えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・言葉の終わりに

2022年12月31日 | コラム
 言葉を操ることができるのはこれから特権になっていくのかもしれない、とぼんやりTRPGのリプレイや実況放送を見ながら思う。このゲームはプレイするルールにも左右されるが「演技」や「演出」のためにゲームを引っ張るゲームマスターには語彙力や知識が多量に求められ、なおかつゲームプレイヤーをまとめ上げる力も必要とされる。常に勉強が求められるゲームでもあり、ゲームにかこつけて勉強をすることもできる。プレイヤーに足を掬われないように理解と勉強と、そして彼らを説得するための言葉の力が必要とされる。
 TRPGに限らず言葉は表現する・できる・仕事とする人間の特権となりつつあるのかもしれない。誰かに何かを自分の言葉で伝えるということは、自分の中にある思いを他者へ伝えるという行為であり、そこには答えの見えない他人との関わりが存在する。コンピュータゲームのように結果は最初から決まっていない。答えのない場所へ自分を投げ込まなければいけない。そこに不安を感じないために言葉を重ねれば重ねるほど空回りして、伝えたいことすら言葉で覆われてしまう。会話は言葉の発展にとって重要だ。行き着く答えがないためだ。「伝達」という機能の多くを機械に担われつつある現状、言葉の減少した肉体の社会がどのような急激な変化を見せるかわからないまま、自分に引きこもりつつ外に怯えている。

 今年も一年拙ブログにお付き合いいただきありがとうございました。毎年のように書いておりますが、コロナが流行って以降急速に人と機械との親和性は高まり、相反して人間の生身同士の親和性が薄まったように思えます。その間を埋めるはずの言葉すら機械の、たとえば予測変換といった、そこに本当に自分の考えが浮かんでいるのかもわからない選択に流されて過ごしているに連れて自分の言葉が失われていくような感覚を覚えさせられる経験が多かったような一年でした。
 来年もまた激動の世界と社会の中で自分は自分にこもりながら生きていくことでしょうが、とりあえずは今この文章を読んでくださっている皆様にとって、また僭越ながら自分にとっても兎の一跳ねのような飛躍が訪れますよう、切に願う次第です。改めて本年もありがとうございました。
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:読書感『優雅な生活が最高の復讐である』カルヴィン・トムキンズ著 青山南訳 田畑書店 二〇二二年十一月

2022年12月24日 | コラム
 何に対しての復讐だったのだろうという問いが出てしまうことは読書に失敗したということだ。カルヴィン・トムキンズの『優雅な生活が最高の復讐である』はジェラルドとセーラのマーフィ夫妻の一九二〇年代のフランスの生活を中心とした短い伝記である。ではこの夫妻は何者なのかというと、まずスコット・フィッツジェラルドの知己であり『夜はやさし』の主人公夫妻のモデルである。だがフィッツジェラルドの筆は夫妻をそのままに描いたものではなく、筆を進めるにつれて自分自身が主人公像に混ざり、最終的に出来上がった主人公の姿はジェラルド・マーフィとセーラ・マーフィとはかけ離れたものになった。偶然二人と知り合ったカルヴィン・トムキンズはこの夫婦の類稀な魅力に気づき、老いた二人から過去の話を引き出すことに成功する。問い方が良かったのだろうと思う。フィッツジェラルドを始めフェルナン・レジエ、ヘミングウェイ、ピカソ等々、錚々たる芸術の顔触れが夫妻のフランスの生活を華やかに彩り、二人もまた彼らから好意以上のものを以て迎え入れられた。トムキンズの筆は大家への深入りを避けてマーフィ夫妻を彼らから的確に汲み取っていく。本には夫妻の写真とともに、ジェラルド・マーフィが残した油絵がカラーで収められているが、読めば読むほどこの人が絵筆を持ち続けられなかったことを勿体なく思うほど物を真摯な目で見て再構成しようとしながら、誰にでも描かれている物体とそれに対してジェラルド・マーフィが感得したことがわかる力のある絵だ。その人が絵筆を取り続けられなかったのはアメリカの家業を継がざるを得なかったためで、フランスを引き払って以降の生活は短くまとめられている。咲き終えた花を押し花にするような手付きで二人の話を中断し、完全に人生を描き切る代わりに二人をフィッツジェラルドが小説へと落とし込もうとした働きと作品への二人の批評を以て〆られている。その間の生活は鮮やかに華やかだ。静かなヴィラを買い、友人を招いて海水浴に行き、船を買って子供たちと遊ぶ。簡潔に「趣味の良さ」と書かれる生活の詳細は所々に見つけることができる。たとえばフィッツジェラルドに割られた、セーラの金細工が散りばめられたヴェネチアン・グラスのワイングラスといった小物に、庭から切り取られてゼルダ・フィッツジェラルドの胸に飾られる牡丹のように。
 二人の娘が永遠に続くことを願った美しい光景が消えるとともに、二人の人生には子供の連続した死やアメリカの不況、フィッツジェラルドとの不和など努力ではどうしようもない出来事が降り掛かってくる。この心乱される人生に対する「復讐」が、自分自身の感性で「優雅な生活」を過ごすことなのかもしれない。青山南のそっけない訳が引き立てる文章の綾を取りたい。
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・読書感『昏乱』 トーマス・ベルンハルト 池田信雄訳 二〇二一年十一月 河出書房新社

2022年12月10日 | コラム
 こんなに石を噛むような、それでいて掴みどころの無い感触の小説を現代に書く人がいるのか、と思いながらページを捲ったあとがきには本作の初出が一九六七年と書かれていて納得した。トーマス・ベルンハルトが築いた『昏乱』の頑固な迷路のような言葉の骨格は読者を選別する。頑強な骨格を更に渦潮のような引力が取り巻いている。「混乱」ではなく「昏乱」という造語に違わず、ドイツ山中と思われる田舎の辺村という小さな密閉空間の中で息を詰まらせる呆然とした視界の中で、人が自然に任せて死んでゆく。章題のない前半と、「侯爵」と題された後半に分かれているが、これは一日の物語だ。
 街の大学に通う「ぼく」は帰省して町医者の父の往診に散歩がてら付き合うこととなる。
「二十六日、父は早くも午前二時にある教師の往診のためザラへ向かったが、死に臨んでいたその教師が息を引き取るやすぐにそこを出て、年明け早々煮えたぎる熱湯を満たした豚処理用の桶に落ち、いまは病院から両親のもとに戻って数週目になる子供を診にヒュルベルクへ車を走らせた。」
 往診へ向かったその時間、別の宿屋では女将が酔っ払いに頭を殴られて打ちどころが悪く、生死を彷徨っていた。語り部の「ぼく」と父が支度を整えて玄関を出ようとすると宿屋の亭主が女将の往診を頼みにやってきていた。車の中で母の死について語りながら父は「校長夫人」と呼ぶ老女を訪問する。死の淵に差し掛かっている彼女が今も生きていることを確認すると、糖尿病の実業家と昼食を囲み歓談して製粉所へと足を伸ばす。長い時間ある場所にとどまっているはずなのにそれを感じさせないほど、流動的に薄暗い死を背景とした人間が静物画のように書かれていく。
「ぼくたちはこの上なく密にいっしょでいながら、みんなが完全にばらばらだ。
 人生全体が、いっしょになろうという闇雲な試み以外のなにものでもない。」
 母の死をきっかけに自殺衝動へ捕らわれるようになった妹と辺境から離れようとしない父を眺めながら「ぼく」は寄り添うように父に従って人を眺めて自分の言葉を残してゆく。だが最後に訪れた「侯爵」は思考の隙を彼に与えることなく、城壁を巡りながら滔々と日が暮れるまで語り続けて止まない。父と息子の関係であったり、雇人と主人であったり、妻と夫であったり、土地と自分であったりと、これまで「ぼく」が往診で目にした人々から感得した感情を代弁するかのように語るが、あくまでそれは侯爵の人生であり「ぼく」の現在でも未来でもない。ようやく侯爵の口が閉じて解放されたその晩の夜、まるでそれが自分の物語であるかのように「ぼく」が侯爵の言葉をノートに記すところで小説は終わる。
「昏乱」という言葉は至る所で影を落とす。妹から侯爵まで全ての人が自覚しながら掴みきれない何かのために心乱され、それを少しでも整理するために生身の医者の往診を必要としていく。医者の父の治療はカウンセリングのようだ。けれども父もまた「昏乱」の渦を旨に抱いていることは「ぼく」の耳目から伝えられる。二重の語りを通じて忍び寄る雪のような静けさは、狂気に沈みきるその時に見えるものなのかもしれない。
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