えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

<遊び心のプログラム>番外編:町のクレーンゲーム2

2014年11月22日 | コラム
 看板の電飾が消え、文字が剥げたその一角にはとうとう入り込むことが出来なかった。おそらくは地元の中学生や高校生が、休日や放課後友達と服を競い合いながら歩くレンガ色のブロックで舗装された商店街の一角を眺めまわして見つけたゲームセンターは既に店を閉めていた。代わりに道路へ面した大通りのタイトーステーションが、東京に置かれた筐体と何も変わらない姿のUFOキャッチャーに「取れない」のつぶやきで賑わっている。新しく入荷された人気キャラクターのぬいぐるみやパスケース、フィギュアやタオルなどラインナップすら変わらない。景品の置かれ方もマニュアル化されているのだろう、たとえば二本の棒の間へ商品を垂直に置き、いかにも手前へ持ち上げて落とせばすぐに取れそうに見せ掛けながら実際は二本の棒の間に商品を落とさなければ取れないように「設定」されている。試しに百円を入れて動かした。先に金属の爪のついた、おもちゃのようなプラスチックの腕が左右に大きく開き、景品の下へ潜り込んだが予定通り持ち上げることは出来ず、元の場所からまったく動かすことも出来ずに戻ってきた。チェーン店だ。当たり前のことだ。つまらない百円だった。

 では駅前はどうかと期待したものの、今度は今度で閑散とした大通りと裏手に並ぶ飲み屋街はゲームセンターという、飲み屋街が勘弁してくれそうな軟派な建物のつけ入る隙はなかった。もしかしたらあったかもしれないがあまりにも裏道が閑散として、駅まで五百メートル圏内にも拘らずほぼ半分がエロ小説と漫画で占められる本屋や傾きかけて人がいるのかどうかも分からない木造建築の間へゲームセンターを期待するまで街を信じきれなかった。
 さすがに駅前徒歩三百メートル圏内には駅ビル、アミューズメント施設があったものの駅ビルには当然のごとくゲームコーナーなどなく、やっと見つけた三階建てほどのアミューズメント施設の表の入り口はパチンコだった。なんだかゲームセンターへ行くこと自体が悪いことのように思わされる誰もいない白壁のフロアをぐるりと回り、階段が一人分しかない細いエスカレータに乗ってゲームコーナーへ行った。

 想像していたよりもそこは広かった。部屋の面積の半分以上はメダルゲームか競馬ゲームかプリクラ機で占められているだろうとの予想とはうらはら、ドーム型のお菓子を落とすゲーム機やUFOキャッチャー、アーケードゲームの筐体が大きく場所を取っていた。ネオンのけばけばしい照明が却って今まで歩いていた街並みの寒気を取りはらうようだった。勇んでうろうろする。機械こそ変わらないが景品のことごとくが垢抜けない。たまに最新の景品があったかと思うとその隣に何食わぬ顔で巨大なスヌーピーが脈絡もなく鎮座している。誰もが知っているがUFOキャッチャーへ挑戦してまで取るべきものか迷うぎりぎりの判断に置かれた景品たちが並んでいた。アームの開く角度を調節するという機械など目を惹かれるものはあるものの、「挑戦するか否か」の選択からは迷った末に外れる。といったずれ加減を喜びながら一円も入れず去ってしまった事が今どうにも申し訳ない気持ちをかき立てている。
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・一挙手一投足の沈黙(友枝会「紅葉狩」)

2014年11月08日 | コラム
 無風の湖面に石を投じた漣のような歩みが観客を静まりかえらせた。美女のオモテに綺羅の装束をまとったシテの友枝昭世は赤い着物のワキツレを従え松を過ぎ越えながら、四つの柱で囲まれた本舞台へ足を踏み入れた。能「紅葉狩」は女たちの宴から始まる。やがて自分を討伐するワキの男を誑かすため、シテの鬼は女へと姿を変えて男を待つ。諸国廻りの僧侶のようにシテの登場を待つのではなく、この能ではワキは本来自身が座るべき右手前の柱で待ち構えるシテの作り上げた場へ飛び込まなければならない。橋掛かりからシテの本舞台へ踏み入る宝生閑のワキ平維茂の足運びは、緊張を保ちながらもするりとその場へ見事に溶け込んだ。

 平維茂が名乗りを上げ、互いの連れ同士が詞をやりとりする中、かれは微動だにせずそこにいた。―あれは何だろう―といったものが、思わせぶりな素振りひとつ見せずそこにいる。それは舞台の空気を一点に押えている文鎮だった。

 やがてかれは男を迎えるために立ち上がる。周到にいじましくしどけなく、かれはワキを脇座へ追いやり、シテとワキの対角線をつくりあげた。支度の終わりを告げるように手を軽く上げ、舞いだす。緩やかに緩やかに、対角線の先に端坐するワキと扇で酒を酌み交わす楚々とした足取りの合間に時折床をとん、と、音を立てずに力を込めて足を下ろす。かれが足踏みする度にワキの姿勢は崩れ遂には上半身を傾け、扇を持つ左手を中空に浮かせたまま停止する。

「かくて時刻も移り行く 雲に嵐の声すなり 散るかまさきの葛城の、神の契りの夜かけて 月の盃さす袖も、雪を巡らす袂かな」

 その停止を切欠にかれは広げた扇をきっと全身で翻して間を斬った。それまでは振り返る、うつむく、首をかしげる仕草に合わせてオモテは含み笑いを漏らしたり、不敵な笑みを浮かべたりとワキが目覚めている間は確かに艶のある女であったものが、扇の一線でこれから表す姿を重ねて舞っていた。全く別のものに変わる直前のどちらでもないものが内に込めた鬼の力強さを仄めかしているのだ。これから鬼へ変わる、しかし姿は女である。女と鬼を行き来するその舞はかれのまとう着物よりも鮮やかに写った。かれが女である時は終わり、憚ることのない足踏みは音を増して舞う手は鋭く、しかし執拗にワキの眠りの深さを推し量りやっと、作り物の山へと姿を隠した。女でもなく鬼でもないものの舞い納めの瞬間だった。

 ワキはその光景を目にすることなく、目覚めた目前に立つ鬼を太刀で討つ終わりをただじっと、中空に酒を重ねた盃である扇を持ちながらこれも微動だにせず待っていた。
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・型の強み(友枝会「蝉丸」)

2014年11月08日 | コラム
 悲しみの型が「悲しみの型」に見えてしまうのは、観客の目の問題だけなのだろうか。

 蝉丸と逆髪、二つのオモテが織りなす能『蝉丸』では、動きに恵まれた逆髪と異なり蝉丸は殆ど首を動かさずに悲しみを作り上げなければならない。蝉丸に許された動作は真直ぐに立つか、背を伸ばして座るか、首を大きく傾ける仕草を削いだ感情を押し殺すための所作のみである。それ故「臥し転びて泣きぬ」という詞に合わせて前かがみになり顔の前へ押し抱くように出す両手と、同じく捨てられた身の姉逆髪と二人で目の下へ交互に手を被せる二つの蝉丸に許された悲しみの型は観客の哀れみを強力にいざなう。

 ただ今回の蝉丸はどうにも落ち着かなくて、面すら緊張にこわばる無表情に留まっていた。一方の逆髪もまた似たような尻の座りの悪さを感じたものの、立ち居振る舞いが蝉丸よりも多いおかげで「正気を保ちながら狂わなければ生きていけない」女を、オモテが型に依って生かしていた。だが、逆髪の物狂いの悲しみは弟の蝉丸の悲しみの深さで決まる。

 彼を見つけた途端、今までにこやかに狂っていた女の足取りが止まり、手慰みの笹を落として呆然と立ち尽くした後にはっと正気が戻るのだ。そのため折角二人で向かい合い悲しみを放出する瞬間も蝉丸の無表情で「型」に留まり、悲しむことを顕すまでには至らなかった。オモテは動きに合わせて勝手に表情を作ってくれる。しかし、動きがない時のオモテの顔は役者の佇まい一本で決まってしまう。

 それでも観客が悲しみを受け取ることができるのは、型が悲しむことを示しているためであり、連綿と伝えられた型に従うことでオモテも生きるよう能は巧みに仕組まれている。
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