えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・振り返る街

2023年06月24日 | コラム
 建物が壊されるとタケノコのようにマンションが生える。住宅街ならば見かけのそっくりな建売住宅が、かつては庭のあった家をコンクリートで踏み固めてぎゅうぎゅうに、多い時は旗竿地まで作って三軒も建てられている。建物と建物を隔てる距離は短くマンションの部屋の壁や天井よりは離れてはいるものの、大きな音を出せばすぐ聞こえ、匂いの強い料理を作れば窓から窓へと伝わる距離しか離れていない。昔ながらのブロック塀は撤去され家と家を隔てるものは弱々しい針金の柵でしかなく、今日も以前は高いブロック塀から金木犀の木が鳥の住処を提供しているのが見える限りの家が数ヶ月でなくなり、跡地にできた三つ子の家の前に引越し業者の車が止まっていた。個人商店はあっという間に整地され、庭のある家も整地され、商店街も整地され、跡地には家しかない。何か買い物をしたい時はコンビニかショッピングモールという極端しか選べない。町内会には入らない。
 そうしてマンションの部屋の延長で家を買って住んでいる人の顔を私達は知らない。向こうも知らないふりをしている。不動産会社だけが気長に虎視眈々と私達の家の持ち主の命が絶えることを待っている。潰したらいくつ家ができるかを指折り待たれながらかろうじて洗濯物だけが人の存在を示す家だけの街を不気味に思いながらかつての住民は一人で歩いている。公園に集まる人はマンションに戻っていく。家に戻る人は見かけない。庭というものは家に潰されてなくなった。人間以外の場所を知らない人間だけが街を作り、そのうち振り返ると本当に人間しかいなくなって、ペットショップで生き物を買い飼育する。家の中で。
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・ローグライクに似て非なる

2023年06月10日 | コラム
『俺の屍を超えていけ』とローグライクゲームはランダム性という部分の煽り方が似ている。悲惨な物語であり、キャラクターロストという「人間の死」のシミュレーションを何度も強制されるにもかかわらず、何周もしてしまうのはランダム性と法則性の塩梅が絶妙に成り立っているおかげだ。たとえば最初にどちらの性別を選ぶかの時点でその後に取れる手段がある程度限られ、思うルートを取るためには戦略が必要だ。けれども実際にダンジョンへ潜ってみても、ローグライクゲームにおけるフロアと同様に取得できるものは限られている上、手に入るかどうかは運に任されている。かといって運だけで道を切り開こうとすると容赦のないキャラロストが待っており、ローグライクよりもきついペナルティが課される。このペナルティを回避する行動を学ぶことが本作における定法だ。
 慣れてくるに従って無茶を侵すことも増えてくるが、それは選択肢を自発的に増やすことであり、思考のルーティンを徐々に外していく過程ともなる。リソースが限られていればいるほど目的が広がっているうちが面白い。クリアが目に見えると手が止まってしまうのはご愛嬌だ。目的の縮小はゲームの終焉へと近づく。その過程を楽しむゲームの終わりは、そんなに濃くなくても良い。
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