えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

<遊び心のプログラム>ゲーム「を」遊ぶ、ゲーム「で」遊ぶ

2014年09月27日 | コラム
何かを遊ぶとき、主語と述語は言葉が発せられる時々に応じて好き勝手に変わる。では助詞はどうだろうか。コンピュータゲーム「を」遊ぶのか、コンピュータゲーム「で」遊ぶのか、二つの助詞に触れてみよう。前者はコンピュータゲームの仕組み「で」遊ぶこと、後者はコンピュータゲーム「を」使って遊ぶこと、というイメージが沸く。何が異なるのだろう。異なるのは遊びの場の範囲だ。

ゲーム「を」遊ぶとき、プレイヤーが遊ぶ範囲はゲームに予め規定されたルールの範疇にとどまる。たとえば『スーパーマリオブラザーズ』「を」遊ぶ時、プレイヤーはルールに則って最終ステージに立ちはだかるボスを目指して主人公のマリオを操作し先へ進んでゆく。一方ゲーム「で」遊ぶとき、ここでは遊びのひとつに“ゲームを「使って」遊ぶ”という新しい遊びが登場する。ゲームのルールに従いながらも、ルールに示された目標の外に遊びの範囲が広がってゆくのだ。先述の『スーパーマリオブラザーズ』のルールは「制限時間内にマリオを動かしてゴールまで辿りつく」ことが目標とされる。ただしマリオは特別な条件を満たさない限り敵やトゲなどの仕掛けに触れると挑戦回数が減ってしまう。挑戦回数が無くなるとゲームは失敗となり、最初からやり直しとなる。このルールに則ってプレイヤーは制限時間内に敵を倒したり避けたりしつつ挑戦回数の範囲でゴールするようマリオを操ってゆく。

さて、このルールで設定されている目標はただ一つ「コースに定められたゴール地点へ制限時間内に辿りつくこと」である。けれども単にゴールを目指すだけではなく制限時間という要素に目をつけ、より早くゴールする・あるいは制限時間ぎりぎりにゴールすることを目標に設定することが出来るのはプレイヤーである。この時プレイヤーは『スーパーマリオブラザーズ』に新しいルールを付与し、ルールはコンピュータゲームの作成者とは別にプレイヤーによって拡張され、新しい遊び方が生まれる。ルールの付与によってプレイヤーはコンピュータゲーム「で」新しい遊びを楽しむことが出来るのだ。

その遊びを生み出す行為は別の遊びのルールの一環として『スーパーマリオブラザーズ』というコンピュータゲームが含まれることと言える。遊びはコンピュータゲームを離れてプレイヤーのものとなり、プレイヤーの遊びはコンピュータゲームを使うことで生まれてくることになるのだ。

ゲーム製作者がそのプログラムされた範囲外の遊びまでを意識してコンピュータゲームへ要素を挿入している場合も当然考えうる。『スーパーマリオブラザーズ』にはゲームのルールには直接触れない得点という要素があるが、この要素によって「より高い得点を競う」という遊びが生まれる。得点自体はコンピュータゲームに設定された既定である。しかしそれを競い合うためのルールはプレイヤー同士で設定するコンピュータゲーム外のルールだ。コンピュータゲームのプログラム内容はあくまでゲームの目標達成条件と失敗条件に限られ、プログラム以上の要素はコンピュータゲームに設定された要素の範囲外となる。詰め込まれている目標は遊びの拡張ではなく、遊びを作り出すことが「を」と「で」の間に横たわる溝だ。コンピュータゲームは遊びの要素を提供するが、それからどれほどの楽しみを作り出すことはプレイヤーの想像力のテストである。
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<遊び心のプログラム>実況と動画

2014年09月13日 | コラム
 プロバイダ契約や自前のホームページなど面倒事なしに、大容量の動画を誰でもインターネットへ投稿できることが広まるにつれてコンピュータゲームのプレイヤーは当然のように「自らが遊ぶゲーム画面」の動画を投稿し始めた。アクション、ノベル、RPG、ジャンルを問わずに多様な“遊び方”を投稿する者が数を増やす中、画面だけにとどまらずまるでスポーツの解説者のようにゲームプレイヤー自身の言葉を音声として付与した“実況動画”が登場した。

 実況動画とは、プレイヤーが遊ぶゲームについて解説や感想などをゲームを遊びつつ“実況”する動画である。喋ることはプレイヤーに応じて様々だが、人気のあるプレイヤーの中には企業から依頼されてラジオのような看板番組や発売直後のゲームを宣伝のために実況しつつ遊ぶ者もいる。かくいう筆者もそうしたアマチュア番組製作者の動画を楽しむ一人だが、自分が遊んだことのないゲームを誰かが遊ぶ様を眺めているのはテレビのように気楽だ。あくまで実況の対象となるゲームを遊ぶのは画面の向こうのプレイヤーであり閲覧者ではない。閲覧者の立場はプレイヤーではなく観客である。

 たとえばホラーゲーム「サイレントヒル4」や「零」などアクションゲームを中心とした『訛り実況』というシリーズがある。タイトルの『訛り』はプレイヤーの独特の口調に対してファンがつけた呼称である。このプレイヤーは一度ゲームを隠し要素含めて自身で遊びつくしてから、多くは最高難易度で幽霊やゾンビを巧みにかわしながら淡々と喋り目的を果たしてゆく、プレイヤーの遊びとしては二段構えを取っている。画面で行われる操作は無駄がなく、かつ説明が要を得てわかりやすいため未プレイの人間でもゲームの見どころや面白味を窺い知ることができる。閲覧者である観客は、彼の上手な遊び方を楽しみながら一人では怖くて出来そうもないホラーゲームの世界を堪能することが可能だ。

 『訛り実況』に限らず、実況動画では閲覧者を退屈させないようプレイの過程をカットや早送りで省略する手順が良く取られる。テレビ番組と同じく美味しいとこどりを閲覧者はしているわけで、プレイのために必要なコントローラの操作やロード時間など、実際のプレイで体験する要素を忘れてしまいそうになる。この要素が曲者で、製作者側からしてみれば過程を含めて全体を味わってほしい所を、抜書きの実況動画でさも遊びきったような錯覚に陥り実機を触らない閲覧者の存在が彼らを苛立たせる。けれども一方で、そうした実況者が省略したものを見たいと思い立ちゲームを手に取りプレイヤーとなる者も存在することを制作側は見逃していない。先に述べたような人気実況者への依頼が一例である。

 実況で紹介されたり映像で流される裏側にも楽しみが隠れていることはコンピュータゲームもスポーツも同じである。他の人の遊び方を自ら紹介してくれるゲーム実況は興味深く楽しめる動画コンテンツであることを、閲覧する側は自分も手に取る、あるいは既に遊んだ知識を踏まえて彼等の「遊び方」を注意して観るのも一興だと思う。
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