えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

いとしの図書館

2009年01月30日 | 雑記
(雑記・50回目に寄せて)

今日、ひとつお別れをしました。

だんだんと、間近に、大学との別れが近づいています。

授業と言う形ではもうさよならが済んで、
友人とはまだまだ、先があって、
次の行き先からは日ごとにメールが来て、
どんどんわたしはここから離れてゆくのだな、と思います。

大学2年の時から、図書館で配架のアルバイトを続けていました。
図書館の元に返ってきた本を、書架に返してあげるアルバイトです。
本にたくさん触れられて、わたしの背からは見えない上の書棚や
しゃがまないと見えない下の書棚に、いろんな本があることがわかって、
そういうことのいちいちが、ひどくすきなのでした。

本が好き。

それだけではじめたものだったのに、
あらためて、お礼を言われて、手を握って挨拶されて、
面と向かって惜別。
本とだけの別れだと思っていたのですが、
思っていたよりもずっと、
人との別れ、それがあるのだなと思っています。

学生としてここにもういられない、
わたしのかわりに新しい誰かがここに来ている、
そういう寂しさよりも、
わざわざわたしを呼び求めて、
面と向かってお別れしてくれた職員の方が
ひどくあったかくて、
別れがたくて、

ここまでかなしくなるものか、と、

今、とてもこまっています。

なので、
見えないところでもお礼を言わせてください。

図書館と、図書館にまつわる人たちに、
4年間、おせわになりました。
本と触れあえた3年間をくれて、ありがとうございました。
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佐藤雅彦「ねっとのおやつ」読了

2009年01月29日 | 読書
昨日はちょっとだけ散々な目に合いました。
でも今日はとってもたのしかった。
二日間いろんな気分を紛らわしてくれた本が今日の本です。

:マガジンハウス「ねっとのおやつ」佐藤雅彦 著

「ピタゴラスイッチ」をつくった人ですといえばわかりやすいでしょうか。
「ピタゴラスイッチ」をやる前に、佐藤雅彦さんはソニー系列の会社と組んで、
 毎日プチアニメーションを届けるという非常に贅沢なメルマガをつくっていました。
「だんご三兄弟」のあの絵がもろもろ動いているってだけでも贅沢なのに、
毎日一本完結したネタが提供されるのはものすごい。

絵も字もまるっこくてかわいいのですが、
佐藤さんはゆるかわいいものに見られるのが嫌だったようで、
文庫本のタイトルは「四国はどこまで入れ替えられるか」に変更されています。
たぶん同じ本だと思うのですが。

この人の場合、絵や文字がかわいくて「クスっ」と笑うことよりも、
その笑った理由をいちいち考えさせられるきっかけをくれるところが、
他の一本ネタものよりも面白いのだと思います。
あと、非常に映像的な発想をする方。
「音から発想する」とよくいろんな本でお話なさっていますが、
やっぱりCMから出てきた人だけあって、紙メディアになっていても
呼吸の取り方がとってもうまい。
間、とも言いますけど、余白の使い方とユーモアのセンスは
当代一の所にいる人でしょう。
なんていっていても言い尽くされちゃってますけど。

CD-ROM版がほしいなあ。


あとどうでもいいのですが、若本規夫さん(「サザエさん」の
「穴子さん」のひと)のオカマ言葉はひどすぎます。おなかがいたいです。
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奥野信太郎「中国文学十二話」読了

2009年01月26日 | 読書
:NHKブックス「中国文学十二話」 奥野信太郎著 村松瑛編

タイトルにセンスが無いので今後は読んだらこういうふうにします。
(朝令暮改の可能性高し)
「雑記」の50回目は諸事情で取っておきたいので、
しばらくはこれで頑張ります。

さて。

ほんのりとご存知の方もいらっしゃると思いますが、
私は「三国志」が好きです。
ですがこれだけ好き、というわけでもなくて、
元々中国伝奇小説にお熱だったから、中国つながりで
「三国志」好きにもなった、という感じです。
わりとおおざっぱなものの読み方をしています。
そういう大雑把に対して、

『いったい文学史というものを読むときに一つ注意していただきたいことは、
(中略)なんといっても文学史は文学の歴史でありますから、まず作品を
読んでいただきたい』(本書P52より引用)

と厳しく叱り飛ばすのが本書と言うと大うそになります。
昭和39年1月20日から十二回にわたって、NHKのFM放送「朝の講座」で
放送したものの速記録を村松氏がまとめたものが本書です。

放送で流したものなので、基本的には先のようにずっと口語体で
書かれている、つまりですます調なので親しみがもてます。
その上、校正が入っているとはいえ、言葉遣いがとてもきれいなので
とても読みやすい。

だいたいわたしは、日本の人が日本語で書いた本に対しては、まず
言葉から入ってしまう、語り口がとても上手い人だとワーイと飛びつく悪癖が
あるのですが、この本はそうしてみると言葉も内容も満足でした。
「詩経」から始まり、「紅楼夢」で終わる。
こう書くとただの文学史論で終わりそうですが、
普通中国文学、というと、まず詩、次に詩、ちょびっと小説、という感じで、
どちらかといえば言葉、そして人にスポットを当てて、面白おかしく
取り上げるのが多かったりするところを、豊富な話題がカバーしている。

中国の歴史は非常に長いのですが、その歴史の中でポイントとなる箇所、
たとえば六朝から唐にかけては伝奇小説、
南北宋なら戯曲、
明から清にかけては散文とざっくりした流れがあります。
これ全部を、奥野氏の話題はカバーしきっている。
それだけでも面白いのに、時折加えられる考察が、

『ひと口でかたづけますと、この六朝文学と言うものは
非常に感覚的な文学であったといってよろしいと思います。
すべて、感覚を通して思惟の世界に踏み込んでゆく。
(中略)
まず感覚からそして思惟の世界への展開を見せるという、
これが一つの大きな特色ではなかったかと思うのであります。』

これは放送しながら喋ったものだからこそ、感覚的にとらえた本質を
喋ることが出来たのだろうと思います。
文学の一連の流れを追いながら、本質を適宜に突いている、
非常に親切な一冊でした。
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若島正訳「ロリータ」読了

2009年01月23日 | 読書
こんな若造が、何もいえません。

:新潮文庫「ロリータ」 ウラジミール・ナボコフ作 若島正訳:

ロリータ。

『ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。
舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。』

はじめからこの勢い、この熱さで日本語がはじまります。

『舌の先が口蓋を三歩下がって』
『三歩目にそっと歯を叩く。』

若島正さんの日本語がもうすばらしい。
言葉のリズムを、あの外国語訳のバタ臭さとうまく混ぜ合わせて
使いこなしている見事さです。
そして、ナボコフを解き明かそうとする若島さんの注の詳しさも、
本文と同じくらい熱いのです。

一気に通しては読めませんでしたが、
こつこつ読み続けるのに耐えうる飽きないことばが詰まっています。
凄いテンポ、凄い熱気。
惚れます。若島先生に。(おい!
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線を書くこと

2009年01月21日 | 雑記
文字による絵の描写はひどく難しいです。
きらいではないのですが、質感を自分の好きに書いても、
他人が必ずしもそれを理解してくれる、ということはないのです。

そういうことを考えていかないと、誰かに読んでもらう文と言うものは
かけないのだなと痛感します。
書いても意味は無いのだなと痛感します。

読者を想定する、ことを考えすぎるのも、
自分の思考にのめりこみすぎるのも、考え物だということなのです。
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変えてみました。

2009年01月19日 | コラム
読みづらさを解消するため、
テンプレートをこっちに移してみました。

また昔(とはいえこれは先月書いたもの)のコラムです。

――『ファミリーポートレイト』 桜庭一樹
:狙わない出会い

 母の買い物に付き合いカートを押していたら『文芸春秋』の2009年1月号がぴんと目に付いた。何事もなかったかのようにかごへ放り込んでレジへ。読む。いた。桜庭一樹が。ヘアピンでまとめた前髪とボーダーの上着が変に高校生のようで、ちょっとしたハコフグみたいにぷっとふくれた笑みの口元は、眉といっしょに右側だけくっと上がっている。左目は野良犬並みに隙が無い。隣の川上未央子、次ページの井上荒野、楊逸の眼球と同じ光り方。静止画でもこちらを射抜く容赦のなさにぞうっとする。その視線とヘアピンが、桜庭一樹はずっと独身でいるのかな、と思わせる。

 母親マコと二人で育つコマコがおとなになって、ある形で母親と再会するまでを激しく描くこの作品、「あたしは黙って起き上がって、愛しいママを見つめる」と、「『おい、豚。』」の両極端の言葉を織り交ぜる手際はため息混じりに女性らしい、と言っていいだろう。ただ、強い言葉はどちらも読者を容赦なく叩く。強制的に文が心に押し込まれる、たとえばすれちがいざまに手当たりしだい物を押し込むようなやりかただと、結局投げつけられた物体のショックしか残らないのだ。話の運びでちゃんとさわやかに昇華させているから後味スッキリ?そりゃ無茶だ。
 
 だって、独身女性の激しい感情を517ページにつめた書き下ろし、そんな怨念、自分で昇華できるくらいなら桜庭一樹はものを書かないと思う。ぎりぎりそれを隠して読ませるのは、ひとえにこの話がファンタジーだからだ。登場人物の誰にも体温が無いから、誰が血を流そうが涙しようが怒鳴ろうが完璧なくらい読者は蚊帳の外でいられる。話が進むにつれてコマコが希薄になってゆくのは、周囲の大人のトーンとおとなになるコマコの、大人具合の書き分けが子供時代のストックと言葉以外で差別化されていないからだ。極端な言葉を平易に置き換えてゆくと何にも残らない。ある意味すっきりしてる、と言えば、そうなのだけど。(798文字)

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小川洋子「猫を抱いて象と泳ぐ」読了

2009年01月16日 | コラム
課題用に書いたコラムです。
Wordで起こして、かきました。
ブログだとささーっと書いちゃいますが、
たったこれだけの量に、
今日は3時間近くかかってしまいました。
ブログでコラムはむずかしいな、と思います。
あと先日の日記を見ていただくと、なめくじうさぎが
まったくおんなじフレーズを使っている箇所がどこかに
あります。というかばればれです。
嗚呼。

:『猫を抱いて象と泳ぐ』 小川洋子作 文芸春秋社
――水の空想の棋譜

 名前の無い本である。小説の最初から最後まで、人間に名前が与えられることは無い。呼び名はつけられているが、それも「ミイラ」や「ポーン」、あるいは「老婆令嬢」、あるいは「事務局長」など、それぞれの役割を簡潔に示したものに過ぎない。「リトル・アリョーヒン」ですらも、人形の名前であるにも関わらず人形ではなく、人形と一体になってチェスを指すプレイヤーの呼び名でしかないのだ。

 主人公の指し手、「リトル・アリョーヒン」ではない彼の名は一度も出てこない。彼は、盤面を上ではなく机の下から見上げるために、人形の中に隠れその手を借りてチェスを指すからだ。実在したロシアの名人にあやかった名前アリョーヒンを知る対戦相手達は、その名ゆえに人形に隠れる者が卓越した指し手であることがわかる。
 
 ところが、この本はチェス人口の少ない日本語の本だ。アリョーヒンどころかルールすら知らない読者が大半だろう。だがそれを小川洋子は、つい熱を入れて説明口調になりそうなところを、主人公にテーブルの下からチェス盤を見上げさせることでかろやかにかわしている。こうして、読者が彼の目を借りてみるのは勝負を突き抜けた指し手の真情、それから水にたとえられる盤面の動きのみになるのだ。

『そこにはただチェスの海が広がるばかりだった。』
 この大海の、
『水面は頭上はるかに遠く、海底はあまりに深く、水はしんと冷たいのに少しも怖くない。(中略)少年は彼らとはぐれないよう海流に身を任せ、目を閉じる。すると海流のずっと先、光の帯が指し示す方角に、マスターの黒いキングが姿を現す。』

 プレイヤーはしんとした海淵に沈みながら、流れをとらえるまっすぐな目とそれをつかんで離さないしぶとさで泳ぐ。そして盤に一手を打ち込む。言葉の全てがここに収束していることは、ちょうど、集中したゲームを後で見直す時のように、一度通して読まなければ分からない。小川洋子の心にくいところだろう。(削れました。800文字)
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講談社「ヤサシイワタシ」読了

2009年01月12日 | コラム
どうもブログの、この□を利用して書くのと、
Wordに落とし込むのとでは感覚が違ってやりづらいです。
読みづらくてお目汚しです。すみません。

:『ヤサシイワタシ』ひぐちアサ 講談社 2001年

アフタヌーンで連載していたひぐちアサの『ヤサシイワタシ』は、
同じくアフタヌーンで連載中の『おおきく振りかぶって』にも
はっきり見られる観察眼を確認させられる作品だ。
大学生という、ふつうの人なら人生最後となる学生生活を舞台に、
おとな同士の関係の中で、背伸びするこどもをするどく描いている。

写真サークルに所属する大学二年生の芹生(せりお)と、
その一つ上の先輩廣須弥重(ひろす・やえ。以下弥重)。
実力が伴わない上人の話を利かず、行動力ばかりあるため
周りを引っ掻き回すトラブルメーカー弥重は、一見バイタリティが
あるけれども内実は、どうあがいてよいかすら分からないほど
追い詰められていて、それ故に結果を焦って失敗する。
あんまり詳しくは語れないけれども、この作者が、
弥重と同じか、あるいは同じような人間と触れた上で、
彼女の一番の急所がどこにあるのかを見抜いている目は
拍手すべきだろう。

その急所とは、先にも述べたが、

「背伸びするこども」

ということである。
弥重という女性は、心がおとなになりきれていないまま、
からだと行為だけがひたすらに先走っているこどもだ。
おとなにすがれなかった故に、来てくれる人に全力ですがってしまう
彼女は、他人からすれば、たぶん、彼女にしてやれることは、
哀れむことしかできないのだろう。

こう書くと結構重いものを取り扱ってるのかなと
思いきや、メッセージよりも「ショックの追体験」
(『ヤサシイワタシ』2巻 あとがきより)を目的とする作者は
実にかろやかに重さをかわしている。
きっと手数の多い人なのだろう。今後長くにわたって期待。
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新年早々

2009年01月08日 | 雑記
*写真撮影時刻:「09/01/01 04:11」

年越し電話の片手間にごりごりと書いたシロモノです。
そしてまた2次。あう。
カラーだと大抵女の子ばかり書いてしまいます。楽だからでしょうか。

もっと根気がほしいと思う昨今です。
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あけました。

2009年01月05日 | コラム
あけました。おめでとうございます!

あっという間に5ヶ月が過ぎまして、そろそろなめくじうさぎの
サボりグセも出てきているころあいでございます。
これからもつれづれ書いてゆこうと思います。
今年も、むしろ今年からも、よろしくお願いしますです。

ついては、お年玉とか高尚なものではないですけれど、
ちょっとだけよさげなコラムを出してみます。
書いた日時は2007年7月22日とアレですが、
かなりマシなほうなので。
時期的には本の出た少し後くらいだったと思われます。
めんどくさいかたはかっ飛ばしてくださって結構です。

では、今年もみなさまにいいことがありますように。

――コラム
『いい子は家で』青木淳悟作

「ばんかく」のえびせんべい「ゆかり」の味がなくなった。最近少し小さくなってしまったけれどえびの味が濃いせんべいだったのに、どういうわけか味がまったくなくなってしまったのだ。ページを繰っているうちに。

「いい子は家で」は、2005~2006年の間に青木淳悟の書いた、「家族」をモチーフとした短編三本を収めた作品集だ。家庭が三つ、親が三組、子供は全員息子。視点は子供からのものと重なりつつ、家庭を構成するひとびとをパーツとして俯瞰している。パーツを組み合わせることで全体を見渡すことなく核家族の様子が的確に書かれている。むしろ、パーツごとにしか絞れないほど家族はばらけて、部分部分でしかつながっていない。たとえば、全員で囲む食卓とか。

 積み上げられたタッパーの中身やむしられる塩焼きの鯛、コンビニの弁当の食事はどれもほそぼそと温度がなく水気のない歯ざわりを残してページの合間に埋もれてゆく。家庭の味というものがありながら実質無味乾燥な生活に挟まれれば食べ物の味も消えてゆくのが道理だ。無気力な食事の有様は食欲に無自覚で、その味を知っているはずなのに思い出すこともなくなってしまう。生活臭はあるけれども、味を感じない、味覚がないように不透明で、そのわりには何かを食べる描写が三本中どれにも必ず入っている。

 そして、コンビニはともかくとして、どの食事にもそれを作る母親の影は時に押し付けがましく、時にひっそりと見え隠れするのだ。その影に隠れるように父親がいる。いまの青木淳悟の食卓に母親はかかわっているのだろうか。子供のころはともかく大人の今も、母親の手による食事をたべている気配がうっすらと伝わる。独立を望んでいるのかいないのかわからないまま、3つの家庭はそれぞれの形に収束し、子供のいる家庭という姿勢はくずれないまま物語は終わった。
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