えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

大津のこと

2011年06月22日 | 雑記
東海道の終点の二歩くらい手前、あと山一つ越えれば京のみやこが待っている街が大津だ。滋賀県の県庁所在地でもある駅を降りたのは小雨の降る朝だった。通勤のピークは既に過ぎていて、駅を降りる人も登る人もまばら、どの駅に行っても見上げるほど高いビルの姿もなく、バスが2台も入ろうとすればいっぱいになってしまうほどの広さのロータリーにはタクシーが4台たむろしていた。かつては琵琶湖を望む宿場として栄えていた面影は、どうどうと東へ伸びる道路に交差してまっすぐ大津港へ伸びる坂の道のひろさにわずかに残されている。

ここで昔、京都へ向かう、あるいは江戸へ向かう旅人がちょっとした手土産に買っていたものがあった。大津絵である。正確にはぴったり大津ではなくて、ちょっと西の方に進んだ追分の辺りなのだけれども、ともかくそれが売り出されたのは大体1624~1643年の寛永のころだった。お金はないけれど、部屋にありがたい仏様や神様のお姿をかけておきたい普通の人々のための絵がその始まりだった。今で言えば絵葉書やペナントを壁に貼り付けて飾る、といったような感覚だと思う。それがだんだんと花売りの女や鬼たちの戯画になり、浮世絵のような絵に発展していった。店の傍で次から次へと描かれた線はせわしくて勢いがあり、はみだしても気にせずに俗臭をたっぷり匂わせている。
俳風柳多留に「手習子 大津絵ほどは どれも書き」と読まれているように、細筆で丁寧に描かれたり刷り出された絵からは程遠いつたなさ、できばえ。部屋に飾られてほこりや日光に晒されてぼろぼろになり、また新しい絵を買ってかけるための消費絵画だ。その繰り返されたつたなさの中に溶け込んでいた美しさが柳宗悦の目にとまり、再評価されたのは大谷で大津絵が描かれなくなった1900年代のすぐ後のことだった。

今でも三井寺の観音堂を右手に進み、神社を背にして坂を下りて鳥居をくぐった先に「大津絵の店」がある。今でも大津絵を書き続けている4代目の主人の店だ。古典的な画題のほか、各種の伝説から新しい画題を作って描くこともしている。その筆法は古い大津絵そのままで、ちょっと見ただけでは見分けがつかないほどそっくりに描くことができている。筆法と書いた。筆法なのだ。大津絵を大量に描いてきた無名の手の筆づかいの方法なのだ。それゆえ、下絵を敷いた絵を上から正確になぞろうとする手つきのように線が繊細にふるえ油断がない。黒地に緑で描かれた模様を、はみでないようにかつ直線に落ちないよう確実に描かれていた線は今に筆法を伝えようとする守り手そのものであり、青いすがたが美しいと切り取られたトマトのように熟さない線だった。ああやはりな、と思って店をあとにした。大津絵画家はいても大津絵はもうない。

もともとの絵の手の動かし方に一番似ているものは、お寺に出かけていって御朱印を頼むとなんとなくわかるのではないだろうか。仏様や神様の名前を描くために真剣になるからだに対して、朱墨をふくませてひとふでがきで朱印帳に滑らせてゆく手の余裕は慣れということばくらいが丁度よい。見ているうちに描き終えて最後に真ん中を押さえるようにはんこをぼん!と押してすかさず薄紙を敷く。線は太く悠々としている。描かれたものに価値はないのだけれど、そこはかとなく見ていて気持ちのよくなる線がくっきりと刻まれている。朱印帳と300円を出せばだれにでも、同じように描く。

それを見て受け取る感覚が、わずかに昔の感覚を思わせる気がするのだ。
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目と手

2011年06月12日 | 雑記
ものを見る視点は二つある。そのものを見た自分と、そのもの自体と。

なるたけものを作る手を考えながらものを見る。それは作者に近づくことだ。

近づくことであって、見つめることとは又少し異なってくる。

見るのも読むのも触るのもむつかしい。
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パソコンの音

2011年06月11日 | 雑記
何かしらタイピングをしている途中、金属でできたオープンリールを巻き取るような音に合わせて、左手を通して伝わる振動がある。パソコンが動くための大切な器官、ハードディスクがおそらく底に格納されている。壊すのが恐ろしくネジを抜いて蓋を開けてみたことはないのだけれど、あまりに速くたくさん回転している時は人間と同じで、使いすぎた神経のように細かく激しくふるえているのがわかるので、そこにあるのだろう。回転と信号をうまい具合に組み合わせて機械は動いている。

コンピュータとしてはもう寿命で、起動するたびに古いMDをコンポにかけたときのようなかすれた音を立てながら、いっしょうけんめいに命令を実行する。時間はずっとかかるようになった。起動させてすぐにソフトウェアを使おうとすると、まずツールバーにそのソフトウェアの名前が表示される。「ちょっと待って下さい、これをやればいいんですよね」と命令を確認して、「私はこれを覚えています。やろうとしています」と看板をかかげる。たとえばメールを送ろうとソフトを起動させると、まずそのソフトウェアの準備ができるまでに3分、たまったメールを受け取るまでに2分、「新規作成」ボタンを押してメール作成用の画面をもうひとつ出すのにまた2分、たまたまウィルスソフトの更新作業にかちあうとさらに時間が加わる。必死なのだとほほえましくなる。一旦起動すればきちんと動いてくれることがわかっているので、電源をつけて使いたいソフトウェアのボタンをいくつか押して、しばらくほっぽらかしておけば用事を済ませて戻ってくるころには準備が終っているのだ。そしてそのころには規則正しく吐き出される息のようなファンの音だけがしんしんとパソコンから響いている。呼吸が整ったあとは同時並行の作業も平然とこなしてくれる。えらいなあと思う。(さすがに動画などのダウンロードには息切れするようだけれど)

息切れとか吐き出すとか、だんだんと音が呼吸になっている書き方をしているけれども、愛着があるから人のように思えているわけでもなく、コンピュータが動くためには空気の流れが必要で、涼しい空気を取り込み電気で熱くなった空気を排熱する仕組みがあるというそれだけのことなのだ。「竹中さん」という名前はあるけれども。
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