えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・春は歯科M

2018年04月28日 | コラム
 行きつけの歯医者がビルの老朽化にともなって移転した。横着がって無沙汰を決め込み一年が過ぎてしまったので重い腰を上げて歯科検診に行った。こればかりは自腹を切って行かなければならないので仕方ない。毎回のように治療中に呟かれる単語へ怯えながら椅子に固定されに向かうのだ。

 新しい医院は住宅街の手前にあった。数歩歩けば閑静な戸建てが並び、一軒家をそのまま借りたのか医院の庭には細長い石灯籠があった。入り口に掛けられた「初診歓迎」の看板も初々しい気がするが、中に入ればいつもの小母さんが受付に座っていた。早速初診用の書類を突き出される。移転する際に一度医院を閉め、新しく開院した都合だという。「歯を抜いた本数」などの質問が香ばしい。子供のころから通っている身からするとむしろそちらの方が詳しいのでは、と思いながら麻酔の経験(無論歯を抜いた際に数回かけられた)の有無など歯科らしい質問に答え、最後に血圧をうろ覚えで書いて提出するとしばらくして医者が顔を出した。「ああ、前にも来ていた方ね。入ってもらっていいや」私の顔を見るなり放たれたセリフの語尾に一抹の不安を覚えながら、早く来すぎてしまった時間が無駄にならずに済んだとほっとしながら見慣れた椅子へ背中を預けた。

「どこか気になるところはありますか」「左の上下がむずむずします」「そうですか」
 新しくカルテを作り直しているのか、開けっ放しの口の中身を逐一確認しながら「A」「C」「なし」などの言葉を、若めの助手が書き留めている気配がする。こちらは下あごに唾液を溜めながらライトの中心の小さな鏡を眺めている。また歯石ですねと歯磨きの粗をつつかれ、クリーニングが始まるのだろうと余裕をこいていた患者へ医者は無碍に告げた。

「ここ虫歯ですね、それとここの詰め物。黒くなっているでしょう。取れかけています。あと歯石。今日全部やりますね」

 久々に耳と神経に轟く機械音を口へ叩き込まれ、次々突っ込まれる小型の万力やドリルが動くたびに鋭い痛みが走るが薄い胸元には既に他の道具が並べられており身動きもできない。かろうじて足元と手元で意思表示はできるものの止める権利はない。そもそもこれが治療なのでストップされるとこちらが困るので抵抗もできない。懐かしい痛みに笑い交じり苦しみ交じりで口をゆがませる自分を、脇で唾液を吸い取る機械を捧げる助手立場から見たらそれなりに面白そうだと思うくらいには現実逃避をしていたと思う。

 治療と歯石のクリーニングと「ここ虫歯になりかけなので良く磨いてください」との注意とも預言ともとれる一言を投げられて検診は終わった。
「次はいつ頃来ればいいですか」「半年後ですかね」
 初診料と治療費含む支払いを終えてとぼとぼと食べられない三十分の帰路、「メロンパン専門店」の店先がやけに恨めしく飛び込んで見えた。
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・きみは今こいし

2018年04月14日 | コラム
「引き取った頃はすごく太っていて、ゆでキャベツで1.5kgもダイエットさせました」
「そりゃ苦労ですね」

 駅までの道中で散歩中の犬を撫でた。黒いロングコートのチワワで品の良い少女のような顔立ちをしていた。飼い主の女性に伺うと名前は「アンジュ」で、保護したのだという。何でも前の飼い主の若夫婦が、子どもを二人産んだことを切欠に世話を放棄され、現在の飼い主が引き取った頃にはトイレの時以外にケージから出してもらえず、折角の長い毛並みもフケだらけの有様だったそうだ。

「女の子が欲しかったそうなんですけどね、二人とも男の子で予定通りいかなかったせいなのかなあ。奥さんがノイローゼのようになってしまったんですよ」
 この子は女の子だから、長女として可愛がってあげれば良かったのに、と、「アンジュ」の顔をくすぐりながら現飼い主は言った。「天使」という意味の名前をつけられて溺愛されながら、急に態度と生活をひっくり返された様子へ『山椒大夫』の「安寿」を思い浮かべて口に出すのはやめた。「そのご夫婦も余裕がなくなってしまったのでしょうね」と返す私へチワワはすっかり背中を預け、いい加減に毛を梳いたり小さな背中を揉んだりと好き放題させていた。

 犬のくせに他の犬が苦手で、周囲の空気にも敏感な安寿は撫でられている間も人が通ると首をもたげて緊張した面持ちになっていた。現飼い主の尽力でかなり心は落ち着いたそうだが、忙しくて安寿をかまえない時にはあからさまに不安な様子を見せ、夜も突然起きて、まるで「まだ自分は前の家にいるのだろうか」と怖がるようにきょろきょろする。現飼い主に「大丈夫だよ」と撫でられ、宥められて眠るのだという。
「時間をかければもっと落ち着いてくれると思うけれど、一度受けた経験をゼロにはできないでしょうね」
 撫でるのがへたくそなのを見抜かれたか、現飼い主の膝元へ安寿は戻って座り込み、頬から喉にかけてゆるゆると撫でられていた。

 ケージの一件から安寿は家では絶対に用を足そうとはせず、一度我慢できずに粗相をしたところへ置かれた犬用のトイレも使わない。そのため毎日の散歩は絶対で、安寿を理由に外出ができる、と飼い主は冗談交じりに言った。「家でトイレをするとケージに閉じ込められて出してもらえない」という安寿の思い込みは強く、用を足さないのではなく足せないのではないか、と飼い主は言った。家でもケージは使わずに好きにさせているが、いたずらもせず大人しいとのことだ。

 この話の間、安寿は一度も吠えなかった。私に背を預けたのも、背中を掻いてくれろとくつろいだ気分になっているのだそうだ。最初に近寄ってきたのは安寿からで、手の匂いを嗅いで軽く撫でられても声を上げなかったところ、そういう解釈でよいのだろう。真意は安寿の胸の中だが、欅木立を歩き去ってゆく安寿はどことなく穏やかに見えた。
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