えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・けだるい油分

2019年05月25日 | コラム
 伝法院通はまっぷたつに分かれている。片方にはこの地で生まれた人々が代替わりをしながら商売を続けてきた老舗が並び、もう片方は店が入れ替わり立ち代わる。歩く人々の大方は油のしみた紙袋を手にしてほおばりながら、老舗の前に立ち止まってはハトのように追い払われている。表参道の裏通りも浅草メンチ、牛かつの店が軒を連ね、人込みを避けようと脇に入ればたちまち油の匂いに取り囲まれる。
 その日は間が悪かった。天気も良く日差しも穏やかで、大勢の人が浅草寺に詰め掛けていた。表参道も裏通りもぎっしり人がつまり、隙間を縫うこともできずみな粛々と寺のほうに歩いてゆく。向かいからは雷門通へ帰る人たちが、うちわのような油ものを持って近づいてくる。避けようもなく、人の熱気と揚げ物の熱気で細い路地はたちまちフライヤーの中へと一変していた。
 ほうほうの体で伝法院通に辿り着いても人の波は本堂へと続き、参拝は諦めて伝法院通からオレンジ通りの喫茶店を目指してとぼとぼと歩いた。軒並み人は油ものを手にしてかじる。油かすや紙袋がむげに放り捨てられている。台湾唐揚げなるイタリアのカツレツのように平たい唐揚げを売る店は大勢の人が列をなし、蛇のように道の両端へたむろしていた。「今日の分は終わりです」と大声を張り上げる店員は道の真ん中を占有している。鶏、豚、牛と浅草寺本堂手前になまぐさものの種類が揃った形だ。
 広々とした伝法院通もその日は空気に油が浮かんでいるようで、トガリネズミのように常に食べていないと体がもたない人たちは日陰にまとまってものにかじりついている。どうしようもないほどものを口に運ぶのをやめない。
 辟易して通りを出ようとする間際、すれ違った制服姿の中学生たちが「メンチ?うちでも作れるよ」「おいしいのかな」「知らない。東京まで来てメンチなんか食べたくないし」と涼やかに言い放って過ぎ去っていった。
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・ジャン・レー覚書(『新カンタベリー物語』『マルペルチュィ』『ウイスキー奇譚』)

2019年05月11日 | コラム
 めまぐるしく比喩が飛び交いながら冗長にならず、地口のように軽妙で滑稽な酒場の高ぶりがジャン・レーの怪談の妙味だ。1887年にベルギーで生まれ、十代の終わりから二十代を船乗りとして過ごしたジャン・レーは、三十歳ごろに本格的に文筆の道へ進むために船を降りた。船乗りの経験は『マルペルチュイ』の冒頭にとある島を嵐の中で発見する船乗りたちの描写や、『新カンタベリー物語』『ウイスキー奇譚』へアクセントのように登場する船員たちの猥雑ながら生き生きした姿に現れている。

多くの作品を残し、うち邦訳は四冊出版されているがいずれもほぼ絶版で、創元社の怪談やSFの選集にもまず登場しない。文庫版の『新カンタベリー物語』の表紙のジェームズ・アンソールの絵の雰囲気がそのまま文章になり小説のかたちをとったものがジャン・レーの作品にそぐっている。

 怪談の時代からすればゴシックの晩年に分類される作家だが、M.R.ジェイムズやエリザベス・ボウエン、ジェイコブスなどイギリスの作家が得意とする幽霊譚とはまた違った、市井のやかましさやせせこましさといった普段着の生活から「奇妙」を生み出すことがうまい。たとえば『新カンタベリー物語』で語り部の売れない作家がクラブに出席し、友人とともに酒場「陣羽織」へと向かうまで、読者は作家の身の丈に合わないスノッブさに付き合わされるわけだが、酒場の扉がいざ開かれた途端に彼は語り部たちに打ちのめされる。そして「カンタベリー物語」よろしく語りだされる物語はいずれも劣らぬ奇怪で、グロテスクだ。

 それから家庭料理がとみにおいしそうに書かれる。『ウイスキー奇譚』の、墓守にごちそうされる「なんとも見事な鳥のギャランチーヌ」は「金色のソースにどっぷりつかっていて、口に入れると溶けるんです。柔らかい肉と、トリフと、ピスタチオと、ピーマンと、極上の脂身が入った、とろりとしたクリーム」で墓守を魅了する。ほぼ真っ暗な裏通りの大衆食堂で沸き立つようにむしゃぶりつかれる『アイリッシュシチュー』は湯気を立てて訪れた男の胃袋を刺激する。気軽につまむ料理がおいしそうであればあるほど、料理から引き込まれることがらがよりおぞましさを増す仕掛けというわけだ。

 こうした奇妙のありさまは、『ウイスキー奇譚』収録作の『見捨てられた天文台』の天文学者の独白にわかりやすい。
「おれは不安になっているのだろうか?
 なんて奇妙な夜なんだろう!なぜ、こんなに奇妙なのだろう。なぜ、こんなに奇妙なのだろう?さっぱり解らない。おれを怖がらせているのは、パイプでも、このコーンビーフの缶詰でも、ディケンズの小説でも、この赤道儀でもない。でも、こういったものはみんな、おれに何となく不安を覚えさせるんだ!」

 この「何となく」がジャン・レーの怪談のおもしろさで、同じく『ウイスキー奇譚』の『夜中のハビッシュ氏』はまさに「何となく」の犠牲者でもある。ハビッシュ氏は「何となく」夜を酒とともに楽しく過ごしたかっただけなのに、その「何となく」のおかげで彼の心は千々に乱れ、唐突に決断を下してしまう。じわりと迫るようなこわさよりも、ふっと帰路に足を滑らせてしまいそうな微妙が、大胆な文体の陰にいつも隠れている。『マルペルチュイ』に巻き込まれた人々が最後はすべて口を閉ざすのは、その微妙の秘密を守るためなのかもしれない。
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