えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

人生読書は本より何事

2010年07月29日 | 読書
価値観とは自分を別のものの中から見出すことで、モノを選ぶことはまさに
そのものずばりなのだということを読んだ時は素直にうなずいた。今はすこしずつ
深まる考えがうなずきをとどめようとする。それでも、自分が選んでいるものは
まちがいなく今の自分のあり方や、ものの見方と深く結びついていて、あるいは、
意図しないところでぎくっとする事象やことばに出くわして、やはり自分から逃れ
られないということを確認しては、気味が悪くなるいっぽうで安定した居心地の良さを
感じる。それがまた気味が悪くなる。

比肩して自分に押し込めないで、その人はそのままありのままに受け取りながら、
またその人のあり方に自分を見るような、二重のものさしが、モノにおぼれないためには
どうしても必要なありように思える。自分に帰ることがかえって足かせになっている
今の読書、どうしたものかと思う。

幼稚園のころに戻って、字と文をありのままに受け止める練習をもう一度するべきより、
誰かの選択に身を全てゆだねてみるのが早道なのだということはわかっている「のだが」
わがままに落ちる。
本の傍らにいるのに飽きているのか、本の傍らにいる自分に呆れているのかはよくわからない。
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地味な追加

2010年07月20日 | 雑記
このブログのフォーマットがちょこちょこと変わっていてよいなあと思います。

とりあえず今の時点で、

・簡易プレビュー画面が追加されたこと
 画面そのもののレイアウトを見せてくれないのは難点ですが、字が大きいのは
 確認がしやすくてよいかもしれません。
 ただ、改行した場合、画面にどのように配置されるのかがイメージが掴みづらく、
 もったいないところです。

・設定部分がしまえること
 下書きや日時の設定、先のプレビュー画面などが、任意で表示、非表示を変更
 することができるようになっていました。プレビューを出していると投稿ボタンが
 遠くなるので、一時的にしまうと便利です。

・コメントの削除欄にスパム通知機能がついたこと
 コメントを削除する際、普通に削除するボタンのほかに、削除と同時にスパム通知を
 行ってくれるボタンが追加されていました。世知辛い上にどの程度効果があるのか
 わかりませんが。

こんな変化が見つかりました。
システムを変えてゆくのは大変な作業ですし、使いやすいものにするということは
よけいに想像しづらいかも知れないのですが、こうした細かい仕事は好きです。
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ぼんやりとしていると

2010年07月14日 | 雑記
…ちょっと一瞬、何も書かないまま記事をアップロードしてしまいました。
表題どおりのネタで大変よろしくないです。

いろいろと訳文を読んでいるのですが、翻訳だからということが小説など
すじのあるものは気にならないのですが、詩は難しいなと思います。
翻訳したものの何を読んでいるのかと自問自答すると、翻訳された作者よりも実は、
翻訳しているその人を読んでいるのではないかと思うのです。

特に漢詩を読んでいるときは、対象が自分にもある程度読めてしまう分、よけいに
作者そのものに近づく難しさを味わっています。

音が読めなければ、詩は何もならないのかもしれません。
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いまさらながら

2010年07月12日 | 読書
:「屍鬼」 集英社 小野不由美原作 藤崎竜漫画 2008年
:「屍鬼」 新潮社 小野不由美作 1998年

派手なわりに鋭い線の持つ刃物のような冷たさに気づいてから久しく手に取らなかった
藤崎竜の漫画をもういちど読んでみようかな、と思い至ったのは、アニメ化を宣伝する
電車の液晶広告を見てからでした。ぽっかりと埋められた黒い瞳の少女たちではなく、
厳しい表情の顎の尖った少年でもなく、目を惹かれたのは棺を運ぶ黒い葬送の群でした。
トーンの無い白と黒の影、人とその手に持った幡が平等にまっすぐで、棺の陰が土手の
線と平行に重なるようにすっきりと塗られ、きつい日射しと葬儀の極端な白黒が、真夏の
焦れた沈黙を一コマに閉じ込めている。藤崎竜は止める絵が上手いのだなと腑に落ちました。書き文字で「カオーン」と称された葬儀の鐘か何かの音が、夏の沈黙をいや増しています。

人口1300人程度の外場村にて、夏から晩秋にかけての4ヶ月に起こった奇妙な惨劇を描いた
「屍鬼(しき)」は、1000ページを越える小説をもとにジャンプスクエアにて連載されている
漫画です。小説では一人の主人公を追う形ではなく、複数の中核となる違った立場の人物
達をおいた上で多くの人々を彼らの周りに配置し、事件は村全体のものとして受け止めら
れるのですが、漫画ではもう少しスポットを中核となる登場人物たちに絞って、小説の
前半の大半を占める村内の関係性の説明はすぱっと省いています。

漫画家の「封神演義」を初めて手に取ったときは、奇抜なデザインにもかかわらず洗練さ
れた絵に釘付けになっているだけでしたが、徐々に話が佳境にかかるにつれ強くなる主人
公たちの真顔が、妙に重々しくて、笑顔もかんたんに受け取れきれない複雑さが現れてからは、
手に取り読みはするけれど、話に拒絶されている間隔は最後まで抜けませんでした。
その複雑さが、「屍鬼」の世界にはよくあっていると思います。追い詰められてゆく人々
の緊張感の昂ぶり方、それぞれの登場人物が抱える背景と関係性、恐怖の忍び寄り方を、
ほどよく按配する複雑な計算が、すっきりと漫画の流れで整理されているのは壮観です。
老婆やおっさんの死骸がやけにぬめっとしていてリアリティがあるのはご愛嬌。
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平凡のなかで

2010年07月05日 | 読書
夜、庭を歩くと、くちなしの湿った甘い香が漂ってきました。今日の雨の夜、
ふと湿った空気をかいで見ると、くちなしの甘さにまぎれて凛とした匂いが
いそいそと漂ってきます。夜にまぎれて濃いピンクと黄色のオシロイバナが
咲き始めました。

:カレル・チャペック「平凡な人生」 成文社 飯島周訳 1997年

20章から始まる文章の加速と立ち止まりが、どうしようもないほど主人公の
心臓の激しい脈となって作品のなかでうちつづけている。それまでは表題どおりの、
内気ながり勉少年が成長して駅につとめ、物静かで献身的な奥さんをめとり、
駅長になり、妻を亡くし、一人園芸を共に生きてきた男性の生涯の半ばが
たんたんと、時に思い出したかのよう弾む鼓動のリズムに合わせて語られる。
ひとりの男性の回想記と言うことで、この一連の文章は全て彼の衰えた心臓の
脈拍のテンポに沿って描かれているのだ。

「ホルドゥバル」「流れ星」「平凡な人生」の三部作は、カレル・チャペックが
40歳頃に一作ずつ書き上げていった、晩年の一歩手前に近い作品だ。三部作とは
いえ、登場人物の誰も互いに関わりあうことなく、独立した小説のひとつずつとして
読むこともできてしまう。だが、三部作なのだと流れに乗っかると、それぞれが
一人の男の死、それに対する人のものの見方を、全く違った視点から描いている。
第一作「ホルドゥバル」は社会の規範から、第二作「流れ星」は、死者の死に際に
関わった彼の人生とは全く関連の無い第三者から見た彼を、本作では死に向かう
本人自身が自分の死に至る道を書くというかたちで、徐々に死の対象の内側へと
向かう思索がなされている。

主人公の男性は、自分の人生が平凡だったが故に、平凡な人生も偉大なる伝奇と
同様、書き記すべきだと筆を取った。己の人生をゆるやかに思い出しながら、
感傷的に進む筆がある日止まる。三週間後にもう一度筆を取ると、男はもう一度
平凡な人生と言うことそのものを考え始める。


 わたしたちのそれぞれは、単数ではなく複数のわたしたちであり、
 それぞれは群集で、目に見えぬかなたへ消えてゆく。
 ただ自分自身を見てほしい、きみ、実際にきみはほとんど人類全体なのだ!



男が見つめなおしたのは、人生のそれぞれの場で起きた選択の数々だった。
選択をやりなおすことではなく、自分が選んだその時点が単純な一本の線ではなく、
自分自身と言うものが単一のものではないことに気づく。たくさんのものを
含む自分と、たくさんのものが投影される自分以外の絶対多数に気づいたとき、
男にとっての「平凡さ」ということがどんと語られる。

でも、チャペックは語り部である男ではなく、そこで最後に、彼の手書きを受け取った
医師と老紳士にスコープを戻した。ぽんと男の人生は放り出される。チャペックは
つくづくと舞台が上手いと思った。
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