you’ve broken me(Broken Me)
1-2-3, 1-2-3

一、二、三できみはぼくを壊す(ぼくを壊せ)
一、二、さん。一、に、さん、

Hello tomorrow and good-bye to yesterday
We’ve been waiting for this moment
And we still don’t know what to say
We may never find the answers or know the reason why
Why we both decided we should say good-bye

こんにちは、明日。それから昨日、さようなら。
ぼくらはこの瞬間が来ることを待ち続けていて
それでもまだ言葉を探して口ごもっている。
何を言うべきかとか、こうなった理由とかがわかる日は来ないだろう。
どちらからさよならを言おうか、決められないままだね。

Hello tomorrow
1-2-3
I’d be over you(Hello tomorrow)
1-2-3
I’d be over you

明日にこんにちは。
一、二、さん。
ぼくはきみのもとに行くよ。(こんにちは、明日)
一、に、さん。
きみのそばに行くよ。
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・お茶の淹れ方

2020年08月29日 | 雑記
家に居続ける時間が続いているということは、それだけこの時期はとみに、飲み物が必要になる。
水道水が十分においしいので水だけでも満足だが、外へ出てペットボトル飲料を買いごみを増やすのも考え物のご時世のため、
安い茶葉を買って大量に煮出し、空きペットボトルやプラスチックの容器に詰めて冷蔵庫で冷やしている。
緑茶は確実に苦みが強くなるのでやめ、プーアル茶や紅茶など発酵した茶葉を適当にかき集めて煮出す。
中国茶は味と茶葉のえぐみが濃すぎる一煎目を棄てなければいけないので、まずは少量の水を沸騰させ、適当にティースプーンで
茶葉を放り込む。しばらく置いておくと鍋がごとごとと震えだし、アクの強いプーアル茶は特に、細かい粒の泡が鍋のふちまで
湧き上がるほど膨らむ。薄いチョコレート色の泡はクリームのように一見食べられそうにも見えるが、泡の間に浮かんでは沈む茶葉の立てる
香ばしいにおいがきつく鼻の奥を刺激する。

適度な茶こしがないのでザルにあける。お茶を煎れる・淹れるということばから想像される優雅な動作とは無縁の
夕飯のためにじゃがいもをゆでるような無造作でシンクに赤黒い液体が流れてゆく。紅茶の場合は蓋をして軽く蒸らすと味が濃くなる気がする。
茶葉をザルにあけて水を鍋いっぱいに足し、沸騰するまで待つ。あまり時間を空けずに湯が沸くので何か他のことをする余裕は
思った以上にない。小さな気泡が鍋の底から水面に浮きあがってはじける頃合いを見計らってザルの茶葉を入れる。
たまに跳ねた水が親指を焼くが気にしない。気にしていてはこんなに乱暴に茶葉を扱うことなどできない。
茶葉を入れて火をつけると泡の代わりに沈んだ茶葉が水の表面へ入れ替わり立ち代わり浮き上がり、開いた茶葉からあっという間に
茶が煮出される。濃い目が好きなので鍋の底が見通せないほど黒く煮出してから火を止める。たまに止め忘れて強火のままつけっぱなしで
茶葉に残った悪がさらにぶつぶつと泡を吹き出し、水がコンロにかかって火が消えてしまうこともあった。
忘れずに火を止めてザルとボウルへ注ぎ込むと黒々とした水がボウルに溜まり、蒸発した水が白い煙となって鍋の左右から消えてゆく。

こうして煎れた液体はほどほどに角が取れ、それぞれの茶葉の味を残しながらもさっぱりした風味の液体になる。
一応「茶」だと思ってはいるが、久しぶりに立ち寄った専門店の数揃った道具を前に入れられた茶を口にした後では、
砂糖のない清涼飲料水の一種として取り扱っている。
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・間のできる時

2017年01月01日 | 雑記
 おせち料理を皆でいただいて福袋の売り出しに行き、ほどほどに疲れて帰って軽く眠る。起きると日が暮れている。何か手に取ろうかと思っていても「正月だから」と自分を甘やかしてぼんやりテレビをつける。この時のテレビが割と問題で、だいたい二時ごろお昼寝お昼寝と布団に入って起き上がると四時ごろ、特番までの約二時間半(あるいは三時間)まで絶妙に空間ができる。現在進行形で放送している笑点すら本来の放映時間を取られて「本番はまた来週」仕様にされているほどの空隙だ。

 先日から始まりピークを〇時で迎え、深夜をはしゃいで休憩をはさみ朝を迎え福袋の確保に急ぐという、人によってはそれが通常の職業の方もいらっしゃるだろうが大体の人にとっては微妙に大変なスケジュールをこなすと本格的な休息時間は二時ごろになるのではなかろうか。なんとなくこのところの自分の行動パターンを見直した以上の証跡はないが。
 怠惰の二文字で終わっても仕方はないものの、やはり眠るのが一番よさそうな気もする。

 なお初夢は「一月二日」に見る夢なので、今日焦って宝船の絵を枕の下に敷かないようご注意ください。


 二〇一七年の冒頭から二〇一八年の話をするのもどうかと思いますがそろそろ本ブログも来年あたりで一〇周年を迎えようとしております。文字だけ、文章だけという制限の大きいものの伝え方を通じて考えさせられることも徐々に増えるこのごろですが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
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・過ぎ越しの夕べ

2016年12月31日 | 雑記
 夕方が来る。先週の華やかな騒ぎとはうってかわり明日を控えて街は静かだ。存分に外へ出たろうと26日以降のテレビのCMは家で過ごす時間を増やすかのように年末の特番やおせち料理の宣伝へせわしく映る。準備を準備をと連呼するがカレンダーをよく読まなくても正月を迎える準備に必要な日数に5日は少ない。これが会社員ともなるとよほどのことがない限り28日まではお勤め、それから大掃除やら何やらをしようとしてもごみの収集やおせち料理の予約(あるいは材料の買い集め)は大体28日で同じく仕事を納めており一旦12月の前半のどこかでクリスマスを忘れていないと正月の支度というものはそうそう難しい。

 12月31日の大晦日は忙しく流れるそれまでの30日を振り返るかのようにどこか茫然としている。6時半か7時頃始まる特番か、除夜の鐘や初詣でのための外出の支度にもまだ早い夕暮れの時刻は切り替えの支度に疲れた人への休みの瞬間にも思える。どこか駅前の騒ぎに紛れ込みたくて外に出ようとすると、ゲームをしようときょうだいから誘われてなし崩しにゲームキューブで遊び、気づくと窓には夕暮れが迫っていた。あと八時間が二〇一六年となり、外はゆるゆると寒気を増して夜に向かっている。

**

二〇一六年も拙文をお読みいただいた方、そうでない方もありがとうございました。
昨年書いたよりはまだブログというメディアの在り方はそれなりに意義があるようですが、今年は文章というものの見せ方を考える機会が多かったように思います。
来年も淡々と続けるだろう拙文にどうぞお付き合いいただければ望外の喜びです。

よいお年を過ごされますように。
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・見世物小屋のこと

2016年11月12日 | 雑記
「あ、セブンイレブンだ」
 新宿花園神社の混雑を抜けた彼女の発した第一声には奇妙な安堵の響きがあった。
「明日も明後日もやの明後日もありません、今日限り本日限りの見世物でございます……」
 距離にすれば十メートルほどだろうがもっと遠いところで叫ばれているようなバンダイの呼び声を後に私は彼女の手を引いてビルの並ぶ街へ戻った。
 初めて見世物小屋に入ったのは大学生の頃だったと記憶している。友人がしきりに「へび女」の物珍しさと彼女が引退することを力説していたので連れ立ち新宿へ行った。

 毎年酉の市に合わせて境内へやってくる見世物小屋の近くに行くと先ず口上がさらさらと耳に届く。合間に演目の変わり目の合図の銅鑼が鳴り、入り口の周囲には人が熊手を持ったまま勇み足を踏んでいる。「さあさあどうぞ」と、そんな人々を牛舎へ追い込むように男が客を入口へ追い込む。流れに乗って幕をくぐると既に演目が始まっている。立ち見だ。地べたから舞台に対して斜めに滑り止めのついた板を立てかけ、前に入れない(近寄りたくない)客は板の上に立って太夫たちの芸を見る。演目が進むにつれてだんだんと人に流され、気づくと演目を観終わるころ出口についている。「お代は見てのお帰り」の口上の言葉にたがわず観客は出口へ向かう。出口には二人の小母さんが座っており手前の小母さんに千円を渡し奥の小母さんから二百円のお釣りを受け取って出た。外では相変わらず口上が肉声で続いている。ぼうっとした気分でその場に立っていた。その場に今度は私が案内として友達を連れている。

 かつて訪れたときは薄暗かった小屋はこうこうと明るく、「樺太から来た野人」なる三人組が舞台で足を踏み鳴らして叫んでいた。それに負けじとマイクを握った銀色のボディースーツを着た女が野人たちに次々といろいろなことを命じる。「いろいろなこと」は、次の二の酉に見ていただくとして割愛するがその日の演目は「樺太から来た野人」「鼻の芸人」「中国の達人 串刺し!?」「やもり女」の四つだった。演目に決まった時間はなくぐるぐると決まった順番に沿って太夫たちは小屋が閉まるまで芸を続ける。なので客はすべての演目を観るまで小屋にいて構わない。もちろん、途中で出て行ってもよい。トリの「やもり女」は記憶違いでなければ昔「へび女」の後を継いで薄暗くあおざめた舞台に上がっていた美人だと思う。やはりこれも詳述すると楽しみが減るのでもどかしいが、彼女の芸は演目のいかがわしさに加えて艶めかしい。「へび女」の時は髪を下し着物を少し崩して着ており、芸は体を張った、一歩ずれるとわざとらしい笑いにつながるものだが彼女はそれを何食わぬ顔で色っぽくしてのける。始まりから終わりまで叫ぶのは客のほうで、彼女は一言も口を利かず司会の声に合わせて「やもり女」の肉感的な芸を見せた。今はやもり女と化したへび女のしぐさに唸る私の隣で同行者は見事に言葉を失って固まっていた。

 その彼女が見世物小屋を出て発した「セブンイレブン」は、祭りの騒々しさといかがわしさを圧縮した空気から自分の知る普段に戻るための一言だったのかもしれない。神社の雑踏から離れるにつれ舌が回りだした彼女を観ながらそんなことを思った。
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待年望春

2015年12月31日 | 雑記
晴れにしようか曇りにしようか、灰色の雲で空を縞模様にしながら悩むような天気を
窓からぼうっと眺めていたら出かけるにも中途半端、家に居るにも腰の据わらない
妙な気分になってしまって、結局エアコンのフィルターの掃除を手伝った後は
部屋で腰かけてたんたんと掘り出した『鎌倉ものがたり』の文庫を読みふけっていた。

時々掃除機の音がする他はなにもない。

昔、冬休みがまだあった頃は掃除するものや場所が沢山あって、それに狩り立てられるように
この一日を過ごしていたけれども、場所が個人の年月の緩やかな堆積に固められて出来てくると
だんだんに場所は家とつかず離れずいるにかかわらず、その部屋に籠った誰かの年月に
押し出されるような気配が醸し出される。
そのせいか、この部屋には雑文をパソコンで打ち込む私のほかには誰もいず、誰も来ない。
掃除が一段落したのか、家の中はおさまりが付かないものが散らばりながら
嵐の前のような凪が漂っている。

遊ぶ声もなく外は静かだ。

外の梅木は今年もまた、日の温かさに惑わされて花を開いている。

静けさに閉じ込められたまま、今年の終わりと来年の始まりを今は迎えていたい。

―――
二〇一五年。
ブログを始めてから振り返るとどれくらい日にちが経ったのでしょうか。
分からないままに書き進めてまいりました拙文を読んでいただいている皆様、
そうでない皆様、本年もありがとうございました。
そしてよいお年を越し、新たな年を楽しく迎えられますように。
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・ペンと紙と手

2015年10月24日 | 雑記
 花見の桜の下で鞄を開いた時、ごくごく自然に友人が「手書きなんだね」と言った。彼女の視線の先にはノートと筆箱が顔を覗かせていた。

 MDSのOKフール紙を40枚閉じたA4のノートとUniのシグノの0.38ミリ芯のボールペンを5年ほど前から使い続けている。紙の肌理が滑らかなおかげでどんな道具を使ってもインクは染みずペン先も引っかからず、ペンごとの書き口で使い勝手を変えながら書き味のすべり心地がよろしい。もらい物の太字のCrossのボールペンを使えば字は丸く、しかし勢いに任せた字に変わり、シグノの0.38ミリ芯は尖った針で刻むような硬い字ができる。

 休日用の鞄には両面テープ(まだ一度も使った事は無い)と筆記用具、それからA4のノート、A5のノート、透明なクリアファイル、中身のおそまつな巾着袋、財布諸々が詰め込まれる。ふと思い立ったとき思った事を書き留めるには都合がよさそうで悪い。ノートを開くにはまずノートを開く場所と空間が要り、筆記具を取り出すには筆入れを鞄から探してさらに目的の筆記具を筆入れから抜き出さなければならない。手で何かを物するには文字通り手間がかかる。
電車でノートパソコンを広げてプラスチックのキーをガチャつかせている背広よりもみっともない。電子化してしまえば清書の手間、修正の手間、暇つぶし、調べもの、印刷とのちのちの利便を踏まえればキーをガチャガチャするほうがよっぽど良い。紙とペンを使うのはそれがそれ以外何もできないからで、ガチャガチャはインターネットに繋がろうがつながるまいが読み物を漁ったり動画を見たりコンピュータゲームをプレイしたりと気散じの道具が取り揃えられているので、さぼり癖の人間にはとても優しく誘惑的な道具である。一方で紙のノート君は白紙の現実をひたすら突きつけてくる、食べられないおかずを前に絶望する小学生の前に立つ教師のように冷徹だ。だからノートを開けば書く事以外にすることがない。罫線入りなのでへのへのもへじ式の落書きもどうやら惨めになる。無表情に量が手に重い。ペンはペンでインクの残量を透明なプラスチックを透かして書いた量というものを明らかにちらつかせる。

 ペンを時々紙から浮かせて足を組み直し、窓辺を眺めてノートを見下ろしながら言葉や図をインクの線で組み立ててゆくやり方は不合理だ。それゆえに生じる妙な距離感は、手の使い方から生じるものなのだろうか。
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