えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

本格的スタートの嵐

2009年05月29日 | 雑記
「あたしはあたし、この人はこの人」

そうやって向かい合うやりかたもある、ってことを

長年知らなかったので、

上をねめあげるか、下を見下ろすか、

首が痛むほどそうしていて、今も、そうしているのだと思います。


書き出しがアレですが、肩肘はリすぎて力が抜けずに困ってるだけ
だったり。しょんぼりです。
細かいことまでキッチリやろうとして大局が見えないのは
困ったもんです。気づくとやっていてよけいにしょんぼりなのです。

あんまりしょんぼりしていてもしょうがないので、
最近よくローテーションしている音楽を整理してみました。

:洋楽もの

・フーバスタンクとかトワングとか
・スコーピオンズの東京ライブ版
・ユーライアヒープとか
・エアロスミス
 総じて暗めのアップテンポ。

・サラ・ヴォーン(若めの・旧めのどちらでも)
 若い頃の写真がとんでもなく美人。
 声はいわずもがな。ほどほどにセクシーでほどほどに
 ハスキー、力の加減がちょうどいいです。

・マイク・オールドフィールド(テクノ)
 昔は耳が痛かったのですが、最近聴けるようになりました。

・アヴリル・ラヴィーン
 自分の生意気そうに聞こえる声をよーくわかっているプロ。

・スコット・ジョプリン
 ほんとは作曲が天才的だったから残ったのかも知れない。

・ドラマ「サンダーバード」サウンドトラック
 外国のサントラなので、オープニングは歌がなくて、オーケストラだけ
 聞ける。日本のコーラスも好きだけど改めて聞くと、曲の運びが丁寧で
 スキがない。

・ガンズ・アンド・ローゼズ(新旧)
 時々よろしい。

:Jポップス

・エゴラッピン
 ジャズにはまった元凶。「くちばしにチェリー」のイントロとか。
 背伸びする不良。

・日本ブレイク工業社歌
 「お約束」のプロ。

・上野茂都(三味線)
 ネタまみれ。でも曲はよく聴いているとするめのように味が出る。


:それ以外

・「Nights」のサントラ
 ゲーム音楽と普通の音楽の、ぎりぎりの線でつくられた
 サウンドトラック。

・上海バンスキング(吉田日出子の)
 愛してます。

・NHK「みんなのうた」(1990年くらいの旧いやつ)
 ムダに名品。

音楽はいろいろあって選びがいがありますね。
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スコット・ジョプリン:「KING OF RAGTIME」より

2009年05月28日 | 雑記
本配属が始まります。
今度こそ、今までのように、こうして文字を書き記すことが
どんどん難しくなってくると思います。
でも書き続けます。必ず書きます。
どうか、名前を知っている方も、もしかしたら名前を知らない方も、
時々は読んでやってください。
おねがいします。ぺこり。

今日は大好きなピアニストの音楽を紹介します。
スコット・ジョプリン(1868~1918)はアメリカのピアニストで作曲家です。
「The EnterTainer」の曲が、1973年アカデミー賞作の映画『スティング』
で使用されたことで評価が一気に上がりました。
逆に、代表曲と言うとこれだけのように聞こえたり、
スコアが紹介されていたりはしますが、是非一度、本人の演奏を聞いて
ほしいのです。もう100年前とかそんな曲ばかりですが。
ユーロビートやジャズの源流となった、ピアノが跳ね回るような
指運びを聞くと、かえって落ち着かされてしまう暖かい音楽です。


:「Pine Apple Rag」(1908)

スコット・ジョプリンの「パインアップル・ラグ」は二分四十秒からはじまる。

有名なイントロを持つパインアップル・ラグの後二秒ほどの間が空いて、
もうひとつのパインアップル・ラグは堂々と登場する。

「ラグの王様」とのジャケット、黒鉛で描かれる黒人のピアニスト、
調律のされていないピアノはキーを叩かれてカン高く歌う。
指先が見えるんじゃないかとおもうほどすばやく音階が移動し
和音が叩きつけられる。たくさんのラグにまぎれながらパインアップル・ラグは
あの有名なイントロをかき鳴らして登場した。
そして二分四十秒。激しいダンスを踊る人の足が切り替わるようにメロディが、
音がかわる。1903年のパインアップル・ラグは前半から
映画『スティング』で聞いたときの倍のスピードをもって演奏されるが
その速さよりももっと速く、明るさを増した演奏が為されるのだ。
そしてパインアップル・ラグは聞き手を置き去りにして自侭に踊りだす。「Pineapple Rag」と書かれているからこそそう聞こえるのかもしれない、
それほど別な曲が突然として一曲の後にあらわれる。
なにより間が存在すること、本当は別の曲だったことを示唆するのかも
しれないが一曲として収められている以上これは繋がりだ。
わざと間をおいて聞き手をじらしながら再度サビのメロディを歌う
いやらしい演出とは無縁に、純粋な呼吸のための間は踊りが
切り替わるための必然な一瞬。ピアノ引きの呼吸が見える一瞬。
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百目鬼恭三郎著:「続 風の書評」読了

2009年05月26日 | コラム
批評ってなんだろうと考えました。
こう、もうちょっと爽快なほうが健全でいいですよね(何が)
あと日本エッセイスト協会賞、読んだことの無い人ばかり受賞していて
びっくりしました。


:ダイヤモンド社 「続 風の書評」 
百目鬼 恭三郎(どうめき きょうざぶろう)著 昭和58年

--書評の書評

「風はやんだ。著者諸君、枕を高くして眠りたまえ。」
匿名の「風」氏は週刊文春の連載を、こんな言葉で終らせた。
頭の先からしっぽまで、そっくり返った文章である。かといって
じっくり読むと可愛げがじわじわしみてくるタイプの著者でもない。
博覧強記の言葉そのものだからこそ、居丈高な発言でも納得を
持たせられる論理をもった、非常にきちんとした人なのである。

 百目鬼恭三郎(1926-1991)は、朝日新聞の文芸部で編集委員を務め、
1976年から1982年まで、週刊文春に「風」名義で書評を送り出した。
本書『続・風の書評』は、1980年から1982年までの連載分を収録した
本である。舌鋒鋭い文は当時の筒井康孝や佐藤愛子など、
多くの作家を敵に回し、最後には職場の朝日新聞を半ば喧嘩ごしに
退社した。その後も文筆活動を続け、『奇談の時代』で
日本エッセイストクラブ賞を受賞している。

 新聞記者の水を吸ったせいか、非常に論理的な文の書き方をする人だ。
たとえば林直道の『百人一首の秘密』という本に対し、
林の語る論を分量にしてわずか10行でざっくり、
「経済学者のお遊びとうけとっておく。」
との皮肉なまとめまできっちり筋道だっているので、
言葉が痛烈でも納得させられてしまう。
どのコラムも、対象の本の内容を簡潔に冒頭でまとめてあるため、
内容を知らずとも著者の論にすんなりと入り込めるのだ。

 ただ、『風の書評』に限ってはあくまで批評であり、読み物ではない。
いうなれば間違い探しと持論の展開に終始しており、客観的に見えて
実は自己主張が激しいのだ。作家を匿名で正確に批評した上、
『岩波現代用字辞典』など人の盲点を突いた本の紹介まで続けるのは
並みの人間には出来ない。けれどそこまでだ。まとめて読み進めると、
「もう13行目だし、そろそろひけらかしが来るぞ。あ、来た」
と固定された論調が鼻につくようになる。
言葉がきついぶん、文章のマジメ一方さが痛々しい。(800字)
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雑考・オタさんたちについて

2009年05月24日 | 雑記
今日は、全面的に文句なのでどうかスルーしていただければ結構です。
とにかくがっくりな一日でした。

――

本日、某ゲームの同人イベントに足を運んだのですが。

こうした始まりからすると読み手には、
「あ、このひともオタクだ」となりますね。
その中で「たしなむ程度」という言葉はけっこう有効だと思うのです。

先にわたしは「たしなむ」人です。と前置きをしておきます。

「オタクだ」とその方が勝手に思われるのはともかく、
面と向って遠まわしにそういわれるのが気に染まないのですね。
客観的に見ても、自分がそうでないとした判断を押し付けられるのは
好みません。オタク、については後述します。

前置きが長くなりました。


以前よりも足を運ぶサークルを、目がどんどん限定しだしたので、
なんとなく底が見えてきたのかなあと思いました。
文は、よっぽどのことが無いと買わなくなりました。
たいがいのアニメ絵とBLの細い線が苦手で絵の好みということもあり、
結果はほぼ「てっ」ということになりました。

二次創作は、決して原作を超えないのはお約束です。
というか超えるほどのクォリティがどこかにあれば、
まず間違いなく自分の好きな方向へと創作に行きます。
だからどうしても、原作側が用意した枠組みの中でしか動けない、
そうしたくくりを「心地よい」と感じられるかどうかが二次に
はまるかどうかの分岐点だと思います。
どんなに想像を膨らませても、基点はやはり原作に置かれています。
つまるところキャラクターと言う「記号」に、メーカーから与えられた
お墨付きがないとダメみたいなのですね。
ここらへんが、オタクが異端視される理由じゃないかと思います。

自分達は絶対に創作の領域へコミットしないのに、創作物への愛着を
ひとしおに持っている分その狭い領域への執着が強い。
それゆえに、はまっている時はそこしか見えず、横への知識の拡張が
なく、発展性が非常に少ないのです。
(というか、原則としてイベントの場では対象ジャンルの話をしに皆来て
いるので、そう見えるのは仕方ない点も当然ありますが)

よく見られるオタさんに、知識をとうとうと開陳なされてご満悦のパターンが
浮かびますけれど、言葉の端々をひろってゆくと実は何も考えていない方が
多い。
その人の愛着は見えるけれど、そこから何を考えてゆくか、何を見出したか、
ということを、普通の視点で立ち戻って見直すということがないので、
結局そこから生み出されるものは一時の流行でしかなく、現象でしかないので
モノとして残ることがありません。
こうしたことは、とみに自分では創造しない「二次創作」のオタクに
当てはまると思います。

そうした目で見た今日のイベントは、ざっと見ても気を惹かれるものが
殆どなくて(さすがにコスプレは見事でしたけれど)、メーカーの発想が
婦女子な方面に媚びたせいか、彼女達の妄想の幅が狭く、ただ全てにおいて
着想のこわばった、趣味の悪さに染め上がっており、

「どうしょうもないなあ」

このジャンルもそろそろ末期かなあと思いつつ会場を後にしました。
また一つ趣味が消えそうでがっかり……してません。
きちんとした末路を辿って欲しいと願うばかりです。
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過コラム:皆川亮二「Peace Maker1」(2008年4月)

2009年05月20日 | コラム
ネタがまだぎりぎり新しめなうちに挙げとこうと脈絡なく。
皆川亮二は話も絵も、あふれる爽快感が図抜けたまんが家だと思います。

:PEACE MAKER(月刊ウルトラジャンプ連載):皆川亮二

 漫画でも何でも、基本的に「明るい」作品がすきだ。言い方を変えると、作者の
ユーモアや楽しみが見える作品がすきなのだ。どんなに話が暗くとも、作者がどこ
かでちらりと見せる息抜きがあると明るくなる。ずーっとシリアスな顔つきをして
いたキャラクターの顔がたった一コマふっと隙を見せる瞬間、描いている人間の愉
しみがちらりと見えて途端に雰囲気が和らぐのだ。

 現代を舞台にした『AREMS』『スプリガン』などの作品から一転、南部アメリカ
のような西部劇を舞台に、しょっぱなからカラーページの贅沢なつくりから物語は
始まる。そこから15ページ、セリフは一切ない。この15ページは淡々とドラマティ
ックに仕上がっていて、人をしっかりと引き込む魅力的なイントロに仕上がってい
る。主人公の青年、ホープ・エマーソンは17ページ目で姿を見せるが、ここでも作
家の押さえが利いているので彼はすっと物語に溶け込んでゆく。そこから徐々に主
人公の力を見せてゆく盛り上げ方も、フキダシや効果線で強調することはせず、
四角いフキダシを守ったまま感嘆符でけりをつけてさっぱりしている。
絶叫に飽いたひとには嬉しいページの創り方だ。

 この作家は前作でも本作でも、キチガイを描かせると内面の描写も動かし方も吐
き気がするほど的確に描くのだが、本作ではマトモな主人公たちの表情を、小さい
コマの笑顔までくっきりと変化させて描いている。たとえばカジノのシーン、主人
公の相棒がチップを手に連勝してゆく部分では、たった4コマの一つ一つすべてに
違った表情が描かれている。この表情の書き分けに、作家の余裕と言うか愉しみが
見え隠れしていて、しごくクールな話の展開が重くは無いが軽くも無く、先を先を
とページをめくらせてくれるのだ。

 まだ1巻と言うこともあるが、ツボを的確に押さえた話の進め方なので、この一
冊で物語を形作る大まかな謎を読者に把握させる話の作り方はエライ。次の巻を愉
しみに待てる。
(792字)
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むっつり読書

2009年05月19日 | 雑記
とりいそぎ。

林春隆さんの「豆腐百珍」に目を通しました。(読んでない箇所が…)
引用連発で久々に古語に触れて頭をひねりましたが、豆腐というテーマで
一人でこれだけ質の良い引き出しを持っていて(江戸時代から引用が
はじまるのです)、トーフの思い出までちゃっかりと文をしたためて
まとめあげているのですがその随筆がまたうまくて。
むかしの人の随筆はあんましはずれが少なくて好きです。

あと、ひぐちアサの「家族のそれから」を買いました。
わりと古いまんがですが、そのひとのルーツが分かるまんがは
読んでいておもしろいのでやっぱり好きです。

めっぽう好きな漫画家の新刊については、なにか言おうと思って一月
過ぎてしまいました。

総じて、じぶんの普段着の話がへたくそで、聞くのはもっとへたくそで、
コミュニケーションダメーの典型的な人間は、話のネタを外に求めちゃ
いけないような。そうでないような。
口ってどうやって利けばいいんだっけ。

そういうことをもろもろと考えています。
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意外と近いかもロシア

2009年05月16日 | 雑記
いい美術展でした。
渋谷の東急Bunkamuraで開催している、
「忘れえぬロシア 国立トレチャコフ美術館展」
に行きました。

車内ポスターなどで見かける、あの人を見下したまなざしの
魅力的な黒服の女性に目を留めた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
彼女の邦題が『忘れえぬ女』。
近くで見ると結構怖い顔でしたが、たしかに一度見たら頭に妬きつく
まなざしを持つ、それでいて静かな静かな画の彼女はほんとに素敵です。

が、今回目に止まったのはこの作者のイワン・クラムスコイではなく。

特筆したいのはフョードル・ワシーリエフ『白樺林の道』と、
コンスタンチン・コローヴィン『ジナイーダ・ペルツェワの肖像』の
二枚です。というかこの二人がなかなか面白いです。

フョードル・ワシーリエフ(1850~1873)、夭逝したかれの17歳頃の作品です。
後に義兄となるロシアを代表する風景画家、シーシキン(1832~1898)の影響を
よく受けてはいるものの、『白樺林の道』(『森の散歩』と比べてみてください)
は人目を惹く画です。

すべての色の落し方が荒っぽくて、一見乱雑ですが、落される色はみんな整然と
していて、完成された画を既にこの時点で描いています。
ものの形を的確に見抜き、色に落とし込まれた、馬に乗る男とその馬をひく
農家の女性。背の高い白樺の木陰が作る陰影と、白樺がうけるてっぺんの光との
陰影の差を、同じ緑の色の違いを見極めて、色を配置してゆく目は確かな上、
まだ二十歳にもなっていない筆には迷いがありません。
描きたいと思ったものをかける画家になれたことは間違いないでしょう。
後に技巧を学び、描いたものにくらべると、まだ何かわけのわからない勢いが
ひしひし伝わってきます。

きっとこの画家、長生きして技術を磨き、磨いた上でまたここに戻ってくる
ことが出来た上で、名作を書く才能があったんじゃないかな、そういう気が
しました。後半の、ロマン主義に影響された絵の数々を見ていると、
技術の吸収の早さに、つくづくと惜しまれた才能を見出せると思います。


さて、この展覧会には、注意書きがありませんが3メートル以上離れて
観なければいけない画がふたつ、ありました。
ひとつは、イリヤ・レーピン(1840~1930)作『国会評議員、イワン・
ゴレムキンとニコライ・ゲラルドの肖像』。

最初、絵が並んでいる順番に、画面から体一つ離れたほどの近い距離で観たとき
は、他の絵とくらべてひどくべったりしてぼやけた絵だと思い、
見過ごしていました。
けれどもう一度館内を廻り『忘れえぬ女』の壁から斜めにふと目に入ったとき、
突然ピントが合って画面が動き出しました。
描かれた人間の印象がそこではじめてしっかりと目に入ったのです。
いかめしい軍服でしょうか、たすきがけの赤い絵の具が布になり、
顔を寄せ合って話し合うはねた髭の男二人の、スキのない輪郭が浮かび上がりま
す。
このレーピンという人は、『秋の花束』という絵がロシアの絵画史で有名
なのですが、こちらも離れてみるとぐっと引き締まるたたずまいの絵でした。

そしてもうひとつは、コンスタンチン・コローヴィン(1861~1939)作
『ジナイーダ・ペルツェワの肖像』です。図録の印刷では彼の絵、全部絵の具がぐ
ちゃっとつぶれて悲惨なことになっていますが、絵の前に立っても最初はやっぱり
つぶれた絵だなあと思いました。けれどどこか目が離せない、気になってしょうが
ない絵でもありました。
先のワシーリエフのように、どこか勢いが他の画家と違うのです。
そうしてくるっともう一周、最後を飾る絵を椅子の向かいから向き合ったとき、
『ジナイーダ~』嬢の白い首筋とドレスがくっきりと画面から浮き出してきて、
はっとさせられました。
映えます。すこし落とした照明の展示に、座る女が正面に出て、
赤みの混じる暗さの背景が後ろに下がり、
焦点が合って女の顔がよりはっきりと見えてくるのです。

ジナイーダ嬢はこちらを見ていました。あの『忘れえぬ女』のように。
軽く顎を上げて、値踏みするような視線。座る足の組み方。六メートルほどでしょ
うか、離れると舞台女優のようにライトが当たって堂々とした絵になります。
画集を広げてみて印刷のつたなさが、ほんとにもったいないです。



今回の展示は、絵の技法こそ、印象派やリアリズムと固まってはいますが、
のちに抽象画の巨匠カンディンスキーを生み出す少し前の時代の、
ロシアの生活の空気がどの絵にもいっぱいに詰まっていることは間違いないです。
美で知られる国の感覚に、初めて触れた思いでまったりと時間をすごしました。

最後に。
イリヤ・レーピンの『秋の花束』の女性。

南○キャンディースの彼女にそっくりなんですけど!!!
誰もつっこまないんですか!!!同じだよね!!ねえ!?!!(同意を求めるな)
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近代浪漫派文庫・28「河井寛次郎・棟方志功」読了(2)

2009年05月13日 | 読書
前回から続き、河井寛次郎パートの紹介です。
ちょっと微妙な仕上がりになってしまいました。

:河井寛次郎 「六十年前の今」(抄)

 芸術家の目と職人の指先をもつ人だ。河井寛次郎の文章は、ただひたすら読者
へ、彼が見たものそのままを想起させるために必要な言葉だけで出来ている。
没した後、昭和四十一年に刊行された「六十年前の今」は、彼がこどもの頃見た山
陰の風景を文字に落とした随筆である。
だから書き出しに『子供達は~』や『その頃の…は~』が多く目だつ。
後半につれ、原稿用紙のフォーマットを作ってるでしょう、と疑いたくなるほど
この二つの言葉はよく登場するのだ。
それでも、これは回顧録にはならない。一つ一つが完成されたスケッチだからだ。
河井の文は、まるでつばめのように鋭角に飛ぶ。

『燕は麦畑の上を飛んだ。苗代田の上を飛んだ。菜の花や豌豆の花の上を飛んだ。
庫の白壁をかすめ、雨の斜線を切り、柳の緑を縫い、河原の砂洲に無数の影を落した。』

 燕尾服の尾を持つあの黒いちいさな鳥が、風をきって飛ぶ道筋もさながら、
そのさわやかな速さまでが完全な、ことばのリズムが響いてくる。
その一瞬のスケッチから、続いて人と風物との動きが河井のゆたかな思いに
あわせてゆっくりとあらわれる。この一連をわずかに数ページに収めてしまう、
それでいてボリュームが損なわれない、河井寛次郎の豊かさは、棟方の
芳醇さとはまた違う、削いだ簡潔さの魅力でもあるだろう。(約490字)




最近よく読む本は、
語る言葉を豊潤に持つことを、意図的に学ばなくてもできた時代の人が
書く文章たちばかりです。
きっとずっと後の時代には、それがとても幸せで、すばらしいことなのだと
価値を見出せることがまず、結構な上等として扱われてしまうように
なるんじゃないでしょうか。
言葉をただたくさん持つだけじゃだめなのです。
「豊か」で「潤い」のある、やさしい言葉がすらすらと出てきて初めて、
言葉をもつ幸せを噛み締めることが出来るのではないでしょうか。

2011年からの、小学校の英語・義務化の混乱に添えて、つくづくと思います。
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近代浪漫派文庫・28「河井寛次郎・棟方志功」読了(1)

2009年05月10日 | 読書
書く書くと絶叫していてぱったり途絶えているものがあるのですが。
考えているうちにどん詰まりになって手が止まっています。

余裕をもつとゆうことを考えて、余裕が持てない人の典型なのです。うーん。

:近代浪漫派文庫 28「河井寛次郎・棟方志功」 新学社 2004年

 近代日本の文学者・芸術家を「浪漫的心性」に基づいて選び、
42冊に厳選した新学社の文庫シリーズ、28番目に収められているのが本書である。
旧仮名遣いを改めず(これはとてもえらいことだ)、
維新草莾詩文集に始まり、三島由紀夫で終わるシリーズの、
折り返しからすこし過ぎたあたりか。
河井寛次郎と棟方志功、深い交わりの目立つ二人ではあるものの、
河井と共にたいがい並べられる柳宗悦や浜田庄治ではなく、
あえて棟方を選んだところが「浪漫的」なのだろうか。
二人ともちょっと説教臭いからだろうか。うーん。

 ともかくも、詩をつくり文章もうまい河井と、
感性の天才棟方の、二人の芸術家書くところの随筆だ。
対照的である。かっちりした構成の河井に、
口からこぼれたことばのまま書きつぐ棟方。
どちらも語りきれないので、一人ずつ紹介することとする。

今日は、棟方だけ。

棟方志功 「板響神(抄)」

 文化勲章を受章した画家、棟方志功が、雑誌やラジオの原稿として、
個々に書き下ろされた随筆を集めた文集「板響神」は初版が昭和二十三年。
中から二十本ほど抜き出して収録した本書で目を惹くのは
やはりその言葉づかいである。『~気が附くんですね。』や
『~もんですネ。』など語りかける言葉が文に落ちても自然なままで残っている。
黙読でも棟方の節回しが直接響いてくるのだ。
そして何より、すなおな感覚とするどい眼差しが、
どの随筆のどの文をとっても溢れている。
たとえば、「瞞着川(だましがわ)」「並・瞞着川」の同じネムの木の書き方。

『ネムのフランス色とこの白さと花形のフサフサとバツクリが、
いかがはしい。(「瞞着川」より)』

『ネムがこの頃、まつ盛りで、だまつていても、
この川の橋まで来ると、ねむくなるのですよ。(「並~」より) 』

 同じネムを「いかがはしい」と見るときと、
「だまつていても」「ねむくなる」と思ったときとをぽんと書きわける。
画布に踊る奔放な筆が、原稿用紙に移っても、
棟方は自身が生み出したあどけない表情の仏達そのままに文が書けるのだ。
ことばは子供のようにかわゆいが、思考は炎のように熱い。
エネルギーの埋まる、ただならない文章である。(507文字)
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袁枚著・青木正児訳「随園食単」読了

2009年05月08日 | 読書
どしゃぶり雷いねむり、の三重苦に悩みながらもまた一日がおわりました。
こうして机に向って、ものを書くのはやっぱり好きです。

本についてものを書くことに、いろいろと試してみようと思いました。
コラムのカテゴリのときは、平均して800字前後を心がけていますが、
普通の感想文の時は、このくらいで丁度良いのかも、と思い、ちょっと
ためしてみました。


:「随園食単」岩波文庫 袁枚著 青木正児訳 初出1980年

 袁枚、またの名を随園(1716-97) 。中国は清の時代、詩人として、
また「子不語」など説話集の執筆でも名を知られた文人の大家である。
金満家で、当然の如く美食家だった。題名の「食単」は「料理メモ」と訳されている。
どうやら袁枚の食した食の数々を記していったものらしい。
『食いしん坊の随園が、旨い物を嘗め尽し、味わい尽した晩年の記録として尊重さるべきであろう。』
と、訳者の青木正児が冒頭の解説で述べたそのままに、
三大珍味から点心、おそうざいまで幅広い料理の品々が、実にさらっと記されているのだ。

 たとえば、「熏卵(シュン・タン)-いぶし卵」という料理。
『鶏卵に調味料を加えて煮上げてから、微かに熏し乾かし、片(ひら)に切って盤中に盛ると、御馳走のあしらいになる。』
一本いっぽん、料理を拾ってゆくうち、実は書かれていることがレシピではなくて、
とても短いエッセイの連続なのがわかる。
何より青木当人が、酒も肴も大好きな食通だけに、
料理の手順一連が、中国語の料理名の訳とすなおにつながるのだ。
袁枚がこめた食べ物への思いを、時にシニカルに誤字を指摘しながら
丁寧に拾い上げる青木の仕事が、本文、注どちらからもかいまみえてとても楽しい。
(493字)
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