えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・行きはのこのこ帰りは千鳥

2018年09月22日 | コラム
 のんびりと一杯を過ごして真上に上限の月を見た。駅から自宅の近場のバス停に向かうバスに間に合ったので最前列の高い席に座って頭痛の痛みを響かせるに任せている。たった三時間前に飲んだ酒が、三時間の間に身体をぐるりと巡って指先全てが夜目にも赤く染まっている。肌が白ければ粋な光景なのだろうな、と、夏場で日焼けした肌を撫でながら思った。

 すっかり酒を過ごしてしまい、地下鉄のホームで小さなお茶のペットボトルを買って電車が来る二分間の間に飲み干した。言わなければ(当たり前なのだが)水を出さない居酒屋で喉が渇いていたおかげで、普段は少しずつ飲んで十分ほどかかるボトルがあっという間に空になった。冷たいお茶がうまかった。

 はたから見ればあからさまに酔っている。足のコントロールは利いてはいるものの、うっかりと人にぶつかりそうになった時、踏ん張りがきかずよろめいた足を見て帰ろうとようやく帰ろうと思い立った。地下鉄を降りた先の寄り道だった。

 店の階段を登ると日は暮れていて、それでも架線をくぐって慣れた道を歩くと赤ちょうちんのように内側から紙を透かした灯りが道の角でほのぼのと点っている。痛む足を休めようと「お好きな席へどうぞ」と、座敷席に座って御前汁粉を頼んだ。昔よりも200円程度値上がりして量は気持ち減ったような、しかし味は変わらない上品の薄い甘さを、しその実をかじりながら頂いて、まだ浮ついた足取りを使って家に向かう電車に乗り眠って過ごした。

 虫の声を聞きながら通り過ぎた雨あがりの公園は、欅の蒸れ籠った匂いと土の匂いがまぜこぜに合わさり、歩みに合わせて遠ざかって行った。
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・お経しょうばい

2018年09月08日 | コラム
 大きなお寺社へ行くと、外国人観光客が手水に群がっている。小さなお宮でもテレビでさんざ紹介されたおかげか、カップルの主に男性のほうが得意顔で手水のかけ方を彼女に教えている姿をちょくちょく見かける。彼女のほうは「へえ、そうなんだ。物知りなんだね」と彼氏を立てていながら目はつまらなそうにしている。

 神様や仏様のおわします場所に入るため、汚れを落とすために右手に柄杓を持ち左手へ水をかけ、清めた左手で右手に水をかける。最後に左手で水を受け、口をゆすぎ、また左手に水をかけ、ひしゃくの柄に残った水を伝わらせて一通り清める。だが濡れっぱなしの手が心地よくないのか、おおかたは清めた手を鞄から取り出したハンカチなどで拭いてしまう。良し悪しはともかく、理屈で堅苦しく考えるとハンカチは清められていないことになり、せっかく清めた手へまた穢れをくっつける次第となる。結局清めの手順は何だっんだ、という疑問もまた穢れかもしれないので、黙ってそのまま拝殿へ向かった。

 ある時、とあるお寺の手水舎の柱に白い布が翻っていた。手を拭くためにお寺が用意したのか、と手に取ると、それは般若心境が印刷された手ぬぐいだった。デザイン化された字ではなく、きちんとした書体でお経が布一杯に書かれている。悔しいがお清めという理屈にはかなっている。誰かがつっこみを入れたのか、それともお寺が考えたのは不明なものの、今のところこのお寺でしか見たことのない手ぬぐいなので、他のお寺社でも導入すればそれなりにレンタルなどのしょうばいになるのではないだろうか。そのお寺の授与所に行ったら手ぬぐいを色違い二色用意して販売していたので、お寺社周りをする方にも優しいといえば聞こえはいいだろうか。実質はしょうばいだ。しかもやり手の。
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